2 ネギ増し増し生姜焼き丼
七月二日火曜日。
朝五時半過ぎに目が覚めた。薬が残っているのか、眠気が残り、頭がボーっとしている。
…散歩でもしようか。
リビングに置いた簡易ベッドに寝ている母親に、「散歩、行って来る」と声をかけて、ズボンだけ穿き替えて外に出た。
…あの店、何時からだろう。
ほかに用事はない。足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。昨日は山越えをして帰ったが、今日は駅前を通る普通の道を行く。三十分ほどで、純喫茶ぎふまふに着いた。眠気はほぼ治まった。
ドアには「クローズド」の札が掛かっているが、店内には灯りが点いている。少し迷ったが、ドアノブに手をかけて押してみた。
カランコロン。
開いた。調理場で料理している湯気の向こうに、棚から食器を出している三佐子さんの後ろ姿が見えた。
「ごめんなさい。開店は七時なんですよ」
そう言って、こちらを振り返ったとき、ものすごくびっくりした顔をした。皿が床に落ちて割れる。
「大丈夫です?」
「あ、お兄さん。びっくりしたあ」
「ごめんなさい。開店前なんかに来て、驚かせてしまいましたね」
「ううん、違うんです。武瑠君に見えたんです」
「え? このシャツのせいかな。昨夜、母にも言われました」
「そのシャツ見たことがあります」
…このシャツを見たことがあるということは、武瑠とは失踪直前の知り合いということになる。行方不明の件は知っているのだろう。突然、現われたりしたら、皿を落とすほどびっくりするかもしれない。
「そうですか。驚かせてごめんなさい。日帰りのつもりだったので、着替え持って来てなくて、借りました」
「日帰り…」
「いえ、あ、おはようございます。また、来ちゃいました」
「来てくださったのですね…」
割れた皿を集めながら、ちょっとうれしそうな顔をした。
「お皿、手伝いますよ」
「いえ、そんな。ちょっとカウンターの席にでも座っててください」
「あ、僕、邪魔してますね。本当にお手伝いさせてください」
「仕事はお休みなんですか? 日帰りのつもりだったのでは」
「ちょっとしばらく」
「しばらく? そうですか。じゃあ、お願いしようかな」
「何なりと」
「じゃあ、まず、店の前のプランターに水を遣ってもらえますか。昨日、今日、続けて寝坊してしまって」
「そういえば、昨日も夕方近くに遣ってましたね。分かりました」
「よろしくお願いします」
…なんか、言葉がまどろっこしい。この提案は年上の自分からしなきゃな。
「あの」
「はい?」
「あの、敬語やめません?」
「あ、ああ、お兄さんがそう言うなら。その方が、私も話やすいです」
「よし、では、一、二の三!」
「じゃあ、プランターに水を遣ってきてくれん? ザッとでええけんね」
「わりかしガッツリ広島弁」
笑顔になった三佐子さんから、ジョウロを受け取った。水を汲んで、名前も分からない草に、水を遣る。結構たくさんある。
…ミントの一種かな。
葉を一枚ちぎり、指で揉みつぶして、鼻に近づけると、ミントというより柑橘に似た強い香り。鼻から喉が涼しくなって、頭がすっきりした。
…水に入っている『レモンの香りがするミントの仲間』は、きっとこれだ。
店内に戻ると、彼女は戦闘モードに入っていた。開店まで三十分しかない。
「キッチンも手伝ってもらえる?」
「もちのろん」
「それ、オーナーがよく言うとった。昭和語じゃね。それより、ゆで卵がまだなんよ。石鹸で手をよーく洗って、このエプロンと三角巾を付けて。鍋に水を張って、出してある卵を二パック、全部茹でて」
「ゆで卵くらいなら、できるよ」
「アラームを二つかけて、七分で十個、これが半熟。別の鍋に水を張って、そこで、流水と一緒に冷やす。殻は剝いちゃだめよ。十三分で残り十個、こっちは固ゆで。半熟と混ぜんようにね。冷やしたら殻を剥いてマヨネーズを和えながら潰す。あ、黄身が偏らんように、五分の時に、一回よく混ぜてね」
「メモしてもええ?」
「これくらい覚えろお!」
「厳しい!」
お互い笑いながら言っている。三佐子さんは、小さなボウルにオイルと酢とスパイスを入れて、こちらに手渡した。
「卵を茹でている間に、これ混ぜて。野菜サラダのドレッシングよ」
「ドレッシングまで手作り?」
「理由一、お客様に美味しいものを食べていただくため。理由二、買うより安い! ほら、心を込めて混ぜてよ」
サラダの野菜をタンタンタンと切り、器に盛り付けたかと思うと、茹でたじゃがいもにマヨネーズとタラコを入れて潰し始めた。とにかく手早い。調理をしている三佐子さんは真剣そのもの。
「すごいスピードじゃね」
「料理で大事なことは、丁寧な下ごしらえと調理の手際。真心とか誠意とかは、技術があってこそ表現できるんよ」
「名言!」
「寝坊なんて、プロとしてもってのほか。私もまだまだ」
「体調管理も技術のうちじゃね」
「そのとおり! ほら、アラーム鳴ったよ。半熟卵を上げて!」
「了解!」
「すぐに冷却! 余熱で固まるけんね」
「オッケー!」
ずっと前から相棒だったようなコンビネーション。忙しさを楽しんでいる。
「ありがと。間に合ったわ」
開店時間の七時になる。ドアの札を「オープン」にひっくり返す。常連三人が次々と入店。いずれも中年男性である。
「いらっしゃいませ」
「あら、三佐子ちゃんの彼氏かいね?」
「はい」
「はいじゃないじゃろ。新人のバイト君です。研修中につき、失礼がありましたらごめんなさい」
冗談まじりに紹介してくれた。
「よろしくお願いします」
「失業でもしたん? ま、気にすな。そのうち何とかなるよ」
「ありがとうございます」
的外れではあるが、気の良いお客さんの人柄に励まされる。
「皆さん出勤前なんじゃけん、急いで差し上げてね。お
「おひや?」
一番年配のお客さんが解説してくれる。
「水のことよ。オーナーの昭和趣味で、わざとそんな言葉を使うとるんよね。熱いコーヒーはホット、アイスコーヒーは
「何のことだか分かりません」
「この喫茶店には、古き良き昭和が残っとるんよ」
「たぶん、お冷は今のレストランでも使ってますよ。お兄さんが知らんだけじゃと思う。ええけん、急いで!」
「はいはい、おひや、おひや」
モーニングセットは、四枚切りトースト、コーヒー、サラダ、卵で三百五十円。サラダは日替わり。卵は半熟、マヨネーズ和えが選べる。目玉焼き、スクランブルエッグは二個使うので五十円アップ。コーヒーはおかわり自由である。
「ご注文のいただき方、見とってね。常連さんはこうよ」
一旦、こっちに向かってそう言い、お客さんを見渡しながら言う。
「お三人様、同時でごめんなさい。いつもの半熟、目玉、マヨ和えでいいですか。今日のサラダは『たらも』にしました」
「俺、今日は目玉焼きじゃなくてスクランブルにして」
「承知しました。半熟、マヨ和え、スクランブル。しばらくお待ちください」
オーブントースターは一度に四枚焼ける。三佐子さんはそこに三枚入れて、三分にセット。
「先にコーヒーをお出しして」と僕に指示。朝のコーヒーはやかんで十杯分を抽出して、ドリッパーで微細な粉を濾す。粉はサイフォン用とは変えてあるらしい。僕は昭和な魔法瓶からカップに注ぎ、お盆に三つ載せて、お客さんに出した。
三佐子さんはトレイを三枚出し、器を並べる。冷蔵庫からサラダを取り出して盛り付ける。コンロに火を点けフライパンを熱する。その間に、殻を切った半熟卵をエッグスタンドに乗せ、マヨネーズ和えを盛り付けた。熱くなったフライパンにバターを落として、回しながら広げる。ボウルに割った卵を軽く攪拌して、輪を描くように流し込む。そこで火を落として、余熱でスクランブルして、皿に盛った。
そこで、オーブンがチンと言う。パンにマーガリンを塗る動作は、ナイフを上に向かって左半分、斜めに戻しながら中央部を通り、N字に折り返して右半分、両手を器用に動かして、角、角、角、角。複雑な動きだが、一挙動で流れる。
「はい、お待ちどおさま」
無駄のない動き。同時に入ったお客さんには同時に出して差し上げたい。大事な気遣いだと思う。「技術がなければ、真心は表現できない」。三佐子さんの言葉の意味が分かるような気がした。僕は、困っている人には心を込めて、怪しい人物にも丁寧に対応してきたつもりだが、スピードとか理論とかのスキルアップを怠ってきたのではないか。そして、その結果がこの行き詰り。
「何、ボーっとしとるん。コーヒーのお代わりを注いで差し上げて」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
常連さんの一人が「何か楽しそうじゃね。朝から元気もろうたよ」と笑って言った。お客さんはNHKのニュースを見ながら、無表情に食べる。朝食は一日の始まりのルーティン、妙なバリエーションを必要としない。美味しいことは当然として、同じペースで食べて同じ時間に食べ終わることが大事なのだ。
お金を払って店を出るとき、三佐子さんは「行ってらっしゃい。テキトーに頑張ってくださいねー」と声をかける。「テキトーにいうのがええね。いつもありがと。また来るね」。「毎度ありー」、底抜けに明るい感じである。
母親から電話がかかってきた。そういえば、散歩してくると言って、早朝に出たっきりだった。息子の一人が失踪している母には心配だったのかもしれない。謝って、「夕方には必ず帰る」と言った。
その後、モーニングタイムは十一時まで、八時台、九時台、十時台と三人ずつくらい現れる。高齢の常連さんが多い。だし巻きや炒り卵くらいの特注には応じる。ウエイターとしてのだいたいの要領は得た。
十一時から昼定食をセットする。今日は生姜焼き定食とサバ味噌煮定食の二種類。少なくとも一週間、メニューが重なることはない。十二時を過ぎると、ほぼ満席。近所の店や会社の人なので、自発的に相席してくれる。息をつく暇もない。
一時には、特製カレー目当ての人がちょうど五人待っていた。
わずか半日だが、一緒に忙しい時間を過ごしたことで、信頼が高まり、距離が縮まった。
昼下がり、お客が切れた。
「ありがとう。やっぱり、もう一人いると助かるわ」
「そう言ってもらえると、うれしい」
「飲食の先輩に、一人で二人分は働けんけど、二人なら四人分働けるって聞いたことがある」
「なるほど、チームワークじゃね」
昼定食で余った豚肉の生姜焼きを、ご飯に乗せて出してくれた。それが見えないくらいの刻みネギがかかっている。カウンターに並んで座り、生姜焼き丼を食べる。
「憧れのまかない料理。このドバッとやり過ぎな感じ、うちの母さんの料理に似とる」
「そうなん。お母さんはお元気?」
「うちの母を知っとるん?」
「知ってるってほどじゃないけど…。お兄さんにも一応、会ったことはあるんよ」
「え、どこで?」
「言うても分からんと思う」
弟の名前を知っていて、僕がその兄だと知っていた。さらに、母と僕にも会ったことがあると言う。何か引っかかるような気もするが、思い出せない。君島三佐子という名前は忘れたわけではなく、たぶん聞いたことがない。
「まあ、食べよ。しっかり底まで混ぜてね」
肉は一口大に切ってある。丼の底からツユの沁みたご飯を掘り出し、肉とネギを混ぜ込む。
「三佐子さん。これ、美味しい!」
「じゃろ。お客さんには申し訳ないけど、私ら、メニューより美味しいもの食べとるわ」
「タレは生姜と醤油と砂糖とみりん、ごま油?」
「さすが! あと、秘密の粉」
「やっぱり秘密の粉が入っとるんじゃ。味噌汁も美味しい。出汁には椎茸も入っとるね」
「お兄さん、やっぱりすごいね」
「一人暮らしが長くて、恋人とかもおらんけん、外食しては材料や調味料を推測して、自炊に再現する趣味があるんよ」
「恋人おらんのじゃ」と聞こえたような気がしたが、それは気のせいだった。
「へえ、警察官らしくない趣味じゃね」
「お巡りにもグルメはおるよ」
「そりゃそうか」
二人は顔を見合わせて笑った。
…かわいい人だ。武瑠とはどういう関係だったんだろう。
それを聞こうとすると、向こうから先に質問された。
「しばらく休みって言ってたけど、どういうこと?」
刑事になって一年ちょっと、メンタルが弱って病休を取ったことを話した。
「うつ病
「何それ? かっこ悪」
「ごめん。で、どれくらい休むん?」
「とりあえず、二週間」
「二週間で治るうつ病?」
「様子を見て、延長する可能性はある」
「薬見せてみて」
「そういえば、薬剤師じゃったって言いよったね」
岡山の心療内科で処方してもらった薬を出すと、次々と名前を確認した。
「うん、初心者コースじゃね。たぶん、新型うつ病ってやつよ。昔なら、
「仮病のズル休みは酷いよ」
「ま、昔と今は違うけんね。お医者さんの言うことは守らんといけんけど、これ、全部飲んだら眠くて、何もできんようになるよ。飲むのは寝る前だけにしょ。半分ずつでええよ。日中はこの精神安定剤だけ、お守り代わりに持っとくとええよ」
「わ、ほんまに薬剤師なんじゃね」
食べ終わると、ポツポツと午後のお客さん。皆、コーヒーを注文する。サイフォンのランプに指で火を点けると拍手するお客さんもいる。砂糖やミルクは付けないが、町内のお菓子屋さんに特注で焼いてもらったクッキーをサービスする。ハーブが入っているらしい。
僕がコーヒーを出すと、常連らしい中年女性に「三佐子ちゃんの運命の人?」と聞かれた。関係を聞かれるのは三人目。それにしても、運命の人とは大袈裟な言葉だ。
「おばさん、やめて」
お客さんに対して、「おばさん」は失礼な気がした。
「ああ、この人、母の弟の奥さん」
…『叔母』という意味なんだ。
「こないだ、『間もなく運命の人が現れる』と出たけん」
「勝手に人のこと占わんのよ」
「心配なんよ。私が三佐子ちゃんの唯一の親戚じゃけんね。血は繋がっとらんけど」
「それはありがたいけど…」
叔母さんは、三佐子さんの言葉を聞かずに、僕に話しかけてきた。
「水商売三十年の経験と勘を使って、占いもやっとるんじゃけど、特に男女の相性は外したことがないんよ。半分以上はやめた方がええ言うんじゃけど、あんたら、相当ええ感じよ。私のアンテナにピーンときた」
…相当ええ感じって…。
僕は自分でも分かるくらい照れているが、三佐子さんは困ったように笑っている。
「それ、占いじゃなくて、当てずっぽうの勘じゃろ?」
奥のテーブルに座っていた、七十代くらいの男性が笑っている。
「この人の勘は、占いよりよう当たるけん」
「もう、先生までやめてください。あ、この人は塾長のお友達で、郷土史会の会長さん。町の生き字引よ」
「菊池塾長とは教員時代からの付き合いで、開店当時からここに来とる。倒れとる人には申し訳ないが、三佐子さんが継いでから、コーヒーも料理も美味しくなったよ」
「そんなこと言ったら、塾長、怒りますよ」
「ほうじゃね。早よ、帰って来てくれんと、郷土史談義する相手がおらんで困る」
叔母さんが言う。
「先生と菊池塾長の相性も抜群よ」
「やめてくれ。気持ちの悪い」
店内は笑いに包まれた。郊外の喫茶店にほのぼのとした時間が過ぎて行く。
午後六時、閉店の時間だ。
「送って行くよ」
「ほんま?」
「うん。ちょっと、待っとってね」
三佐子さんは、レジの鍵をかけて、食洗器のスイッチを入れ、ガスの元栓や窓のロックを確認した。ドアの札を「クローズド」に返して鍵をかけた。
店から数十メートルの駐車場に向かうと、「純喫茶ぎふまふ」と書かれた軽バン。古い車のようで、キーでロックを解除して、キーでエンジンをかける。
…ぎふまふって何なんだろう?
三佐子さんは運転席に、僕は助手席に座った。二人で車に乗るうれしさと、母親に病休のことを伝える躊躇いが、混ざり合わずに併存している。
武瑠との関係を聞こうとする。しかし、また先を越された。
「何か躊躇っていること、ない?」
…心を読まれてる気がする。
「メンタルで休むことを報告しに帰って来たのに、昨日は言いそびれた」
「やっぱり…」
「え。なんでなんで。なんで分かるん? 叔母さんの占い?」
「そうじゃない。正夢? うーん、予知夢っていうんかね」
「予知夢?」
「昨日の朝方、塾長が夢枕に立ったんよ、変な姿で、周りをギフチョウが飛んでたわ。
…嘴と羽根?
僕はハッとした。
「それ、マジの話?」
「マジの話よ」
「カラス天狗じゃない?」
「それそれ、たぶんそれ」
昨日のサッカーの夢の話をした。
「『最後の切り札、ヤマショウの出番だ』って言われた」
「誰に?」
「カラス天狗の恰好をした塾長に」
「わー、鳥肌立つんですけど…塾長が二人の夢に、同じ恰好で出てきたんじゃね」
「で、三佐子さんのはどんな夢じゃったん?」
「昨日の朝はね、『間もなく心病みの若武者が現れる。躊躇を抱えておるゆえ、背中を押してやれ』とか言うんよ。『何それ?』と思ったんじゃけど、本当に心病みの落ち武者が現れたじゃろ」
「僕のこと? 心病みの落ち武者? そんなに落ちぶれ感あった?」
「ごめんごめん。で、今朝はね、夢にお兄さんが現れたんよ。何かモジモジして躊躇っている様子なので、私は『行くよ!』言うて背中を押して、一緒に走り出したん。短い夢じゃったけど、二日とも起きんにゃいけん時間に見て、寝坊したんよ」
「そうなんじゃ」
…三佐子さんの夢に、僕が出たんだ。
「で、塾長はどこでどうしよるん?」
「入院しとるよ」
「え、そうなん。どこが悪いん?」
「ずっと意識がない」
「え、そんなに?」
「管をたくさん付けられて、眠っとるよ」
言葉を失っているうちに、車は家の前に着いた。
ぎふまふの意味、武瑠との関係、僕とどこで会ったのか…聞きたいことはまだいっぱいあるのに。
車を降りた。
「お母さんによろしくね」
「明日も行っていい?」
「明日は休みよ」
「いろいろ聞きたい」
「そうじゃね。今日、お母さんに報告できたら、そのことを教えて。私も夢で見たけん気になる」
「うん」
車が見えなくなるまで見送った。
鍵を開けて、家に入る。
テーブルに母親と座り、約束どおり、仕事を休むことを話した。
「うつ病で休職したいうこと?」
「まあ、そんなところ。気分が沈む状態が続いとった」
「お父さんも、そんな時期があったんよ」
「そうなん?」
「会社に行かれんようになって、しばらく休んだ」
「どうやって治したん?」
「完全には治らんかったんじゃと思うよ。この病気は治ったとしても、簡単に再発するみたいじゃし」
「そうなんじゃ」
「今も、どんより沈んどるん?」
「今は全く」
「じゃあ、原因は仕事なんじゃね。原因が分かっているうちは軽症よ。その原因から離れとけば、病気じゃないんじゃけん」
鞄から、どっさりと薬を出して見せた。三佐子さんには、初心者コースだと言われた。
「去年から刑事になった言うたじゃん」
「なりたかったんじゃろ?」
「うん。でも、それがいけんかった」
「どして?」
「一年頑張ったんじゃけどね。優秀な人ばっかりでついていけんのよ。上司には叱られるし」
「そりゃあ、下っ端といえども刑事じゃけん。一歩間違えば、仲間の命を危険に晒すんじゃろ。厳しくて当たり前じゃわいね」
「いや、刑事いうてもね。殺人とか暴力団相手じゃなくて、選挙違反の捜査しとるんよ」
「選挙違反? 刑事ってそんなこともやるんじゃね」
「うん。今、選挙がないけん、去年からひたすら名簿を集めとる。同窓会とか商工会とか」
「地味
「刑事の仕事は地道なもんよ。刑事ドラマみたいなことにははならんと思う」
「そうか。劣等感に
「そがいな言い方せんでもええじゃん」
「それだけ元気がありゃあ大丈夫。うつ病患者に頑張れ言うちゃダメじゃと言うけど、母親じゃけん言うよ。頑張れ。いや、頑張るな。適当にやっとけ」
「母さん、無茶苦茶」
…テキトーに頑張れか。三佐子さんも、お客さんにそう言ってたな。
心配するから言いたくないと思っていたのは、自分の恥を隠したいための言い訳だったと思った。母親は心配を見せずに、息子を激励した。
仏壇の父親にも報告した。父親は武瑠の失踪の少し前に心筋梗塞で死んだ。今は落ち着いているが、三年前はこの明るい母も相当落ち込んでいた。仏壇の隣の小さなテーブルには武瑠の写真が置いてある。
…武瑠。お前どこに行ったんだ。
「母さん、腹減った」
「チャーハン作ろうか」
「昨日も食べた。あ、今日は僕が作る」
「料理できるん?」
「九年、自炊しとるんで」
三佐子さんの見事な手さばきを見て、自分でも料理がしたくなっていた。
冷蔵庫を見ると、一人暮らしなのに、誰が食べるんだろうと思うほどのたくさんの食材。
…豚バラとネギ、あった。昼、まかないで食べた「ネギ増し増し生姜焼き丼」を再現してみよう。
「見た目はイマイチじゃけど、味は保証する」
トレイに、味噌汁とラッキョ漬けと一緒に乗せて、母親の前に出した。
「最初に底まで混ぜてね」
母親は一口食べて、「旨いじゃん」とは言ったが、立ち上がって、冷蔵庫から生卵を出した。
丼に割って落とし、混ぜながら「もっと美味しくなる」と言った。
「さすが、我が家のくどい味づくり」
自分で食べてみると、やはり、三佐子さんの生姜焼きにはほど遠い。
…「秘密の粉」が入っていないからな。
母がやったように卵を入れると、味がまとまった。
食後の薬を、三佐子さんの言ったとおり、半分ずつ。二錠のものは一錠、一錠のものは歯で半分に割って飲んだ。
母と一緒に、ネットテレビの番組を選んだ。グルメドラマ番組を見つけ、それを見ているうちに眠くなる。ソファーで寝てしまった。
昨日の夢の続きなのか、サッカーのベンチのようなところで、侍や忍者、僧兵の恰好をした人たちが、待機している。自分の視点は、それを後ろから見ている。
今日もカラス天狗の恰好をした塾長が仕切っている。
「武瑠君、行くぞ!」
「ビビっとるんか。しょうがない。もう時間じゃ」
カラス天狗がベンチから飛び出して行った。そこはグラウンドではなく、神社の境内。どうしたことか、集まった若い女性の歓声が上がる。口上を読み上げ始めた。
「やあやあ、我こそは、かの小説の著者にして、作品中の『トキの行者』のモデル、菊池でござりまするーー」
拍手が起こった。
「本日はお足元の悪い中、このような山中、極楽天神まで、ようこそおいでくださいました。これより、ぎふまふ一座のコスプレ演武をご覧にいれまするーー」
侍二人、僧兵三人、忍者二人が次々と飛び出し、紹介された。派手な殺陣とアクロバティックなアクションに、観客のボルテージが上がる。
「そして、そして! この物語のヒロイン・アンド・ヒーロー、アゲハとサヌ!」
「行くよ!」と背中を押したのは、お姫様。
…三佐子さんだ。
僕は日本神話の服と髪型で、長い弓を持っている。お姫様とともに、境内に躍り出ると、百人以上いる観客の最高潮の歓声に迎えられた。先に出たメンバーを背に、二人で
「我こそは、矢野城六代目城主アゲハ! 隣に控えしは我が夫、
カラス天狗が「最後の切り札、頼むぞ」と言うと、足元にサッカーボールが転がってきた。
「サヌに扮する、ヤマショウは当代一の
…言い過ぎ。どプレッシャーだ。
長い弓を三佐子さんに預け、深呼吸。フリーキックのように間合いを取り、助走して、ボールを蹴る。左足の甲で捉えると、唸りを上げて神社の建物に向かった。
…あ、神社が壊れる!
心配したが、いつの間にか開いていた扉の中に、吸い込まれて行った。
女性ファンの黄色い歓声が上がる。お姫様の三佐子さんが「お兄さん、素敵!」と言って、ハグしてくれた。
目が覚めた。スマホの時計はまだ十二時過ぎ。
…幸せな夢だったな。
夢はたいていすぐに忘れる。一旦、体を起こし、電気を付けて、鞄の中のメモ帳に記録した。エアコンは付けたままだが、汗びっしょり。母親がタオルケットを掛けてくれている。その縁で汗を拭いた。
再び、眠りに落ちた。
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