2 ネギ増し増し生姜焼き丼

 七月二日火曜日。

 朝五時半過ぎに目が覚めた。薬が残っているのか、眠気が残り、頭がボーっとしている。

 …散歩でもしようか。

 リビングに置いた簡易ベッドに寝ている母親に、「散歩、行って来る」と声をかけて、ズボンだけ穿き替えて外に出た。

 …あの店、何時からだろう。

 ほかに用事はない。足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。昨日は山越えをして帰ったが、今日は駅前を通る普通の道を行く。三十分ほどで、純喫茶ぎふまふに着いた。眠気はほぼ治まった。

 ドアには「クローズド」の札が掛かっているが、店内には灯りが点いている。少し迷ったが、ドアノブに手をかけて押してみた。

 カランコロン。

 開いた。調理場で料理している湯気の向こうに、棚から食器を出している三佐子さんの後ろ姿が見えた。

「ごめんなさい。開店は七時なんですよ」

 そう言って、こちらを振り返ったとき、ものすごくびっくりした顔をした。皿が床に落ちて割れる。

「大丈夫です?」

「あ、お兄さん。びっくりしたあ」

「ごめんなさい。開店前なんかに来て、驚かせてしまいましたね」

「ううん、違うんです。武瑠君に見えたんです」

「え? このシャツのせいかな。昨夜、母にも言われました」

「そのシャツ見たことがあります」

 …このシャツを見たことがあるということは、武瑠とは失踪直前の知り合いということになる。行方不明の件は知っているのだろう。突然、現われたりしたら、皿を落とすほどびっくりするかもしれない。

「そうですか。驚かせてごめんなさい。日帰りのつもりだったので、着替え持って来てなくて、借りました」

「日帰り…」

「いえ、あ、おはようございます。また、来ちゃいました」

「来てくださったのですね…」

 割れた皿を集めながら、ちょっとうれしそうな顔をした。

「お皿、手伝いますよ」

「いえ、そんな。ちょっとカウンターの席にでも座っててください」

「あ、僕、邪魔してますね。本当にお手伝いさせてください」

「仕事はお休みなんですか? 日帰りのつもりだったのでは」

「ちょっとしばらく」

「しばらく? そうですか。じゃあ、お願いしようかな」

「何なりと」

「じゃあ、まず、店の前のプランターに水を遣ってもらえますか。昨日、今日、続けて寝坊してしまって」

「そういえば、昨日も夕方近くに遣ってましたね。分かりました」

「よろしくお願いします」

 …なんか、言葉がまどろっこしい。この提案は年上の自分からしなきゃな。

「あの」

「はい?」

「あの、敬語やめません?」

「あ、ああ、お兄さんがそう言うなら。その方が、私も話やすいです」

「よし、では、一、二の三!」

「じゃあ、プランターに水を遣ってきてくれん? ザッとでええけんね」

「わりかしガッツリ広島弁」

 笑顔になった三佐子さんから、ジョウロを受け取った。水を汲んで、名前も分からない草に、水を遣る。結構たくさんある。

 …ミントの一種かな。

 葉を一枚ちぎり、指で揉みつぶして、鼻に近づけると、ミントというより柑橘に似た強い香り。鼻から喉が涼しくなって、頭がすっきりした。

 …水に入っている『レモンの香りがするミントの仲間』は、きっとこれだ。

 店内に戻ると、彼女は戦闘モードに入っていた。開店まで三十分しかない。

「キッチンも手伝ってもらえる?」

「もちのろん」

「それ、オーナーがよく言うとった。昭和語じゃね。それより、ゆで卵がまだなんよ。石鹸で手をよーく洗って、このエプロンと三角巾を付けて。鍋に水を張って、出してある卵を二パック、全部茹でて」

「ゆで卵くらいなら、できるよ」

「アラームを二つかけて、七分で十個、これが半熟。別の鍋に水を張って、そこで、流水と一緒に冷やす。殻は剝いちゃだめよ。十三分で残り十個、こっちは固ゆで。半熟と混ぜんようにね。冷やしたら殻を剥いてマヨネーズを和えながら潰す。あ、黄身が偏らんように、五分の時に、一回よく混ぜてね」

「メモしてもええ?」

「これくらい覚えろお!」

「厳しい!」

 お互い笑いながら言っている。三佐子さんは、小さなボウルにオイルと酢とスパイスを入れて、こちらに手渡した。

「卵を茹でている間に、これ混ぜて。野菜サラダのドレッシングよ」

「ドレッシングまで手作り?」

「理由一、お客様に美味しいものを食べていただくため。理由二、買うより安い! ほら、心を込めて混ぜてよ」

 サラダの野菜をタンタンタンと切り、器に盛り付けたかと思うと、茹でたじゃがいもにマヨネーズとタラコを入れて潰し始めた。とにかく手早い。調理をしている三佐子さんは真剣そのもの。

「すごいスピードじゃね」

「料理で大事なことは、丁寧な下ごしらえと調理の手際。真心とか誠意とかは、技術があってこそ表現できるんよ」

「名言!」

「寝坊なんて、プロとしてもってのほか。私もまだまだ」

「体調管理も技術のうちじゃね」

「そのとおり! ほら、アラーム鳴ったよ。半熟卵を上げて!」

「了解!」

「すぐに冷却! 余熱で固まるけんね」

「オッケー!」

 ずっと前から相棒だったようなコンビネーション。忙しさを楽しんでいる。

「ありがと。間に合ったわ」


 開店時間の七時になる。ドアの札を「オープン」にひっくり返す。常連三人が次々と入店。いずれも中年男性である。

「いらっしゃいませ」

「あら、三佐子ちゃんの彼氏かいね?」

「はい」

「はいじゃないじゃろ。新人のバイト君です。研修中につき、失礼がありましたらごめんなさい」

 冗談まじりに紹介してくれた。

「よろしくお願いします」

「失業でもしたん? ま、気にすな。そのうち何とかなるよ」

「ありがとうございます」

 的外れではあるが、気の良いお客さんの人柄に励まされる。

「皆さん出勤前なんじゃけん、急いで差し上げてね。おひやをお出しして」

「おひや?」

 一番年配のお客さんが解説してくれる。

「水のことよ。オーナーの昭和趣味で、わざとそんな言葉を使うとるんよね。熱いコーヒーはホット、アイスコーヒーはれいコ、レモンスカッシュはレスカ、クリームソーダはクリソー」

「何のことだか分かりません」

「この喫茶店には、古き良き昭和が残っとるんよ」

「たぶん、お冷は今のレストランでも使ってますよ。お兄さんが知らんだけじゃと思う。ええけん、急いで!」

「はいはい、おひや、おひや」

 モーニングセットは、四枚切りトースト、コーヒー、サラダ、卵で三百五十円。サラダは日替わり。卵は半熟、マヨネーズ和えが選べる。目玉焼き、スクランブルエッグは二個使うので五十円アップ。コーヒーはおかわり自由である。

「ご注文のいただき方、見とってね。常連さんはこうよ」

 一旦、こっちに向かってそう言い、お客さんを見渡しながら言う。

「お三人様、同時でごめんなさい。いつもの半熟、目玉、マヨ和えでいいですか。今日のサラダは『たらも』にしました」

「俺、今日は目玉焼きじゃなくてスクランブルにして」

「承知しました。半熟、マヨ和え、スクランブル。しばらくお待ちください」

 オーブントースターは一度に四枚焼ける。三佐子さんはそこに三枚入れて、三分にセット。

 「先にコーヒーをお出しして」と僕に指示。朝のコーヒーはやかんで十杯分を抽出して、ドリッパーで微細な粉を濾す。粉はサイフォン用とは変えてあるらしい。僕は昭和な魔法瓶からカップに注ぎ、お盆に三つ載せて、お客さんに出した。

三佐子さんはトレイを三枚出し、器を並べる。冷蔵庫からサラダを取り出して盛り付ける。コンロに火を点けフライパンを熱する。その間に、殻を切った半熟卵をエッグスタンドに乗せ、マヨネーズ和えを盛り付けた。熱くなったフライパンにバターを落として、回しながら広げる。ボウルに割った卵を軽く攪拌して、輪を描くように流し込む。そこで火を落として、余熱でスクランブルして、皿に盛った。

 そこで、オーブンがチンと言う。パンにマーガリンを塗る動作は、ナイフを上に向かって左半分、斜めに戻しながら中央部を通り、N字に折り返して右半分、両手を器用に動かして、角、角、角、角。複雑な動きだが、一挙動で流れる。

「はい、お待ちどおさま」

 無駄のない動き。同時に入ったお客さんには同時に出して差し上げたい。大事な気遣いだと思う。「技術がなければ、真心は表現できない」。三佐子さんの言葉の意味が分かるような気がした。僕は、困っている人には心を込めて、怪しい人物にも丁寧に対応してきたつもりだが、スピードとか理論とかのスキルアップを怠ってきたのではないか。そして、その結果がこの行き詰り。

「何、ボーっとしとるん。コーヒーのお代わりを注いで差し上げて」

「はいはい」

「はいは一回!」

「はい!」

 常連さんの一人が「何か楽しそうじゃね。朝から元気もろうたよ」と笑って言った。お客さんはNHKのニュースを見ながら、無表情に食べる。朝食は一日の始まりのルーティン、妙なバリエーションを必要としない。美味しいことは当然として、同じペースで食べて同じ時間に食べ終わることが大事なのだ。

 お金を払って店を出るとき、三佐子さんは「行ってらっしゃい。テキトーに頑張ってくださいねー」と声をかける。「テキトーにいうのがええね。いつもありがと。また来るね」。「毎度ありー」、底抜けに明るい感じである。

 母親から電話がかかってきた。そういえば、散歩してくると言って、早朝に出たっきりだった。息子の一人が失踪している母には心配だったのかもしれない。謝って、「夕方には必ず帰る」と言った。

 その後、モーニングタイムは十一時まで、八時台、九時台、十時台と三人ずつくらい現れる。高齢の常連さんが多い。だし巻きや炒り卵くらいの特注には応じる。ウエイターとしてのだいたいの要領は得た。

 十一時から昼定食をセットする。今日は生姜焼き定食とサバ味噌煮定食の二種類。少なくとも一週間、メニューが重なることはない。十二時を過ぎると、ほぼ満席。近所の店や会社の人なので、自発的に相席してくれる。息をつく暇もない。

 一時には、特製カレー目当ての人がちょうど五人待っていた。

 わずか半日だが、一緒に忙しい時間を過ごしたことで、信頼が高まり、距離が縮まった。

 昼下がり、お客が切れた。

「ありがとう。やっぱり、もう一人いると助かるわ」

「そう言ってもらえると、うれしい」

「飲食の先輩に、一人で二人分は働けんけど、二人なら四人分働けるって聞いたことがある」

「なるほど、チームワークじゃね」

 昼定食で余った豚肉の生姜焼きを、ご飯に乗せて出してくれた。それが見えないくらいの刻みネギがかかっている。カウンターに並んで座り、生姜焼き丼を食べる。

「憧れのまかない料理。このドバッとやり過ぎな感じ、うちの母さんの料理に似とる」

「そうなん。お母さんはお元気?」

「うちの母を知っとるん?」

「知ってるってほどじゃないけど…。お兄さんにも一応、会ったことはあるんよ」

「え、どこで?」

「言うても分からんと思う」

 弟の名前を知っていて、僕がその兄だと知っていた。さらに、母と僕にも会ったことがあると言う。何か引っかかるような気もするが、思い出せない。君島三佐子という名前は忘れたわけではなく、たぶん聞いたことがない。

「まあ、食べよ。しっかり底まで混ぜてね」

 肉は一口大に切ってある。丼の底からツユの沁みたご飯を掘り出し、肉とネギを混ぜ込む。

「三佐子さん。これ、美味しい!」

「じゃろ。お客さんには申し訳ないけど、私ら、メニューより美味しいもの食べとるわ」

「タレは生姜と醤油と砂糖とみりん、ごま油?」

「さすが! あと、秘密の粉」

「やっぱり秘密の粉が入っとるんじゃ。味噌汁も美味しい。出汁には椎茸も入っとるね」

「お兄さん、やっぱりすごいね」

「一人暮らしが長くて、恋人とかもおらんけん、外食しては材料や調味料を推測して、自炊に再現する趣味があるんよ」

 「恋人おらんのじゃ」と聞こえたような気がしたが、それは気のせいだった。

「へえ、警察官らしくない趣味じゃね」

「お巡りにもグルメはおるよ」

「そりゃそうか」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 …かわいい人だ。武瑠とはどういう関係だったんだろう。

 それを聞こうとすると、向こうから先に質問された。

「しばらく休みって言ってたけど、どういうこと?」

 刑事になって一年ちょっと、メンタルが弱って病休を取ったことを話した。

「うつ病刑事でかじゃね」

「何それ? かっこ悪」

「ごめん。で、どれくらい休むん?」

「とりあえず、二週間」

「二週間で治るうつ病?」

「様子を見て、延長する可能性はある」

「薬見せてみて」

「そういえば、薬剤師じゃったって言いよったね」

 岡山の心療内科で処方してもらった薬を出すと、次々と名前を確認した。

「うん、初心者コースじゃね。たぶん、新型うつ病ってやつよ。昔なら、仮病けびょうのズル休み」

「仮病のズル休みは酷いよ」

「ま、昔と今は違うけんね。お医者さんの言うことは守らんといけんけど、これ、全部飲んだら眠くて、何もできんようになるよ。飲むのは寝る前だけにしょ。半分ずつでええよ。日中はこの精神安定剤だけ、お守り代わりに持っとくとええよ」

「わ、ほんまに薬剤師なんじゃね」

 食べ終わると、ポツポツと午後のお客さん。皆、コーヒーを注文する。サイフォンのランプに指で火を点けると拍手するお客さんもいる。砂糖やミルクは付けないが、町内のお菓子屋さんに特注で焼いてもらったクッキーをサービスする。ハーブが入っているらしい。

 僕がコーヒーを出すと、常連らしい中年女性に「三佐子ちゃんの運命の人?」と聞かれた。関係を聞かれるのは三人目。それにしても、運命の人とは大袈裟な言葉だ。

「おばさん、やめて」

 お客さんに対して、「おばさん」は失礼な気がした。

「ああ、この人、母の弟の奥さん」

 …『叔母』という意味なんだ。

「こないだ、『間もなく運命の人が現れる』と出たけん」

「勝手に人のこと占わんのよ」

「心配なんよ。私が三佐子ちゃんの唯一の親戚じゃけんね。血は繋がっとらんけど」

「それはありがたいけど…」

 叔母さんは、三佐子さんの言葉を聞かずに、僕に話しかけてきた。

「水商売三十年の経験と勘を使って、占いもやっとるんじゃけど、特に男女の相性は外したことがないんよ。半分以上はやめた方がええ言うんじゃけど、あんたら、相当ええ感じよ。私のアンテナにピーンときた」

 …相当ええ感じって…。

 僕は自分でも分かるくらい照れているが、三佐子さんは困ったように笑っている。

「それ、占いじゃなくて、当てずっぽうの勘じゃろ?」

 奥のテーブルに座っていた、七十代くらいの男性が笑っている。

「この人の勘は、占いよりよう当たるけん」

「もう、先生までやめてください。あ、この人は塾長のお友達で、郷土史会の会長さん。町の生き字引よ」

「菊池塾長とは教員時代からの付き合いで、開店当時からここに来とる。倒れとる人には申し訳ないが、三佐子さんが継いでから、コーヒーも料理も美味しくなったよ」

「そんなこと言ったら、塾長、怒りますよ」

「ほうじゃね。早よ、帰って来てくれんと、郷土史談義する相手がおらんで困る」

 叔母さんが言う。

「先生と菊池塾長の相性も抜群よ」

「やめてくれ。気持ちの悪い」

 店内は笑いに包まれた。郊外の喫茶店にほのぼのとした時間が過ぎて行く。


 午後六時、閉店の時間だ。

「送って行くよ」

「ほんま?」

「うん。ちょっと、待っとってね」

 三佐子さんは、レジの鍵をかけて、食洗器のスイッチを入れ、ガスの元栓や窓のロックを確認した。ドアの札を「クローズド」に返して鍵をかけた。

 店から数十メートルの駐車場に向かうと、「純喫茶ぎふまふ」と書かれた軽バン。古い車のようで、キーでロックを解除して、キーでエンジンをかける。

 …ぎふまふって何なんだろう?

 三佐子さんは運転席に、僕は助手席に座った。二人で車に乗るうれしさと、母親に病休のことを伝える躊躇いが、混ざり合わずに併存している。

 武瑠との関係を聞こうとする。しかし、また先を越された。

「何か躊躇っていること、ない?」

 …心を読まれてる気がする。

「メンタルで休むことを報告しに帰って来たのに、昨日は言いそびれた」

「やっぱり…」

「え。なんでなんで。なんで分かるん? 叔母さんの占い?」

「そうじゃない。正夢? うーん、予知夢っていうんかね」

「予知夢?」

「昨日の朝方、塾長が夢枕に立ったんよ、変な姿で、周りをギフチョウが飛んでたわ。山伏やまぶしっていうんかな。嘴と羽根があった」

 …嘴と羽根?

僕はハッとした。

「それ、マジの話?」

「マジの話よ」

「カラス天狗じゃない?」

「それそれ、たぶんそれ」

 昨日のサッカーの夢の話をした。

「『最後の切り札、ヤマショウの出番だ』って言われた」

「誰に?」

「カラス天狗の恰好をした塾長に」

「わー、鳥肌立つんですけど…塾長が二人の夢に、同じ恰好で出てきたんじゃね」

「で、三佐子さんのはどんな夢じゃったん?」

「昨日の朝はね、『間もなく心病みの若武者が現れる。躊躇を抱えておるゆえ、背中を押してやれ』とか言うんよ。『何それ?』と思ったんじゃけど、本当に心病みの落ち武者が現れたじゃろ」

「僕のこと? 心病みの落ち武者? そんなに落ちぶれ感あった?」

「ごめんごめん。で、今朝はね、夢にお兄さんが現れたんよ。何かモジモジして躊躇っている様子なので、私は『行くよ!』言うて背中を押して、一緒に走り出したん。短い夢じゃったけど、二日とも起きんにゃいけん時間に見て、寝坊したんよ」

「そうなんじゃ」

 …三佐子さんの夢に、僕が出たんだ。

「で、塾長はどこでどうしよるん?」

「入院しとるよ」

「え、そうなん。どこが悪いん?」

「ずっと意識がない」

「え、そんなに?」

「管をたくさん付けられて、眠っとるよ」

 言葉を失っているうちに、車は家の前に着いた。

 ぎふまふの意味、武瑠との関係、僕とどこで会ったのか…聞きたいことはまだいっぱいあるのに。

 車を降りた。

「お母さんによろしくね」

「明日も行っていい?」

「明日は休みよ」

「いろいろ聞きたい」

「そうじゃね。今日、お母さんに報告できたら、そのことを教えて。私も夢で見たけん気になる」

「うん」

 車が見えなくなるまで見送った。


 鍵を開けて、家に入る。

 テーブルに母親と座り、約束どおり、仕事を休むことを話した。

「うつ病で休職したいうこと?」

「まあ、そんなところ。気分が沈む状態が続いとった」

「お父さんも、そんな時期があったんよ」

「そうなん?」

「会社に行かれんようになって、しばらく休んだ」

「どうやって治したん?」

「完全には治らんかったんじゃと思うよ。この病気は治ったとしても、簡単に再発するみたいじゃし」

「そうなんじゃ」

「今も、どんより沈んどるん?」

「今は全く」

「じゃあ、原因は仕事なんじゃね。原因が分かっているうちは軽症よ。その原因から離れとけば、病気じゃないんじゃけん」

 鞄から、どっさりと薬を出して見せた。三佐子さんには、初心者コースだと言われた。

「去年から刑事になった言うたじゃん」

「なりたかったんじゃろ?」

「うん。でも、それがいけんかった」

「どして?」

「一年頑張ったんじゃけどね。優秀な人ばっかりでついていけんのよ。上司には叱られるし」

「そりゃあ、下っ端といえども刑事じゃけん。一歩間違えば、仲間の命を危険に晒すんじゃろ。厳しくて当たり前じゃわいね」

「いや、刑事いうてもね。殺人とか暴力団相手じゃなくて、選挙違反の捜査しとるんよ」

「選挙違反? 刑事ってそんなこともやるんじゃね」

「うん。今、選挙がないけん、去年からひたすら名簿を集めとる。同窓会とか商工会とか」

「地味刑事でかじゃね」

「刑事の仕事は地道なもんよ。刑事ドラマみたいなことにははならんと思う」

「そうか。劣等感にさいなまれながら、失敗して上司に叱られて、凹んで帰って来たと」

「そがいな言い方せんでもええじゃん」

「それだけ元気がありゃあ大丈夫。うつ病患者に頑張れ言うちゃダメじゃと言うけど、母親じゃけん言うよ。頑張れ。いや、頑張るな。適当にやっとけ」

「母さん、無茶苦茶」

 …テキトーに頑張れか。三佐子さんも、お客さんにそう言ってたな。

 心配するから言いたくないと思っていたのは、自分の恥を隠したいための言い訳だったと思った。母親は心配を見せずに、息子を激励した。

 仏壇の父親にも報告した。父親は武瑠の失踪の少し前に心筋梗塞で死んだ。今は落ち着いているが、三年前はこの明るい母も相当落ち込んでいた。仏壇の隣の小さなテーブルには武瑠の写真が置いてある。

 …武瑠。お前どこに行ったんだ。

「母さん、腹減った」

「チャーハン作ろうか」

「昨日も食べた。あ、今日は僕が作る」

「料理できるん?」

「九年、自炊しとるんで」

 三佐子さんの見事な手さばきを見て、自分でも料理がしたくなっていた。

 冷蔵庫を見ると、一人暮らしなのに、誰が食べるんだろうと思うほどのたくさんの食材。

 …豚バラとネギ、あった。昼、まかないで食べた「ネギ増し増し生姜焼き丼」を再現してみよう。

「見た目はイマイチじゃけど、味は保証する」

 トレイに、味噌汁とラッキョ漬けと一緒に乗せて、母親の前に出した。

「最初に底まで混ぜてね」

 母親は一口食べて、「旨いじゃん」とは言ったが、立ち上がって、冷蔵庫から生卵を出した。

 丼に割って落とし、混ぜながら「もっと美味しくなる」と言った。

「さすが、我が家のくどい味づくり」

 自分で食べてみると、やはり、三佐子さんの生姜焼きにはほど遠い。

 …「秘密の粉」が入っていないからな。

 母がやったように卵を入れると、味がまとまった。

 食後の薬を、三佐子さんの言ったとおり、半分ずつ。二錠のものは一錠、一錠のものは歯で半分に割って飲んだ。

 母と一緒に、ネットテレビの番組を選んだ。グルメドラマ番組を見つけ、それを見ているうちに眠くなる。ソファーで寝てしまった。


 昨日の夢の続きなのか、サッカーのベンチのようなところで、侍や忍者、僧兵の恰好をした人たちが、待機している。自分の視点は、それを後ろから見ている。

 今日もカラス天狗の恰好をした塾長が仕切っている。

「武瑠君、行くぞ!」

 錫杖しゃくじょうをチャリンと鳴らしたが、武瑠の姿が見当たらない。ほかのメンバーもキョロキョロしている。

「ビビっとるんか。しょうがない。もう時間じゃ」

 カラス天狗がベンチから飛び出して行った。そこはグラウンドではなく、神社の境内。どうしたことか、集まった若い女性の歓声が上がる。口上を読み上げ始めた。

「やあやあ、我こそは、かの小説の著者にして、作品中の『トキの行者』のモデル、菊池でござりまするーー」

 拍手が起こった。

「本日はお足元の悪い中、このような山中、極楽天神まで、ようこそおいでくださいました。これより、ぎふまふ一座のコスプレ演武をご覧にいれまするーー」

 侍二人、僧兵三人、忍者二人が次々と飛び出し、紹介された。派手な殺陣とアクロバティックなアクションに、観客のボルテージが上がる。

「そして、そして! この物語のヒロイン・アンド・ヒーロー、アゲハとサヌ!」

 「行くよ!」と背中を押したのは、お姫様。

 …三佐子さんだ。

 僕は日本神話の服と髪型で、長い弓を持っている。お姫様とともに、境内に躍り出ると、百人以上いる観客の最高潮の歓声に迎えられた。先に出たメンバーを背に、二人で大見得おおみえを切った。

「我こそは、矢野城六代目城主アゲハ! 隣に控えしは我が夫、神代かみよの男サヌである」

 カラス天狗が「最後の切り札、頼むぞ」と言うと、足元にサッカーボールが転がってきた。

「サヌに扮する、ヤマショウは当代一の蹴鞠けまりの名手にござりまする。見事な球筋をご覧くだされ!」

 …言い過ぎ。どプレッシャーだ。

 長い弓を三佐子さんに預け、深呼吸。フリーキックのように間合いを取り、助走して、ボールを蹴る。左足の甲で捉えると、唸りを上げて神社の建物に向かった。

 …あ、神社が壊れる!

 心配したが、いつの間にか開いていた扉の中に、吸い込まれて行った。

 女性ファンの黄色い歓声が上がる。お姫様の三佐子さんが「お兄さん、素敵!」と言って、ハグしてくれた。


 目が覚めた。スマホの時計はまだ十二時過ぎ。

 …幸せな夢だったな。

 夢はたいていすぐに忘れる。一旦、体を起こし、電気を付けて、鞄の中のメモ帳に記録した。エアコンは付けたままだが、汗びっしょり。母親がタオルケットを掛けてくれている。その縁で汗を拭いた。

 再び、眠りに落ちた。

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