8 シナモン・ジンジャー甘酒
七月八日月曜日。
朝五時にスマホの目覚ましが鳴る。カーテンと窓を開けると、大雨が降っている。薄暗い。
…どうやって、行こう。雨合羽あるかな。
スマホのバイブが震えた。「純喫茶ぎふまふ」と表示されている。電話を取ると、三佐子さんの声。
「これだけ雨が降ると、お客さんも来んけん、今日はお兄さんも来んでいい」
「雨が止んだら行くよ」
「いや、来んでええけん。今日は来ないで…」
天候で電波が悪いせいか、だんだん、声が小さくなって、切れてしまった。すぐに折り返したが、繋がらない。時間を置いてかけ直しても、通話中の音。ものすごく気になる。母親に雨合羽のことを聞くと、靴箱の中から、父親のを出してくれた。
雨合羽を羽織って、自転車に跨り、大雨の中に飛び出した。
団地の道を下る。広島熊野道路を横切る交差点。月曜日だが、まだ早朝。交通量が少ないのが、信号待ちを一層長く感じさせる。雨は容赦なく、雨合羽を打つ。地肌が露出している手の甲が痛い。靴も靴下もグチョグチョに濡れている。ようやく、青に変わる。猛スピードで坂道を下る。もうすぐ、矢野駅というところで、傘を差した女性の後ろ姿を見た。スカートから、異常に細い足が出ている。
…子ども? にしては背が高い。
追い抜く瞬間に横目で見ると、向こうも少しこちらを向いた。目こそ合わないが顔が見えた。
…え?
震えが走った。昨夜も夢で見た、あの痩せ過ぎの女だ。
視線を前に戻したとき、バランスを崩した。思いきりブレーキを握ると、バチンバチンという音がしてワイヤーが切れた。反射的に自転車を横転させ、ハンドルから手を離した。自分は受け身を取り、両手を広げて止まったが、自転車は対抗車線に滑って行った。ちょうど走ってきた車がブレーキをかけて止まる。自転車は接触直前で止まった。車からネクタイをした男性が降りてきた。大雨に濡れながら、自転車のハンドルを持ち上げて起こし、路側帯に避けて、スタンドを立てた。
「大丈夫か?」
と声をかけてくれた。
「ごめんなさい」
謝罪しながら立ち上がり、手足の痛みを確認した。骨折や強い打撲はないようだ。
「大丈夫です。すみません」
「救急車、ええか」
自分の不注意で、この人までずぶ濡れになってしまった。申し訳ない。
「ほんと、ごめんなさい。大丈夫です」
深々と頭を下げた。
「怪我がないならええよ。急ぐけん行くよ」
…あの女の人は?
振り返ってみたが、いなくなっている。
「すみません。さっき、そこにいた女の人は、どっちに行きましたか」
「誰かおった? 気が付かんかった」
「そうですか。ごめんなさい」
もう一度、頭を下げた。その人は、軽く手を上げ、車に乗って行ってしまった。
自転車のところに行く。ほかに壊れた様子はないが、前後両方のブレーキワイヤーが切れている。押して歩くしかない。雨合羽のどこかが破れたらしく、内側も濡れ始めた。矢野駅前、極楽橋を過ぎて、喫茶店の前に来た。
ドアに貼り紙、「臨時休店」と書いてある。
…店、休んだんだ。
店の前の駐輪スペースに自転車を置く。再び、入口に来て、ドアノブに手をかけたが、鍵がかかっている。叩いてみる。
「三佐子さん! 三佐子さーん!」
早朝、周辺は住宅なので、大声も出せない。駐車場に行ってみる。店名の書いてある軽バンがない。三佐子さんは車で出かけているようだ。
自分がストーカーに思えてきた。しかも、ずぶ濡れ。今日は帰ろう。ブレーキの利かない自転車は鍵をかけてそのまま置き、歩いて駅前のバス停に向かう。傘を持ってない。哀れな姿ではある。屋根のあるバス停に着き、雨合羽を脱いで鞄にかけた。振り返ると、駅のホームに人がいない。大雨で電車は始発から計画運休しているらしい。
三佐子さんは、こんな大雨の中、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
…僕は三佐子さんのことを何も知らない。
それと、あの痩せ過ぎの女の人。助けてくれた人は、気が付かなかったと言ったが、僕は、自転車で転ぶときに確かに見た。
…幽霊?
寒気がする。ニュータウン経由のバスが来た。五人ほどが一緒に乗る。ズボンも濡れているので、立っていたが、運転手に座るように言われ、右側の一人掛けの席に浅く腰を掛けた。バスが動き出す。
「あ!」
窓の外を見ると、さっき、自転車で転倒した辺り、痩せ過ぎの女の人がいる。キャスター付きバッグを左手に、右手で持った傘の下から、生気のない目でバスに乗った僕を見ているように見えた。
…怖い。
バスが進み、死角になり、見えなくなった。しばらく坂道を上ると、反対車線に軽バン。側面に「純喫茶ぎふまふ」と書いてある。
…三佐子さん!
一瞬、横顔が見えた。ハンドルを握る横顔は、緊迫しているように見えた。
バスは家の近くのバス停についた。硬貨を料金箱に入れて、雨合羽を上だけ羽織って、バスを降りる。雨は一層強くなっている。家まで、ダッシュした。
玄関を開けると、母親がずぶ濡れの息子にびっくりして、バスタオルを持って来た。
「お風呂にお湯入れようか」
「いや、シャワーでええ」
着替えを持って、バスルームに行き、お湯のシャワーを浴びた。体が温まり、ホッとする。
さっきの三佐子さんの様子が気になって、店に電話をしてみる。
…出ない。そういえば、あの電話が鳴ってるところに出くわしたことがない。
体を拭いて、着替えると、くしゃみが出始めた。悪寒がする。
「母さん、寒い」
僕の額に手を当て、「ちょっと熱いかな」。体温計で計ると三十七度五分、風邪を引いたようだ。
リビングに布団を敷いてくれた。
「朝ご飯は?」
「食べてない」
「食パン焼こうか」
「口の中が乾いとるけん、食べにくそう」
「卵酒、作ろうか」
「それ苦手というか、飲んだことない。母さん、作ったことある?」
「ない。じゃあ、甘酒作ろうか。飲む点滴っていうけんね」
「そっちの方がいい。生姜入れんとってね」
「生姜入れんと、甘酒にならんよ」
「じゃあ、要らん」
「子どもか! 分かった。特製甘酒を作ったげる」
「何かこわい」
母親はキッチンに行く。ちょっとふらつくが、心配なのでついて行く。
「寝ときんさい!」
「変なもの入れんように」
母親は冷蔵庫から未開封のビニール袋を出す。
「めったに手に入らん熊野町の地酒の酒粕。せっかく、冬に搾りたてをもらったのに、賞味期限ギリギリ」
「そんなことじゃろうと思った」
「一気に使わんにゃいけんけん、なかなか開けられんかったのよ」
鍋にお湯を沸かしながら、酒粕を手でちぎり入れる。木ベラで溶かすと、日本酒の香りが漂ってきた。沸騰してきたところで、砂糖をたっぶり入れる。
「本当はここで生姜を入れるんだけどね。今日はこれ」
と言いながら、薄茶色の粉を入れた。
「何? 変なもの入れんのよ」
「シナモンパウダー」
「シナモン…。どんな味になるん?」
「分からん。やったことない」
「ほら、やっぱり」
母親は小皿にとって味見して、「もうちょっとかな」と言って、シナモンをドバドバと入れた。
…ああああ、たぶん入れ過ぎ。
酒粕のカスも濾さずに、おたまで掬いお椀に注いだ。
「飲んでみ」
ゆっくり口を付ける。
「熱!」
「熱いけんね」
「先に言うてよ」
「味は?」
「美味しい」
「じゃろ。これも入れてみ」
と言って、チューブに入った生姜を、ブチュっとねじ込んだ。
「あ!」
「じゃけん、飲んでみ」
ほとんど嫌いな食べ物はないが、生姜は苦手。冷やしうどんもソーメンもわさびで食べる。舐める程度の少量を唇につけた。シナモンだけのときより、甘みが強くなった。思い切って、一口飲んでみた。
「母さん、これ、美味しい」
「そう。じゃあ母さんも飲んでみよう」
「あ、毒見役に使ったな」
「子に先を譲る親心よ」
笑った。ニッキと生姜は苦手だが、シナモン・ジンジャー甘酒は体を温め、心を和ませた。
「甘酒、あんたが中学生のとき、真冬のサッカーの試合に、ポットに入れて持って行ったよね」
「そんなことあった?」
「覚えてないんじゃね。土日は毎週のように練習試合や大会について行ってやったのに」
「感謝しとるよ」
「十年遅いわ。おかげで、武瑠はほったらかしよ」
「僕が悪いみたいじゃん」
…武瑠は剣道部で、家族が応援に行くような大会がなかっただけだと思う。
「そういう意味じゃないけど、武瑠、三佐子さんに母親の愛を求めてたんじゃないかと思うてね」
「三佐子さんに母親の愛を?」
「三佐子さんの方がだいぶん年上なんじゃろ?」
「マザコン的な…」
「言うてやるなよ。私の愛情不足が、三佐子さんに迷惑をかけたんじゃないかと思うたり」
「母さん、それは違うよ。一応、大人なんじゃけん。まだ、話してもらえんのじゃけど、あの二人には、あの二人にしか分からん形の、愛を育んどったんじゃと思うよ」
「そっか。でも、三佐子さんには幸せになってほしいね」
「三佐子さん、母さんに優しい言葉をかけてもらえて、本当にうれしかったって言いよったよ」
「そう。山翔が帰って来たことで、止まっとった時間が動きだしたね」
リビングに敷いた布団に横になった。母は音量を落として背中向き、キッチンの小さいテレビで天気予報を見ている。悪寒はなくなったが、微熱は続いている。
布団の中から喫茶店に電話してみた。呼び出し音はするものの、三佐子さんは出ない。胸騒ぎがする。外の雨はまた強くなり、轟く雷鳴が不安を煽る。
気分が不安定になってきた。立ち上がって、コップに水を汲み、濡れた鞄から心療内科の薬袋を取り出して、精神安定剤を一錠飲み込んだ。腹に指を立てて、腹動脈の鼓動を感じながら、ゆっくりと呼吸する。
鞄には、夢から持って帰った、ドライフルーツの紙袋も入っている。
…夢と現実の境目が分からなくなりそう。
ドライフルーツを食べてみる。大蘇鉄と書いてあるが、三佐子さんと一緒に食べて、デーツ、つまり、ナツメヤシの実じゃないかということになった。
…甘い。漢方薬っぽい香りがある。この世のものではないのではないだろうか。「現職警察官として、超常現象を信じているなんて言えない」と言ってきたけど、不思議を受け入れないと、かえって心を壊しそうだ。
「起きた?」
母親が声をかける。
「今、何時?」
「午後一時。具合はどんな?」
倦怠感があり、頭はボーっとしている。
「イマイチ」
「あのね、三佐子さんと武瑠のことなんじゃけどね」
母親が切り出した。
「うん。何?」
「あの二人、どこで出会ったか聞いた?」
「うん。武瑠が中学のとき、塾でね。三佐子さんは大学生でバイト講師をしとったらしいわ」
「やっぱり、そうなんじゃ」
「何か思い出したん?」
「うん、マザコンの話で思い出したんよ」
「言うてやるな、言うたくせに」
「武瑠が中三のときの進路の懇談でね。塾長さんが『武瑠君は禁断の恋をしてしまった』とか言うんよ。もちろん、冗談っぽくじゃけどね」
「禁断の恋?」
「『年上の女性に果敢にアタックしている』って」
「中学のとき、大学生の三佐子さんに告白したんかね?」
「そうじゃったんじゃろうと思うてね」
「それくらいの年のとき、年上の綺麗なお姉さんに憧れるんよ。女子大生は中坊を相手にせんと思うけどね」
…あ、あの写真。たぶん、武瑠の秘密の宝物だろうけど、この際、母さんにも見てもらおう。
僕は、「ちょっと待って」と言って、鞄の中にある武瑠の文庫本を出した。
「この写真、見たことある? 武瑠は高校生じゃと思うけど」
武瑠が足軽、三佐子さんが女忍者を演じるコスプレ写真を、母親に見せた。
「ほおほお。このイベントの集合写真は見たけど、ツーショットは見たことなかったわ」
「いい笑顔よね。二人とも」
「そうじゃね」
「この写真を見たら、僕は割り込めんと思うんよ」
母親は「ふ」と笑った。
「やっぱりあんたも、三佐子さんのことが好きなんじゃね」
「あ!」
「見え見えよ」
「バレとった?」
「三佐子さんは、武瑠の兄としてあんたを頼っとるんじゃけん、勘違いしちゃいけんよ」
「分かっとるよ」
「この三角関係は、三佐子さんにとって辛過ぎると思う。なんぼ、三佐子さんが好きでも、武瑠のことに決着がつくまでは我慢するんよ」
「うん、そのつもり。どうしてあげればええんじゃろう」
「自分はボディガードかエスピーじゃと思いんちゃい」
母親とこんな話をするとは思わなかった。
熱は下がったが、倦怠感が残っている。
この日は、テレビの前の布団で寝たり起きたりしながら過ごした。時々、喫茶店に電話をするが、三佐子さんは出ない。
母親に見せたツーショット写真を文庫本に戻そうとして、もう一度見る。武瑠だけを指で隠し、三佐子さんの姿に息をつく。
…何をやっとるんだ、ヤマショウ。
写真があったのは、タロットの栞が挟んであるページ。そこに戻す。
ネットテレビのグルメドラマを一気に見た。これを見ている間は、いろんなことを忘れている。しかし、最終回の一番いいところで、眠ってしまったようだ。
夢が始まった。
カラス天狗の塾長が一人で山道を歩いている。
僕はそれを、ドローンのような「神の視点」で見ている。
道は曖昧だが、木に巻き付けた赤いビニールテープを目印に先に進む。
そして、極楽天神と思しき社の前に出た。
社の扉には、黒い大きな南京錠がかかっている。懐から鍵を取り出して開錠。
「菊池終活手帳」と表紙に書かれた厚手のノートに、ボールペンで何かを書いた。そして、そのページをちぎり取ると、それを神棚の中に入れて、扉を閉めた。
「のうまく・さまんだ・ばさらだん・かん!」
そう呪文を唱えて、扉を開けると、紙片は消えていた。
手で印を結びながら、違う呪文を唱えると、カラス天狗は幽体離脱した。質量感のない半透明のカラス天狗は扉の中に入って行った。
しばらくすると、残っている「実体」の方は扉の中に向かって何かを話し始めた。
「武瑠君か。こっちの準備ができたら知らせるから、サンザにこの呪文を唱えさせるんだ」
…武瑠と話しているのだろうか。武瑠は神様にでもなったのか。
話が終わる。一旦扉を閉めて、また、先程の呪文を唱える。そしてまた、扉を開くと紙袋が入っていた。
…あれは、大蘇鉄。
「この大蘇鉄を、ヤマショウに届けなければ」
紙袋を懐に入れると、南京錠を閉じた。
…これは、僕が大蘇鉄を手にする前の段階の夢のようだ。
「夢の宅配便で送るか…」
…何だそれ。何日か前に、恐竜が大蘇鉄を持って来る夢を見て、目が覚めると玄関に現れていた。あれは、宅配便で届いていたのか。
塾長は、急に自分の衣服のあちこちをまさぐり始めた。
「しまった。鍵も一緒に向こうに送ってしまったぞ」
…おいおい。
南京錠というもの、開くときには鍵(キー)が要るが、閉めるときには必要がない。
さらに、ノートの最後のページを見て、叫んだ。
「あ! 極楽天神の地図を描いてたのに、そのページの裏に呪文を書いて送ってしまった!」
…塾長、何をやってるんだよ。
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