3 エスニック・カスタマイズにゅうめん

 七月三日水曜日。

 朝六時。枕元のメモを見て、夢を思い出した。

 …サッカーよりも訳の分からない夢だったな。

 リビングに行くと、母親が朝食を作っていた。

 六枚切りの食パンにとろけるチーズを乗せてオーブンへ。その間にコーヒーをドリップ。パンが焼けると平皿に移してレタスを乗せる。ここからが母さんの変なところ。福神漬け、ナスの浅漬け、キムチなどをトッピングの具材として出す。我が家では定番だが、久しぶりだ。

「今日はどうするん?」

「あの喫茶店に行って、武瑠と塾長のこと聞いてみる」

「あんまり、邪魔しちゃダメよ。ナスは醤油つけた方が美味しいよ」

「今日、休みなんだって。味がいくなる」

「お店の人ってどんな人?」

「君島三佐子という若い女の人。武瑠の知り合いじゃったみたい。僕が兄ということに気付いてね。あ、そうよ。母さんと僕にも会ったことがあるって言うんじゃけど、思い出せんのよ。母さん、覚えとる?」

「私らにも会ったことがあるって?」

 母は「やっぱり」というような顔をした。そして、薄い冊子を開いて見せた。

「これ、今年の初めのこの辺のミニコミ誌なんじゃけどね。この人?」

 インタビューを受ける女性の写真、間違いなく三佐子さんだ。

「うん。この人」

「やっぱり。武瑠がいなくなってすぐに、友達がたくさん、お見舞いに来たことがあったじゃない。あの中におったんじゃないんかね」

「ああ、十人くらいで来てくれたよね。あの中に?」

 自分でそう言うと、友達がお見舞いに来てくれたときの光景が蘇った。一番後ろに立っていた鎮痛な表情の女子。あまりに不謹慎なので封じ込めたが、「わ、めっちゃタイプ」と思って、目がハートになったのを思い出した。

 …これは今も言えないな。

「そうそう、元は薬剤師じゃったと言うとったよ」

 母は目をパチパチしながら言う。

「ここにもそう書いてある。それたぶん、武瑠の彼女じゃ」

 …え!

 衝撃だったが、そういうことかとも思った。店の前で初めて僕を見た時、あんなに驚いたのは武瑠の兄だと分かったからなのだ。

 …それならそうと、言ってくれればいいのに。

「あんたは、武瑠から聞いてないん?」

「え? 男兄弟、そんな話はせんよ」

「父さんの納骨のあと、武瑠が、薬剤師じゃという女の子の写真を、スマホでチラッと見せてくれたんよ。彼女じゃとは言わんかったけど、『今度、連れて来る』と言いよったけん、付き合うとるんかなと思うた。顔は思い出せんのじゃけど、ベッピンさんじゃったいう覚えはある」

「で、連れて来たん?」

「ううん。武瑠自身がおらんくなった」

 朝から重い話になってしまったが、ここで止めるわけにもいかない。

「武瑠の失踪と彼女には、何か関係があるんかね?」

「おらんようになった夜、飲み会が終わって、広島駅から電車で矢野駅まで帰って、友達と分かれたあと、足取りが分からんというのは、警察から一緒に聞いたよね」

「うん、聞いた」

「たぶん、最後に分かれた友達いうのが、その子なんよ」

「そういえば、警察はその友達のことを『女性のご友人』って言いよったよね」

「ほかの友達に聞きゃあ、その子の名前くらい分かったじゃろうに…私、逃げとったんよ」

「自分を責めんのよ。僕がしっかりせんといけんかった」

 母親が武瑠のことを忘れた日などないと思うが、痛みに麻酔をしなければ、日常を生きていくことができない。

 あの夜、武瑠が帰って来ないので、母親は翌朝の早くに電話をしたが、携帯は不通。岡山の山奥の交番に勤めていた僕に、連絡をしてきた。僕はむしろ、家族に心配をかける武瑠に腹が立った。夕方になっても連絡が取れないというので、上司である交番の所長に相談をした。「捜索願じゃ。早い方がいい。お前もすぐに広島に帰れ」と言う。

 警察には全国で年間八万件もの行方不明届が出る。特に二十代男性は数が多い。家庭や職場のトラブルで行方を暗まし、ネットカフェで何日かを過ごして、お金がなくなって戻って来るというようなケースが大半である。なので、弟の家出くらいで、勤務シフトを乱したくなかった。

 所長は「ばか野郎。こんな一大事をお袋さん一人に背負わせるんか!」と、僕を叱った。こんな愛情のある上司なら、いくら叱られてもうつ病になんかならない。昔気質の面倒見のいい人だった。後日、ほかの人から聞いたのだが、広島県警の知り合いの幹部に「よろしく頼む」と連絡をしてくれたりしたらしい。

 実家で一週間、母と一緒に過ごしたが、武瑠は帰って来なかった。防犯カメラや携帯のGPSも確認したが、当たりがなかったらしい。まさに、忽然と消えた。最後に姿を見たという「女性のご友人」、つまり三佐子さんも警察に、失踪や自殺の可能性を感じさせる様子など、いろいろ聞かれたはずである。

「三佐子さんも、辛かったじゃろうね」

「そうね、そう思う。その三佐子さん? その子に武瑠のことで悩まんでいいと、私が伝えんといけんかったんよ」

 僕は立ち上がった。

「今から、一緒に行こうや!」

「どこへ?」

「三佐子さんのお店に」

「…ええんかね」

「夢で、塾長に『ヤマショウ、お前の出番だ』って言われたんよ」

「夢で塾長さんに?」

「塾長のことも聞きたいけん」


 二人はバスに乗って、矢野駅まで行った。徒歩で店に向かう。極楽橋の欄干に黄色い蝶が止まっていた。一昨日にここで感じた違和感のことを思い出した。

 カランコロン。

「おはよう!」

「お兄さん、おはよう」

 三佐子さんは湯気の中で何かの下ごしらえをしている。八時を過ぎているが、定休日なので客はいない。顔を上げると、僕の後ろに人がいることに気付いたようだ。キッチンからエプロンを外しながら慌てて出てきて、三角巾を取って深々と頭を下げた。

「あ、お母さんですね。初めまして。君島三佐子といいます」

 僕に向かって助けを求めるように、「先に言ってよ」と言うので、「ごめんごめん」と言ったが、連絡する方法を知らない。

 母親もかしこまった感じで答える。

「三佐子さんといわれるんですね。山翔と武瑠の母です。二人がお世話になったようで」

「はい。あ、いえ、私こそ。あの、私、ご存じなんですか」

「今朝、山翔と話していて、この店をやっているのが、武瑠と最後に会った友達じゃないかと思ったんですよ。間違いない?」

「ごめんなさい。そのとおりです」

「あ、こちらこそ、ごめんなさい。そういう意味じゃないのよ」

 ちょっと気まずい感じになった。

 キッチンから湯気が上がっているのに気づいた。

「あ、吹きこぼれる!」

「キャー!」

 三佐子さんは、慌ててコンロの火を止めた。

「今日は何を作っとるん?」

「ランチの新メニューを開発中」

 母が「私もメニューの開発中を見たい」と興味を示すと、三佐子さんは微笑んだ。雰囲気がよくなった。僕が「どんな、メニュー?」と聞く。

「今日、あの人たちを呼んであるの。この辺、東南アジアからの技能実習生がたくさん暮らしていて、時々、来てくれるんじゃけど、焼きそばくらいしか食べれるものがないんよね。一昨日、お兄さんにスパイスの話をしながら、これだけ、スパイスを揃えている喫茶店って、ほかにないと思ったの。お国や地方で味が違うはずじゃけん、お好みでスパイスを入れてもらえるようにしたらどうかなって考えたん。でね、ベースをあったかいおソーメンにしてみたんよ。癖がないけん、どんなスパイスにも合うんじゃないかと思うたん。安くできるし」

 母親が割り込んで来た。

「なるほど、エスニックにゅうめん」

「お母さん、ネーミングセンスありますね。その名前で、ふわっと描いていたものが固まりました」

 母はうれしそうな顔をした。試作品の実験台を買って出る。

 イメージが固まると、三佐子さんの行動は早い。武道着の帯を締めるように、エプロンの紐を結び、「はい!」と気合を入れた。

「今、鶏肉を茹でていました。茹で汁は捨てずに小分けして冷凍しておくんです。いろんな料理の出汁に入れるんですよ」

 鶏肉は水から茹でる。少し沸いてきたところで、沸騰しないように弱火にする。

「お兄さん、丁寧にアクをすくいながら見張っとってね」

 その間に別の鍋でソーメンを茹でて、茹で上がったら氷水と流水で冷やし、水を切る。最初の鍋の鶏肉に火が通ったら、これを取り出して半口くらいの大きさに切る。鍋には鶏ガラスープの冷凍ブロックを投入して混ぜる。

「ここで、ナンプラーを入れるとフォーの出汁になるんじゃけど、日本醤油で癖は消しておくかな」

 呟きながら、味見。

「ちょっと物足りないけど、この段階ではこれくらいでよし」

 茹でて冷やしたソーメンを投入して沸騰させた。手間も時間もコストもかからない。火を止めて、スープと麺を小ぶりなお椀に取る。母と僕に差し出した。

「ちょっと食べてみてください」

 一口啜(すす)る。

「旨いけど、確かに物足りんね」

「そうね。水炊きを付けだれ無しで食べてるみたい」

「ですよね? じゃあ、これを入れてみてください」

 小皿の液体をたらりと流し込み、葉っぱを乗せる。

「どうですか?」

「酸味と辛み、美味しい」

「エスニックになったわ」

「液体の正体は、ライムとナンプラーとレッドペッパー。パクチーとミントをトッピングしました」

「エスニックにゅうめんだ! 美味しいよ」

「ほんと? じゃあこっちは?」

 お椀にもう一杯、スープと麺を入れ、別の液体を入れた。

「甘くなった。でも、エスニックじゃ」

「これはココナッツミルクとナンプラーじゃない?」

「お母さん、すごいです。それに黄な粉を入れてみました」

「これも旨い! え、なんで黄な粉なん?」

「シンプルなスープと麺に、自分の好きな味付けをするんです」

「カスタマイズにゅうめんか」

「それ、アジア系の人に分かるかな」

 さっき、母親のエスニックは褒められたが、僕のカスタマイズはあっさり却下された。

 十時頃、東南アジア出身と思われる男性が二人現れた。

「紺の服がグエンさんで、緑の服もグエンさんよ」

「こんにちは、こんにちは」

 大人しそうな二人は、少し不安げなまなざし。母と僕は安心してもらえるよう、いい笑顔を作って、グータッチで挨拶をした。

 三佐子さんは英語で、今できたばかりの料理を試食してほしいと説明した。英語は不得意だが「カスタマイズ」という言葉は聞き取った。

 シンプルにゅうめんを、それぞれ三つの小さい椀に分け、二種類の液体を垂らした小皿と一緒に、盆に乗せて出した。二人の真ん中に、使えそうなスパイスの缶とトッピング野菜の大皿を置く。

 グエンさんとグエンさんは、シンプルにゅうめんを一口啜り、頷く。

「美味しいです」

 二人は、片方の液体を入れ、スープを一口飲むと、レモンで酸味を増し、一気に啜り込んだ。

「ワタシの国の味に近くなりました。美味しい」

 紺の服のグエンさんはそう言って、二杯目にはもう一つの液体を入れた。

「食べたことない味だけど、懐かしい感じね。これも美味しい。でも、さっきの方が好き」

 すると、緑の服のグエンさんは「いや、ワタシはこっちが好きです」と言った。

 三杯目。一人は酸味系、一人は甘味系の液体を要求した。それぞれ、スパイスの缶を手に持って、匂いを嗅いだりしながら、カスタマイズを始めた。クローブや八角など、日本人が使わないスパイスを選ぶ。そして、スープまで飲み干した。

「美味しいし、楽しかったです。ありがとう。いくらですか」

「試食会なので無料です。もし、良かったら、今度、お友達を連れて来てください。一緒にメニューを作ってください。日本でいい思い出を作ってほしいと思っています」

「ありがとう。日本に来て一番、うれしいことね。友達、連れて来るね。ありがとう、ありがとう」

 二人は切なげな笑顔で目頭を押さえながら、店を出て行った。その光景を見ていた母も涙を流していた。

「三佐子さん、偉いわ。ああいう立場の弱い人に心配りができるんじゃね。ただの同情じゃなくて、本当に喜ばれることを考えてる」

「あらあら、お母さん。大袈裟ですよ。ただね、思うんです。例えば、自分が外国に行って、ハンバーガーしか食べるものがなかったら、寂しいだろうって。人生の楽しみの半分は食事だと思うんです。それに、いつか彼らに本場の味の話を聞いてみたいなと思って」

「優しいのか、ちゃっかりしてるのか」

「山翔、なんてことを言うの。優しいに決まっとるじゃない。三佐子さんは本当に心のきれいな人」

「ありがとうございます。誰に褒められるよりうれしいです」

 三人は少し打ち解けた。

「実はね、ミニコミ誌であなたの写真を見たとき、武瑠が言うてた人じゃないかとは思ってたの。あれからずっと来たかったんじゃけど、私が行くと、どうなのかしらと思ったりして」

「お気遣いありがとうございます。私もお母さんには、お会いして、ちゃんとお話ししなくちゃいけないと思いながら、三年も経ってしまいました」

「三佐子さんのせいじゃなんて、最初からこれっぽっちも思うてないけん。私がそのことを伝えてあげんといけんかったんよ。苦しんだよね。ごめんね」

 三佐子さんの涙が堰を切って溢れた。僕はどうして良いか分からず、ただ見ていた。母親が三佐子さんの傍に行き、自分が使っていたハンカチを差し出した。

「お母さん」

 甘える仕草をすると、母親は、自分よりかなり背の高い三佐子さんの背中に手を置き、さするようにした。

 …何だ、この展開は。

 母親は三佐子さんの左手に指輪がないことを確認した。

「失礼だけど、年はいくつ?」

「こないだ三十になりました」

 …ええええ!  三十? 三十! 年下だと思っていたのに三つも年上。

 母は僕の動揺には目もくれずに、三佐子さんを摩っている。

「結婚してないん?」

「はい…。でも、でもそれは、武瑠さんとは関係ないので、心配しないでください」

「そう? こんな綺麗でしっかりした娘さん、武瑠にはもったいないわ」

「そんなことないですよ」

 二人は目を合わせて、泣きながら笑った。いつの間にか僕ももらい泣きをしている。

 …しかし、三十歳とは。

「山翔、三佐子さんに会わせてくれて、ありがとうね。母さんは先に帰るね。言いたかったことは伝えたけん。三佐子さんが本当にいい人だということも分かった。あとは二人で話して」

「そんな、もっといてください」

「三佐子さん、ありがとう。武瑠はあなたに会えて、幸せだったと思うわ」

「武瑠さんは生きています。信じています」

「私もそう思うとるよ。でも、あなたはもう縛られんとって。悪いのは武瑠なんじゃけん」

「そんな…」

「山翔、三佐子さんを守ってあげんちゃいよ。あんた刑事なんじゃろ」

 「どういう意味だろう」とは思ったが、母親はもう一度、三佐子さんに笑顔を送って、カランコロンとカウベルを鳴らし、店を出て行った。

「お母さん、気分を壊された?」

「大丈夫。三佐子さんのこと褒めてたじゃん」

 しばらく、沈黙があった。

「三佐子さん、三十歳なん?」

 母に渡されたハンカチで、もう一度、涙を拭っていたが吹き出して笑った。

「そこ? この流れで」

「いや、ずっと年下じゃと思うとった。二十三か四か」

「言い過ぎよ」

「美魔女じゃね」

「美魔女って、三十五歳以上の人に使う言葉らしいよ」

「ごめん。でも、二十歳と言われれば、そうかなと思うよ」

「ほんと? うれしい。美魔女路線で頑張ろう」

「魔女といえば、三佐子さん、魔法が使えるん? 指でランプに火を点けるじゃん」

「ふふ。種明かしはせんよ」

 料理を作るとき、呪文を唱えたり、秘密の粉を入れたりしていた。ミステリアスガールだ。三十歳にガールはおかしいのか。

 …三十歳…。そして、弟の彼女。

 二つの事実に結構ショックを受けている、自分。

「三十ということは、武瑠とは五つ違うんよね。いったいどこで出会ったん?」

「何回も三十って言わんの。私、塾長が塾を始めたときの最初の中一なんよ。塾を卒業するのと入れ替わりにお兄さんが入塾したんよね。それで、武瑠君が中二のとき、アルバイト講師で戻って来たけん、お兄さんが塾にいた三年間だけ、ここを離れてたってことになる」

「武瑠の先生じゃったん?」

「先生とは呼ばれんかったけど」

 三佐子さんを年下扱いして、失礼なことをしていなかったか、考えていた。

「お兄さん。…お兄さんて言うのも変じゃね。なんて呼ぼうか」

「山翔でええよ。僕の方が年下なんじゃけん」

「年のことはもうええって。兄弟でヤマトタケルになるんよね」

「そう。でも、ヤマショウって呼ばれとったよ。塾長が付けた」

「私も、塾長にはあだ名で呼ばれてたよ。塾の同級生にもう一人、美沙子という子がいてね。その子は苗字が林田なので『リンダ』、私は漢数字の三に佐藤の佐じゃけん『サンザ』」

「サンザちゃん…」

「武瑠君もそう呼んでたな。リンダも一緒に講師やってたけんね」

「塾はいつから、喫茶店になったん? 長いこと、この辺に来てないけん知らんかったよ」

「塾は武瑠君が中学を卒業した年で止めたよ。私の講師も二年だけ。半年以上、準備期間があって、喫茶店になった」

「じゃあ、僕が高校を卒業して岡山の大学に行った年くらいかね。じゃけん知らんのじゃね。その時から三佐子さんが、店長をやりよるん?」

「いやいや、店は塾長が一人でやっとった。最初は忙しくて、塾講師の継続で、私とリンダはアルバイトで雇ってもらった。就職してからも、私は時々、顔は出してたけど、塾長が体調を崩してからは休店が多くなった。いよいよ立てんようになって、入院することになったんじゃけど、家族がおらんけん、手続きは私がやった」

「大変じゃったね。親子みたい」

「病院では孫じゃと思われとるみたい。私も仕事、何日も休んだよ。意識がなくなる直前に、『机の引き出しにエンディングノートが入っとるけん、その通りにしてほしい』と言ったの。部屋に行くとノートがあったわ」

「エンディングノート。お葬式のやり方の遺言みたいな?」

「うん。財産のことも書いてあったけん、すぐに弁護士さんに預けて、私はコピーを持ってる。この店を、私に引き継いでほしいというのも、そのノートに書いてあった」

「昭和趣味のオーナーって塾長のことか。そこまで縛られなくて良かったんじゃない?」

「大学では薬剤師と一緒に管理栄養士も取ったの。健康料理のお店を出すのが夢じゃったけん、この店を手伝いながら調理師免許も取ってたんよ」

「たくさん資格を持っとるんじゃ。塾長が夢を叶えてくれたんじゃね」

「うん。そう思うことにしとる。喫茶店から飲食店の営業許可に切り替えて、塾長のコンセプトは残しながら、メニューは変えた。常連さんも『美味しくなったね』って褒めてくれてたじゃろ」

「ああ、郷土史会の会長さんが言うとったね。確かに塾長の料理、美味しくなさそう。三佐子さんのは本当に美味しい」

「ありがと。それで、ノートには延命治療をするかという項目があってね」

「今の状態だ。延命治療はしなくていいって?」

「逆。財産が続く限り、生かしておいてくれって」

「へえ。財産ってたくさんあるん?」

「現金はないよ。でも、病気が指定難病というやつらしくて、個人負担がないの」

「じゃあ、植物状態をずっと続けるわけ? 塾長、可哀想」

「本人がそうしてほしいって書いとるけんね。そこには、変な理由が書いてあってね」

「どんな理由?」

「自分は倒れても、夢で縁者に思念を送るからって」

「塾長らしいけど、なんか怖い」

「そうよね。お兄さんが見た夢もそうじゃないかと…」

「う! 僕もその縁者?」

「一番可愛がっていた武瑠君のお兄さんじゃけん、立派な縁者じゃない? お前の出番だって言うたんじゃろ。ほんまに、塾長の最後の切り札なんよ」

 夢と言えば…。

「実は昨夜も、また夢を見たんよ」

「どんな夢?」

 鞄からメモ帳を取り出して、思い出す。

「神社の境内みたいなところで、時代劇のコスプレイヤーがショーをやっとった。女子のファンがいっぱいおったよ」

 三佐子さんは、「え?」というような表情をして、テーブルの横の飾り棚にあった写真立てを出した。

「もしかして、こんな感じ?」

 十数人の集合写真で、お姫様や武将、忍者や僧兵の恰好をしている。

「あ、何これ? そうそう、このとおりよ」

「小説のキャラクターのコスプレイベントよ」

「コスプレイヤーが次々と飛び出していって、演武をやるのを後ろから見よった。昨日もカラス天狗の塾長がおった」

「塾長の小説は読んだことあるん?」

「ない」

「このイベント自体、小説のラストシーンで、仲間が現代に集結するエピソードを再現したものなんよ。この写真は尾崎神社の境内なんじゃけど、小説では極楽天神と書いてある」

「そういえば、夢の中で、塾長は『極楽天神へようこそ』とか言うとった。極楽天神って本当にあるん?」

「山の中にある、幻の社(やしろ)らしいよ。私は行ったことないけど、塾長と武瑠君は見つけたみたい」

「そうなんじゃ」

「小説を読んでないのに、極楽天神まで知っとるなんて、不思議」

「うん。でね。コスプレイベントでね。いざ出番ていうときに、武瑠がいなくなってるらしいんよ」

「武瑠君もメンバーじゃけど、小説でもイベントの時も、そこでいなくなったりはしてないよ」

「現実で失踪したことが混じっとるんかね。んでね、んでね。塾長が『最後にヒーローの登場』って紹介したら、背中を押されて、僕が出て行くんよ。なんと、背中を押したお姫様が三佐子さんで、僕が日本神話の男なんよ」

「あら、私とお兄さんがアゲハとサヌなん?」

「うん。そんな名前言うてた。そういえば、三佐子さんの夢で、僕の背中を押して『行くよ!』って言ったって言いよったじゃん」

「そうそう。私の夢と重なっとるなあと思うたんよ」

 塾長が夢で思念を伝えているということ、三佐子さんも受け入れ始めたようだ。

「それで、最後に僕が神社に向かって、サッカーボールを蹴ったんよ」

「ボールはどこに行ったん?」

「神社の扉が開いてて、そこに入って行った」

「小説にはそんなシーンはない」

「その小説って、時代劇なん?」

「歴史SFファンタジーって言うとったよ。弥生時代から現代までを行ったり来たりする。恐竜時代にも行く。無茶苦茶な話よ」

「塾長はよくSFでたとえ話をしよったね」

「喫茶店を始めた直後かな。塾長がPRのために、自腹で衣装を作って、いろんな人に着てもらったんよ。主役の二人は広島のタレントさん。お金かかっとると思うわ。周りは殺陣やコスプレのマニアさんたちなんじゃけど、塾長と武瑠君と私とリンダも入っとるんよ」

 そう言われて、じっくり見ると、主役と思しきお姫様と神話の青年の後ろに、山伏の恰好をした塾長、その横の足軽は武瑠である。

「三佐子さんはどれ?」

「左の女忍者よ。その横がリンダ」

「ん? あ、本当じゃ。三佐子さんじゃ。わあ、くノ一。かっこええ!」

「キクチとタケルとサンザとリンダは小説に出てくるけん、モデルになった本人がコスプレしとるんよ。その恰好、恥ずかしかったあ。リンダは着飾ってるけど、私の衣装、露出度が高いじゃろ。セクハラだよ」

 確かに、ちょっとセクシーだ。

「でも、タレントのお姫様よりかわいいよ」

「ありがと。今の髪型、この時からなんよ」

「ああ、それ、忍者のちょんまげじゃったんじゃ」

「ふふ。そういえば、小説の出だしの辺りに、タケルの兄、ヤマトというのが名前だけ出てくるよ」

「え、そうなん? ヤマトはちょい役か」

「『快活なサッカー少年の兄と違って、タケルは鬱屈のあるマニアックな少年である』という一文だけじゃけど」

「そのまま、うちの兄弟じゃんか」

 二人は笑い合った。


 三佐子さんが「あ」と言って時計を見て、買い出しを手伝ってほしいと言う。軽バン「ぎふまふ号」に乗って、まず、農協が運営するマーケットに行き、注文しておいた生野菜を積み込む。次に、国道三十一号を北に向かい、海田町のお肉屋さん。海田旧市街地を通って矢野に戻る。

 正面に矢野三山。「山」という漢字の成り立ちを示すかのように、三つの峰が並ぶ。

 町境にある業務用のスーパーで、冷凍食材と普通の調味料を買い込む。

 食材を選ぶ女とカートを押す男、仲の良い夫婦だと思われないか。しかし、買う量が一般家庭のものではない。

「野菜はできるだけ地元産の新鮮なもの。肉は特に高いものを使っていないんよ。冷凍や缶詰も使うし、麺も市販のもの。ただ、味が着いているものは買わない。良い食材を使うのがA級グルメだとすると、うちは調味料で食べさせるB級ね」

「庶民の味方。味はA級」

「スパイスや調味料は、あまり安いものは使わない」

 料理の話をする三佐子さんの目はキラキラしている。今まで会った女性の中で、一番きれいだと思う。一緒に行動する中で、弟の彼女だという抑制を超えて、明らかな恋心が首をもたげてきていた。

 三佐子さんと武瑠には、きっと「何か」があったのだろう。その「何か」が明らかにならなければ、僕の心をこの恋に解放することはできない。「山翔でいい」と言ったのに、「お兄さん」と呼び続けている。

 …やっぱり、三佐子さんの傍には、今でも武瑠がいるんだ。

 車に戻ったときに、提案してみた。

「あの、仕事を休んでいる間、お店を手伝わせてくれん?」

「え? 私は助かるけど、そんなことしててもええん?」

「自宅療養が原則じゃけど、ずっと家におったら、もっと病気になりそう」

「そうじゃね。じゃあ、こうして…。お医者さんと職場の許しをもらってきて。ちゃんとしてからにしてほしいけん」

「う、うん」

「バイト代は安いよ」

「公務員じゃけ、もらえんよ」

「そうなん? じゃあ、潰れそうなお店を支援するボランティアということで」

「あ、うん。分かった。一回、岡山に戻る」

「じゃあ、着替え持って来てね。今日のも武瑠君のシャツじゃろ?」


 店に戻って、食材と調味料を、冷蔵庫とストッカーに整理した。

「お腹空いたね。何か作ろうか」

「うん! 何でも食べる」

「お兄さん、子どもみたい。かわいい」

 その言葉にも心がキュンと締め付けられた。

 三佐子さんは、冷蔵庫を見て、余った市販の焼きそば麺を取り出した。

「地球のためにも、お店のためにも、フードロスは出したくないけんね」

 と言いながら、焼きそばを作り始めた。フライパンを胡麻油で熱して、余り野菜、続いて麺を二玉放り込んで菜箸で炒める。

「グエンさんたちには、ここで自慢のカレーパウダーを入れてたんよ。そしたら、気に入ってくれたみたい。あ、そうじゃ。私たちもカスタマイズしてみよう」

 軽く塩だけして、二人前を大皿に移してカウンターに置いた。三分もかかっていない。取り分け皿を三つずつと、いろんなスパイス缶を並べた。

「素人には何を入れていいか分からんよ」

「そうじゃね。よし、私が三種類作ったげよう」

 ガラムマサラとターメリックとレッドペッパーを混ぜ込んでカレー風。ガーリックパウダーをオリーブオイルで混ぜ、鷹の爪を乗せてペペロンチーノ風。醤油と鰹節と刻み海苔で和風。

「どう?」

「全部、美味しい。楽しいね」

「これ、残り野菜で使ったけん、食材原価二十円だ。売ったら八十円かな」

「客単価がどんどん下がるね。五百円は取れるよ」

「暴利だ」

 二人は笑いながら食べ切った。

「明日、上司と主治医にOKをもらったら、すぐに報告する。SNSメッセージはどれ使っとるん?」

「やってない」

「ウソ。じゃあ、携帯の番号」

「私、携帯もスマホも持ってないんよ」

「ええ?」

「用事があったら、店に電話して。これ、電話番号。はい」

 渡されたのは、昭和の喫茶店らしいマッチ箱。そこに、電話番号が書いてあった。電話はダイヤル式の黒電話。

「絶滅アイテム。飾りかと思ってたけど、実用なんじゃね」

「夜もこの電話で大丈夫じゃけん」

「夜もここにおるん?」

「家は別にあるんじゃけどね。今は先生の家財を借りて、ここの三階に住んどるんよ」

「基本的な情報。いろいろ聞きそびれてるんよね。じゃあ、岡山から帰ったら、すぐに来るけんね」


 今日はバスで帰る。

 家に帰ると線香のにおいがした。母は仏壇の前に座っていた。

「おかえり。今日は連れて行ってくれて、ありがとね。三佐子さん、ほんまにいい子じゃね」

「う、うん」

「今日は、山翔と武瑠と三佐子さんのこと、お父さんと何度も話をしてたんよ」

「大丈夫?」

「大丈夫だよ。あんたみたいに心を病んどるわけじゃないんじゃけん」

「酷いな。あ、明日、岡山に戻るわ」

「あら、向こうで療養するん?」

「いや、医者と上司と寮長に会って、話をしてくる」

「ふーん。じゃあ、また帰って来るんじゃね」

「うん。日帰りするよ。三佐子さんを守らんといけんけん」

 ネットテレビでグルメドラマを見ていると、十二時近くになっていた。母親はいつの間にか寝ている。

 自分は本当にメンタルを病んでいるのか。

 …現状、全然、普通。しかし、治ったことにしたら、三佐子さんのお店に行かれなくなる。

 そんなことを考えながら、電気を消してベッドに入った。


 小さな石の鳥居の額には「極楽天神」の文字。その下に神話の衣装の僕が立っている。神社の後ろに、小さな滝がある。

 近寄ると、滝の前にはカラス天狗に扮装した塾長。錫杖をシャンと地面に突いて、「のうまく・さまんだ・ばさらだん・かん!」と呪文を唱えた。

「滝の岩肌に、穴を空けたから覗いて見よ」

 話す声に混じって、酸素吸入器のような音がしている。小さな滝壺に入って、落ちる水を浴びながら、岩肌を探す。ちょうど、目の高さに穴が空いている。

 覗いてみると、この場所とそっくりな空間が向こうにある。

 …鏡の世界?

 人の姿がある。どんどん増えていく。皆、鎧を着て刀や槍を持って戦っている。

 …コスプレイベントの続きか。

「お兄ちゃん、どこかで見ているのか!」

 武瑠の声だ。天に向かって叫ぶ、足軽の後ろ姿が見えた。

「武瑠! 山翔だ。ここにおるよ」

 叫んだが、聞こえないようだ。

「いるなら聞いてくれ! 僕は今、十六世紀の矢野城で、アゲハ姫を守って毛利元就と戦っている。しかし、劣勢だ!」

 そこまで話すと、槍を構えて戦場に走り出て行った。

 敵将毛利元就の上に、何かが浮遊している。公家風の衣装を着ているが、人間ではなかろう。

 …空中に浮かぶ陰陽師。

 目から光線を放ち、味方の兵士を攻撃している。

 黄色い蝶の群れを、レーザービームが横切ると、数匹が燃えて落ちた。その先で、こちらの大将がやられた。絶望的な空気が流れる。足軽が戦場の真ん中に転がり出た。足軽の脇を、三人の忍者が浄瑠璃の黒子(くろこ)のように支えている。陰陽師に睨まれ、光線が一閃。足軽の被り物が飛ばされた。

 …やはり、武瑠だ。

 槍や刀ではなく、アラビア風の湾曲した剣を重そうに引き摺っている。黒子に支えられて剣を振り上げ、そして振り下ろす。光線の第二撃を見事に受け止めた。忍者の一人、よく見ると女。

 …三佐子さん?

 三佐子さんだと思うが、野性的な印象だ。

 武瑠より、背の高い女忍者は、後ろから覆い被さり、武瑠の手の上から、左手で剣を一緒に握る。呪文を唱える。

「ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!」

 右手でパチンと指を鳴らすと、湾曲刀の先に火が点いた。

「タケル! 真言を唱えよ」

「真言って何! サンザちゃん」

 武瑠はタケルと呼ばれ、三佐子さんはサンザという忍者の役らしい。

「何でも良い。お前の信じる言葉を放て!」

「こんにちはーーーー!」

 …何だそれ。

 火はタケルの「真言」に押され、火炎放射機のように尾を引いて前進を始めた。敵の光線を押し返す。タケルとサンザが手を携えて一緒に戦っている。二人は気の合った同志なのだろう。

 陰陽師が呪文を唱えると、無数の式神が飛び出し、二人に貼り付いた。金縛りに遭ったように動けない。

 タケルが叫んだ。

「お兄ちゃん。助けて!」

 …武瑠、三佐子さん。どうすればいい?

 滝の岩肌の穴を覗いているだけでは、どうすることもできない。

 塾長が後ろから言う。

「ヤマショウ! 真言を唱えよ!」

「真言?」

「何でも良い。思いついた言葉を叫べ!」

「ええっと…」

「早く!」

 口を突いて出た言葉。

「ぎふまふ!」

 叫ぶと、向こうの世界にある極楽天神の社の扉が開き、砲弾のようにボールが飛び出した。唸りを上げて軌跡を描き、陰陽師の眉間(みけん)に命中した。陰陽師の姿は崩れて消えた。タケルとサンザは救われ、矢野城は守られたようだ。


 目が覚めた。夜中の一時である。

 …前夜の夢で神社に蹴り込んだボールが向こう側に飛び出したということか。タケルは十六世紀で毛利元就と戦っていた。三佐子さんがモデルだというサンザがタケルのパートナーだった。あの小説の中のエピソードなのだろうか。今日も夢の内容をメモした。

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