4 メリッサ&セントジョンズワート茶

 七月四日木曜日。

 朝八時、家を出た。三佐子さんの店を手伝うために、岡山に戻り、職場の上司と主治医に会わなければならない。

 バスで矢野駅、呉線で広島駅。新幹線のホームに向かう途中、職場の上司から携帯に電話が入った。「調整したいことがあるので、職場に出てきてくれ」という内容だった。

 …ちょうど、良かった。今日一日で済ませてしまおう。

 広島に戻った三日間は病気のことも忘れるほどだったが、岡山に向かうと、気分がどんどん沈んでいく。

 …ダメだあ。でも、三佐子さんを手伝うために、頑張ろう。

 新幹線は、のぞみなら三十分ちょっとでついてしまう。岡山駅からバスに乗り、県警本部に入る。

 刑事部に行くと、上司の係長と課長。会議室が空いてないらしく、取調室で話すことに。気分の良い場所ではない。ストレッサーの係長が「二週間で復帰できるなら、今後のキャリアのことも考えて、病休ではなく、年次休暇と夏季特休で対応した方が良い」と言う。

 …出世は諦めている。どっちでも良いけど。

 課長が「ぜひ、そうしなさい」と言うので、同意して、手続きを変更した。

 恐る恐る「休んでいる間に、うつ状態解消のために知り合いの店を無給で手伝いたい」と言うと、係長に「治療に専念すべき者が、そういうことはすべきでない」と言われた。この人、言い方がきついし、絶対に笑わない。しかし、課長が「年次休暇に切り替えたのだし、それで、病状の改善につながるなら、目立たない程度でやっても良いだろう」と言ってくれた。医師のお墨付きが条件で、許してもらえた。「ご迷惑をおかけします」と頭を下げ、敬礼して、県警本部を出た。最初に一番のストレスを突破した。

 今度は心療内科。お墨付きをいただかなければならない。主治医はちょっと怖い女医だが、この日は非番なのか、優しそうな高齢の男性医師が対応してくれた。話しやすいので、べらべら話すと、「あなたくらいの症状なら、生活のリズムを守る活動ためにも、自宅に籠るよりは、むしろそういう活動をした方がいい。医師の意見として、職場にそう言っても良いですよ」と言ってくれた。立ち上がって「ありがとうございます」と礼を言う。

「古い精神科のことわざに、『恋の病は心の病を駆逐する』というのがあります」

「へえ、そんなことわざがあるんですか」

「岡山の老医師が言ったそうです。どうぞ、お大事に」

 そう言って微笑んだ。

 病院の外から、スマホで課長に電話をかけて、医師の意見として、「生活のリズムを守る活動をした方が良い」と言われたことを伝えた。最後は寮。病休ではなく、年次休暇になったので、長期外泊の届けを出すだけでよくなった。部屋に戻り、大きな旅行鞄に着替えを詰め込む。ノートパソコンも入れる。

 三時間で岡山の用事をすべて済ませた。岡山駅まで戻り、マッチ箱の電話番号に、電話した。三佐子さんは出ない。忙しい時間帯なのかもしれない。

 売店でお土産の吉備団子を買い、ホームでうどんを食べて、新幹線はこだまに乗ってしまった。各駅停車なので一時間半近くかかる。


 広島駅で呉線に乗り換えて、矢野駅で降りる。黄色い蝶が手招きをするように、目の前を飛んでいく。極楽橋を渡ると、身が軽くなったような気がした。雨が降り始めたが、気にもならない。

 …恋の病は心の病を駆逐するか。言えてる。

 いろんなことが、自分に都合よく展開し、結果として二週間の休暇をもらったことになった。商店街跡に建ったマンションの入口を過ぎると、駐車場の向こうに、純喫茶ぎふまふの建物が見える。スキップしたくなるような気持ちで店の前に行き、カランコロンとカウベルを鳴らして、扉を開けた。

「三佐子さん、主治医にも上司にも、やっていいって言ってもらったよ」

 返事がない。客もいない。

「三佐子さん…」

 …今日も休みだったのかな。

 焦げ臭い。鍋が火にかかったままだ。急いで火を消し、換気扇を回した。料理の途中で、火から離れるなんて考えられない。店外を一回りしてみるが、いない。

 その時、僕のスマホの電話が鳴った。表示された相手は「菊池塾長」。

 …塾長は意識がない状態と聞いたが。

 電話に出ると、間違いなく塾長の声。

「ヤマショウ?」

「塾長、お久しぶりです。入院してると聞いてますが」

「うん、大丈夫よ。それより、ヤマショウはミサコのことを知っとるんかいね」

「はい。今、店に来たんですが、いないみたいなんです」

「やっぱり、そうか。ワシも連絡が取れんのよ。彼女は見た目よりナイーブじゃけん。ちょっと心配なんよ。店にいるなら、二階と三階も確認してほしいんじゃが」

「あ、分かりました」

「ヤマショウ、お前が最後の切り札じゃけん」

 電話は切れた。気付くと、外は薄暗くなっている。雷鳴が轟き、雨が降り始めた。

「三佐子さん!」

 二階に向かって大きな声で呼ぶが、返事はない。初めて、二階に上がってみる。停電したようで、灯りが消えた。窓からの薄い日と時折の雷光に、部屋が気味悪く映る。売れ残りの本が、部屋の半分を占め、手前には化学の実験のような機器が並んでいる。誰もいない。

 さらに、三階に向かう階段がある。三佐子さんは三階に住んでいると言っていた。駆け上がると木の扉があった。ノックをする。

「三佐子さん、三佐子さん」

 返事がない。

「入るよ」

 扉を開けると、奥のベッドに人間の足が見えた。走って駆け寄る。向こうを向いている。寝ているのか、倒れているのか。

「三佐子さん!」

 肩に手をかけて揺すってみた。顔がこちらに向く。雷鳴の中、電光に映し出されたのは、ミイラのように痩せた女性。しかも…。

「わあ!」

 …死んでる。

 雨音が遠くなっていく。


 新幹線の車内チャイムが鳴り、間もなく広島駅であることがアナウンスされている。

 …夢か。塾長から電話がかかったりしたが。

 着信履歴を見るが、そもそも、塾長と電話番号を交わしたこともない。

 駅につくと、旅行鞄を引き摺って、在来線のホームに移動する。

 暑い。こだまなんかに乗ったので、乗り継ぎが良くない。喫茶店に電話をしてみる。出てくれない。夢のこともあり、心配になってきた。

 …せめて、ひかりに乗っていれば、とっくに矢野についてるのに。

 ようやく来た電車に飛び乗る。席は空いているが、矢野駅で開く側のドアで前をキープする。天神川、向洋、海田市…ようやく、矢野。改札を抜けたところで、鞄を引き摺りながら、純喫茶ぎふまふにリダイヤル…出ない。

 この重い鞄が恨めしい。キャスター付きだが背中に担いで走る。極楽橋を渡るが、夢のように体は軽くならない。ようやく、店の前に着いた。「クローズド」の札がかかっている。ドアを押すと鍵がかかっていない。

「三佐子さん」

 返事がない。鍵もかけずに出かけたのだろうか。

「三佐子さーん!」

 変な臭いがする。警察官経験が「死臭」という言葉を連想させた。階段を駆け上がる。途中、二階を横目で見ると、夢の風景によく似ている。さっきの夢は予知夢なのか。窓が開いて、カーテンが揺れている。階段を一つ飛ばしで三階に上がる。

「三佐子さん! 入るよ」

 ドアを開けた。

「キャッ!」

 一瞬、鏡の前で着替えをしている三佐子さんの姿が見えた。

「ごめんなさい!」

 慌てて、後ろを向いて、ドアの外に出た。

「もう! ノックもせずに!」

 三佐子さんは怒っている。

「ごめんなさい」

「いいよ。入って」

 恐る恐るドアを開けると、三佐子さんは腕組みをして立っていた。

「ごめん。変な夢を見て、何度電話しても出んし、折り返しもないし」

「電話は何回か鳴ってたよ。たまたま、出られんかったんよ。お兄さんかなとも思ったけど、電話番号知らんし」

「着信履歴は?」

「あの昭和風固定電話に、そんな機能あるわけないじゃん」

「そうか…。じゃあ、このにおいは?」

「これ、くさやの干物よ」

「くさや?」

「魚臭い喫茶店、嫌じゃろ? サバ味噌煮定食も水煮の缶詰を味噌煮しよるんよ。干物ならいいかなと思って、くさやを通販で仕入れてみたん。今日は午後からお客さんが切れたけん、お店を閉めて焼いてみたんよ。いや、失敗失敗。こんなに臭いとは知らんかった。服に臭いが付いたような気がして、着替えてたんよ」

「なんだ。良かった」

「良くない! いきなり女性の部屋のドアを開けて。スケベ刑事(でか)」

「ごめん。でも、スケベ刑事は酷い」

「まあ、死んどるんじゃないか思うて、突入したんじゃろ。いいよ、許したげる」

 …やっぱり、心を読む力があるのか。

「そうなんよ。怖い夢を見て…」

「また夢? どんな夢?」

「新幹線でウトウトっとしたらしくてね。その間に、『電車を降りたあとの夢』を見たんよ。現実と区別がつかんくらいリアルじゃった。店に入ったらね、三佐子さんがいなくて、焦げ臭いにおいがするん。そしたら、塾長から電話がかかってきて、三佐子さんが大丈夫か確認してほしいって言うん。三階に上がったら、三佐子さんか誰か分からん、痩せこけた女性が死んでたんよ」

「え、気持ち悪。ここで寝るのが怖くなるじゃん。責任取って」

「責任?」

 自分の恋心を自覚したせいか、彼女の言葉を拡大解釈してしまいそうだ。

 …泊まって行けということ? もしかして、あざとい小悪魔とか百戦錬磨の悪女とか? こんな感じなら、武瑠なんか一発で落ちてしまうよ。いやいや、絶対違う。無邪気な天然なんだよ。母さんの言うとおり、絶対に優しい人だ。

「扱い方も知らずにくさやを仕入れて、不用意に焼いてしまった責任を取らなきゃね。一緒に食べて」

 三階の部屋は広めの1DK。木調の内装、出窓、照明器具は、昭和の和洋館の趣である。水回りだけは後付けのようで、キッチンは現代風。

「あ、店の鍵、開いてたんじゃね。鍵かけて、二階の窓も閉めてきてくれる? その間に食事の準備をする」

「承知!」

「ぎふまふ小説では『御意(ぎょい)』だよ」

「ギョイ」

 一階の店の鍵を内側からかけて、二階に上がって窓を閉めた。たくさん残っていると聞いた塾長の本の在庫、夢の中では部屋の半分を占めていたが、そこまではなかった。それでも、本棚にズラリと同じ背表紙。空きスペースに登場人物のフィギュアが並んでいる。部屋奥で目立っているのは、巨大なサイフォンのようなガラス製の装置。もう一つ、錬金術師が使うような銅製の装置が、怪しげな雰囲気を醸し出している。


 三階に戻ると、「くさや定食」がテーブルに用意されていた。シンプルな素焼きとご飯とみそ汁、お漬物。

「ネットを見ると、チャーハンとか和え物とかあったんじゃけどね。こういう強い素材を、別の味で捻じ伏せるのは、違うと思うの。本当に焼いただけ。まあこの臭いで、戦意を喪失してアイデアが出ないというのが本当かもしれんけど」

「三佐子さん、面白い。じゃあ、いただきます」

 箸で身を外して、恐る恐る口に入れる。

「わ、ゲロ不味(まず)」

 思わず口走り、魚の身を乗せたまま、舌を出してしまった。

「こら! 食べ物を冒涜すると許さんよ」

 そう言って、三佐子さんも一切れ口に入れたが、目をつむって飲み込んだ。

「涙ぐんどるし」

「バレた? 実は私も初めてなんよ。発酵食品は慣れの問題。納豆やチーズだって、昔は食べられん日本人の方が多かったんよ」

「僕、基本、何でも食べるけど、ブルーチーズがダメ」

「人類は飢餓を乗り越える保存食を作るために、命を賭けて腐敗と発酵のフロンティアにチャレンジしてきたんよ」

「今、くさやは僕らのフロンティアじゃね」

「チャレンジ、チャレンジ」

 「せいの!」と言いながら、二人は励まし合って、食べ進める。「ちょっと慣れてきたかな」、「旨さが理解できるようになった」、「ご飯と一緒ならいける」…。そして、二人はくさやへの耐性を獲得した。

「くさや定食のメニュー入りは保留。広島の人にはひと工夫が必要だ」

「じゃね。三佐子さんならきっと何か思いつく」

「お兄さんも、一緒に考えてね」

 夢のことを思い出した。

「そういえば、さっきの夢は今日じゃけど、昨日の夜も夢を見たよ」

「塾長は、お兄さんを集中攻撃しとるね」

「三佐子さんは?」

「私は、あの二回だけじゃね。どんな夢?」

「極楽天神に滝があって、カラス天狗が岩肌の穴を覗けって言うんよ。穴を見つけて覗いたら、こっちとそっくりの空間で戦(いくさ)をやってるの。足軽が『ここは十六世紀、矢野城の姫を守って、毛利元就と戦っている』というの。敵には宙に浮く陰陽師がおって、怪光線に苦しめられているところ、忍者に支えられた足軽が飛び出す。足軽は武瑠で、忍者は三佐子さん。サンザと呼ばれていた。剣で炎を操り、一旦、押し返したが、負けそうになる。武瑠が『お兄ちゃん、助けて』と言うと、向こうの神社の扉からボールが飛び出して、陰陽師に当たって、撃ち落とした。という夢」

 三佐子さんは不思議そうな顔をした。

「ほんとに塾長の小説、読んだことないんよね?」

「ないない」

「それも小説の一場面よ」

「そうなんじゃ」

「さすがにボールは出てこんけど。そういえば、前の晩の夢でボールを蹴ったよね」

「そうなんよ。二十一世紀のコスプレイベントで蹴ったボールが、十六世紀の戦争に届いたということかね? ま、どっちも夢じゃけんね」

 三佐子さんはカウンターの隅から一冊の文庫本を取り出して表紙を見せた。厚さが三センチ以上ある。

「塾長のそこそこ売れた小説。『岐(ぎ)ふ蝶の舞ふ春に』というタイトルなの。ファンがSNSで『ぎふまふ』って略して使ってたらしいよ」

「はあはあ、それで『ぎふまふ』なんじゃね。変な言葉じゃけど、記憶に残ってしまうよね」

「塾長は『口に出して言いたくなる言葉』って言うとった」

「確かに。ぎふまふ、ぎふまふ…ギフチョウって、どんな蝶々なん?」

「アゲハみたいな蝶々。絶滅危惧種なんじゃけど、この町の山にはおるんよ」

「そういえば、こないだから、ちょいちょい、アゲハみたいな黄色い蝶々を見る」

「ギフチョウは春の女神じゃけん、今はおらんよ。この本、読んでみる? 二階に新本がいーっぱい残っとる。これ、あげるよ」

「いや、いいわ。たぶん、読まんけん」

「本が出た頃、作者の塾を目当てに遠くからもファンが来てたんよ。それで、塾をやめて喫茶店にしたみたい。塾長がやっていた頃は、写真とかキャラクターグッズの見本とかが置いてあった。今は全部二階に持って行った」

 店名の由来、一つ謎が解けた。しかし、今の問題は、読んでない小説の夢を見ていること。

「やっぱり、塾長が夢を見せとるんかね。僕、一応警察官なんで、超常現象を体験しているなんて言えんのじゃけど」

「オカルト刑事だ。塾長は、何が伝えたいんかね」


 鞄の中に、お土産の吉備団子が入っていた。

「一緒に食べよ」

 と言うと、「これ、大好き」と言ってくれた。

「じゃあ、お茶淹れるね。ハーブティー」

「ミントティーとか?」

「今日は、うつ病刑事さんのために、セントジョンズワートティーにする」

「セント…?」

「ジョンズワート。うつ病に効くって言われとるんよ。お医者さんのお薬はいつ飲んだ?」

「昨日の晩、半分ずつ。今日は飲んでない」

「じゃあ、いいかな。併用すると稀に副作用が出るらしい」

「ハーブって、単なる臭い消しや香り付けの草じゃないんじゃ」

「もちろん、それだって『単なる』ってことじゃなくて、消毒や防腐、食欲増進みたいな効果があるんよ。もう一歩踏み込んで、医薬品として処方される植物もある。セントジョンズワートは、ヨーロッパでは古くから知られる薬草よ。毒草に指定している国もあるみたいよ」

「毒草?」

「日本では、医薬的効果を謳(うた)わなければ、栽培も販売も制限はないんよ。これあげるけん、家でも飲んでみて」

「ありがとう」

「塾長、耕作放棄地を買って、ハーブを育てとったんよ。その主力がセントジョンズワート」

「塾長、いったい何がしたかったん?」

「乾燥ハーブやハーブ精油を作って、ネット販売してた」

「乾燥ハーブは何となく分かるけど、ハーブ精油って何?」

「エッセンシャルオイルとも言うよ。香水の原料と同じ作り方。二階で変なもの見んかった?」

「巨大なサイフォンのようなもの?」

「ああ、それそれ。あれ、蒸留器なんよ」

「蒸留器?」

「うん。片方の容器でハーブを煮沸して、その水蒸気をチューブで集めて、反対の容器に落として冷やす。ハーブの成分が濃縮された液体ができる」

「それが精油なんじゃね」

「いや、それはハーブウオーター。それはそれで使い道があるけど、その上にわずかに油が浮くのね。それがエッセンシャルオイル。植物の油分にもよるけど、まあ、原料一キロで一グラムとか」

「じゃあ、大量に植物が要るね」

「そう。じゃけ、畑があるの。手間もかかるけん、少々高くても売れるんよ。その畑と蒸留器と商品のブランドも、塾長から引き継いだんじゃけど、実は喫茶店の倍稼いどるんよ」

 …この喫茶店には、そんな副収入があったのか。一昨日レジを見たとき、あれだけ忙しくても一日の売り上げは二万円程度だった。しかし、その倍のハーブ収入があるとすると、月商百万円以上になるのではないか。

 三階のキッチンの横の棚には、紅茶葉の缶のようなものが、十個ほど並んでいる。三佐子さんは、その中から一つ選んで、耐熱ガラスのポットと一緒にテーブルに置いた。指をパチンと鳴らすと、ケトルを乗せたコンロに火が点く。

「あ、ここでも魔法…サイフォンのランプに仕掛けがあるわけじゃないんじゃ」

「ふふ。ちょっと、お湯見ててね」

 そう言って階段を駆け下りて、二分足らずで戻って来た。

「お店の前のフレッシュハーブをちぎって来たよ」

「それ、『お冷(ひや)』の中に入っとるやつよね」

「そう、レモンバーム。ミントの仲間よ。メリッサともいうわ」

「メリッサ、なんかの歌で聞いたことある。珍しいもの?」

「いや、ほぼ雑草。道端にも生えとる」

「そうなんじゃ」

 そのメリッサの葉をきれいに水で洗う。ポットにちぎり入れると、強い柑橘系の香りがほとばしる。熱湯を注いで、蓋。タンと砂時計をひっくり返す。時間がくると、缶から木のスプーンで乾燥ハーブを掬って入れて、また蓋。砂時計をひっくり返して蒸らす。

 …やっぱり、無声で何かを言っている。魔女っぽい。

「このドライハーブはセントジョンズワートの葉。薬草効果はあるんじゃけど、味も香りも薄いんよね。じゃけ、メリッサで香りを付けてみた」

 砂時計の砂が落ち切る。三佐子さんは、ハーブの葉を濾しながら、ガラスのティーカップに薄い琥珀色の液体を注ぐ。

「言っとくけど、紅茶や緑茶みたいなものじゃないよ。味は薄いけん、香りを感じて」

「分かっとる」

「お兄さんは鼻の利く刑事じゃったね」

「意味が違う」

「塾長の言葉を借りれば、『飲む』んじゃなくて『聞く』んよ」

「聞く? 塾長らしい」

 常人には意味不明。理屈っぽいくせに、多分に感覚的。塾長が武瑠を、特別に可愛がったのは、似たような性格で、気が合ったからじゃないだろうか。

 メリッサの香りを帯びたセントジョンズワート茶を「聞く」。

「甘酸っぱい香りと、スースーする清涼感」

「お、メリッサの香りが聞こえたみたいじゃね。お兄さんの嗅覚は、お世辞じゃなくて本物ね。お巡りさんにしとくの、もったいない」

「あ、優しい苦味が来た」

「それがセントジョンズワート」

 「聞く」の意味が分かるような気がする。耳を澄ますことによって、五感が立ち上がる。

 …ふふ。僕も「理屈っぽいくせに、多分に感覚的」になってる。

 気持ちが整っていくのが分かる。

 指を腹に垂直に当て、腹動脈の鼓動を感じながら息を吐く。

「プシュー」

 瞑想の域に入るほど、心が安定してきた。

「その動作は何?」

「不安解消ルーティン」

「ヨガみたいなもの?」

「自分で考えた」

「なんか、武瑠君と似とる」

「え?」

 武瑠とは正反対というのが、自他ともに認める見方だった。しかし、三佐子さんと出会ってからの自分は、それまでの自分とは違うような気がする。

「僕が武瑠化しとるんかも」

「武瑠化?」

「三佐子さん、僕が武瑠じゃったらええのにと思って、魔法かけたじゃろ」

 深くも考えず、口を突いて出た言葉だが、すぐに後悔した。

「ごめんね。武瑠君に似とるとか言うて。でも、お兄さんが武瑠君じゃったらええなんて、思っとらんよ」

 三佐子さんは立ち上がって、申し訳なさそうに謝った。

「あ、僕こそごめん。酷いことを言った」

 僕も立った。

「ごめんね…」

「謝らんで…」

 沈黙。

 遠く踏切の音、近くエアコンの音、さらに近くお互いの呼吸音。

 魔法の空気が二人きりの空間を包む。

 …今、僕の目の前にいる人。僕はこの女の人が好きだ。三佐子さんのことが大好きだ。

 込み上げてくる切ない愛しさをコントロールできない。

 少々強引に、肩に手を回して引き寄せた。

「ダメ」

 三佐子さんは顔の前で、手首をクロスさせて、唇をブロックした。

「ダメ?」

「ダメ」

 拒んでおきながら、どうしたことか、額を僕の胸に寄せてきた。

 ポニーテールの根本が鼻先にきた。

「ねえ、私の髪、におわん?」

「くさやのにおいじゃね」

 二人は吹き出した。そして、離れた。いつものサバっとした三佐子さんに戻る。

「お風呂屋さん、行かん?」

「銭湯? ここにはお風呂ないん?」

「あるよ。でも、ドアがすりガラスじゃけん」

 …僕が見るんじゃないかってこと?

 さっきの着替えの姿が浮かぶ。交番時代にストーカー男に職質をしたことがある。そいつが「男というのは、パンツが見えただけで、その女に執着してしまう動物だ」と言って笑った。反省のない言葉に憤りを覚えたが、今、自分がそんなことになっていないかと戒める。

「そんなことせんよ。現職警官じゃけん」

「そんなことって?」

「いや…」

 …すりガラスだから、どうだと言いたかったのだろう。

「すぐ近くにお風呂屋さんがあるんよ」

「あ、先の角にあったね。まだ、やっとるんじゃね」

「うん。時々、行くんよ。うちの喫茶店と違って、真正昭和レトロ。今でも薪で焚いてるんだって。こないだテレビに出てたよ。遠くから入りに来る人も多(お)いいらしいよ」

「へえ。時代遅れも、やり続ければ希少価値が出るんじゃね」

「もうちょっと、いい言い方してあげて。時代に流されず貫くことで価値が上がるんよ」

 三佐子さんはお風呂バッグから、僕にタオル二枚を渡した。元商店街を歩いて、銭湯に行く。赤いのれんに「女」、青いのれんに「男」と書いてある。扉を押して開けると、番台。高齢のおばさんが座っている。向こうから、三佐子さんが入浴料を支払う。

「その人と二人分」

 番台のおばさんは、一旦、僕を見て、三佐子さんに言う。

「喫茶店のお姉さんよね。こちらは旦那さん?」

 僕が半分ふざけて、「いえ、まだです」と言うと、三佐子さんは「違います。うちのバイト君です」と笑いながら、否定した。

 脱衣所は昔ながらの銭湯。確かに薪で焚いているにおいがする。その焦げ臭さは、嫌なにおいのはずのカルキ臭さえも抱き込んで、癒しを与える。体を洗いながら、壁の向こうの三佐子さんを想像しそうになり、水を被った。湯船に浸かる。すごく落ち着いている。長風呂をしてしまったようだ。

 脱衣所で体を拭いていると、番台のおばさんがこっちに向かって、「お姉さんの方が先に上がっとるよ」と言う。急いで服を着て、銭湯の外に出た。三佐子さんはワンタイミング遅れて出て来た。おばさんと一言交わしたようだ。

「バイト君の筋肉、すごいねって言いよったよ」

「見てたの? なんかエッチだ」

「それ、武瑠君の口癖…」

「武瑠、武瑠、武瑠」

「あ、また。ごめん」

「いいよ。ちょっと分かってきたけん」

「ありがとう」

 街路灯が点灯した道に、肩を並べて歩いた。初めて、髪を下ろしているところを見た。大人っぽく見える。

 僕は事実上、告白した。ダメとは言われたが、僕のことは信頼してくれてるようだ。それなら、僕は三佐子さんが苦しくならない距離で、三佐子さんを守ってあげたい。それが、僕の愛の形だ。

 店の前に戻った。

「一人で怖くない?」

「そういえば、怖い話思い出した。でも、大丈夫」

 僕は「あ、そうじゃった」と、メモとボールペンを取り出し、数字を書いて、破ったページを渡した。

「僕の携帯番号。怖いことが起きたら、いつでも呼んで。飛んでくるけん」

「ありがと」

「じゃあね。明日からまた手伝いに来るね」

「うん。おやすみ」

 グータッチをして分かれた。


 登り坂を歩いて帰った。せっかく銭湯に行ったのに、汗が噴き出す。家に着くとベチャベチャ。とりあえず、シャワーをして着替えた。

「遅かったね。岡山、どうじゃったん?」

 母親に聞かれて思い出した。今日は岡山に行って、職場の手続きをしたのだった。

「ああ、病休じゃなくて、年休で対応することになったよ」

「年休?」

「年次休暇。民間でいう有給」

「二週間も続けて?」

「うん。ちょうど夏の特別休暇もあるし」

「ふーん。お医者さんには行ったん?」

「軽作業なら、むしろやった方がいいって、お墨付きをもらったよ」

「そう。良かったね。ご飯は?」

「三佐子さんのお店で食べて来た」

「ダメよ、甘え過ぎたら。変な噂が立ったら、申し訳ないじゃろ」

「うん。気を付ける」

 …初日から、何人ものお客さんに彼氏かって聞かれたよ。

 面倒な話にならないように、話を切り上げた。ネットテレビでグルメドラマの続きを見ながら、時間を過ごす。

 …そろそろ寝ようか。

 セントジョンズワート茶を飲んだときに、「今日は薬を飲まないで」と言われたので、睡眠導入剤も飲んでいない。今日もいろいろあった。ベッドに横になると、眠くなった。


 街路灯が照らす薄暗い道、銭湯の帰りだ。幸せな気持ちで三佐子さんと肩を並べて歩いていた。三佐子さんが住んでいる喫茶店の前まで来たが、名残(なごり)惜しくて、もう少し歩く。極楽橋の上、前から来た車のヘッドライトに目が眩んだ。

 車が行き過ぎると、舗装がなくなっていて、周囲が森になっている。

 …山道? ああ、これはきっと、塾長の見せる夢だ。

 夢なら構わないだろうと、三佐子さんの手を握った。特に抵抗はされない。三佐子さんも不安そうだ。

「痛い! 足を挫(くじ)いた」

 三佐子さんがしゃがみ込んだ。

「おんぶしてあげるよ」

「ありがとう」

 すっかり日は暮れたが、満月が煌々(こうこう)と光っている。人を背負って山道を歩くのは大変だが、愛しい人の体温は背中に心地よい。

 …年上の人に言う言葉じゃないのかもしれないけど、かわいい。

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