純喫茶ぎふまふ奇譚

勢良希雄

1 漢方香る薬膳カレー

 黒い雲が現れたかと思うと、ポツリポツリと降り始めた。あっという間に大雨になったが、残り時間が少ないせいか、サッカーの試合は続行されている。得点は一対一、後半残り五分。

「ヤマショウ、出番じゃ」

 ヤマショウとは、僕のニックネーム。

「はい!」

 監督に言われて、靴紐を確認し、グラウンドに向かう。

「頼むで。最後の切り札じゃけんの!」

 親指を立てて、それに応え、ピッチに立った。ホイッスルが鳴ると、雨が一層強くなった。芝生のあちこちに水が浮いている。

 選手も雨と疲れで思うように動けず、誰もいないところにボールが転ぶ。油断した味方のキーパーがルーズボールを処理するため、ゴールエリアを出たとき、相手選手が走り込んで、カット。無人ゴールに蹴り込んだ。味方全員が「ああ!」と絶望の声を上げた。すると、どこにいたのか、味方選手が宙を舞うように現れ、敵のシュートをヘディングで弾き返した。さらに、自分で拾ってドリブルしながら上がり始める。

「お兄ちゃん、前へ!」

 …武瑠たける

 雨が強くてよく見えないが、ボールをキープして敵選手を巧みに交わす選手が、武瑠に見えた。僕は最前線に踊り出て、そいつの繰り出したロングパスの落下地点に走る。とても追いつけないところに飛んでいったが、ぬかるんだ地面に落ちると、バウンドせずにピタリと止まった。左サイド、ゴールエリアのライン上で自分のボールにした。ゴールを狙うには、ちょっと角度がないが、パスする味方もいない。キーパーとは一対一。たぶん、ラストチャンス。

「お兄ちゃん、撃て!」

 その声に心を決めた。半歩下がって左足をテイクバック、シューズのインフロントに引っかけて、思いっきり振り抜く。ボールはシュート回転しながら、水しぶきを引いて弧を描き、ジャンプしたキーパーの上を抜けて、ネットに突き刺さった。

 ゴール決定の笛、続けて、試合終了の長い笛が鳴る。勝った。

 味方の手荒い祝福に、思わず身を屈める。そして、立ち上がると、駆け寄る選手は、どうしたことか時代劇の衣装になっている。自分だけはなぜか、日本神話のような服だ。

「ヤマショウ。よくやった」

 そう言う監督は、山伏の恰好。くちばしと羽根があるので、カラス天狗という奴かもしれない。目から上をよく見ると…。

「塾長?」

 味方を見回したが、武瑠の姿はない。

 いつの間にか雨は止んでいた。黄色い蝶々が肩に止まった。


 七月一日月曜日。

 午前中に病院に行き、午後は職場に診断書と病休申請を提出した。実家の母親にそのことを伝えるため、岡山駅から広島に向かっている。とりあえず、電話で報告しておこうかとも思ったが、心配するだろうと思い…というのは、自分への言い訳。本当は言いにくいことを先延ばしにしただけだ。会えば、一層言いにくくなる気もする。

 その新幹線の中で眠った。目が覚めると、「間もなく広島」のアナウンス。

 …寝過ごすところだった。しかし、変な夢だったな。サッカーの試合に武瑠と塾長、脈絡がない。しかも、時代劇の衣装。

 広島駅の前の長いトンネル。窓に映る自分の肩に、黄色い蝶々が止まっている。

 …新幹線の中に?

 指で翅(はね)を摘まもうとする。一旦、捕らえた感じがしたが、すり抜けた。さらに、ガラスを抜けて窓の外に消えた。

 …え?

 幻でも見たかと思ったが、指には鱗粉がべっとりと付着していた。

 広島駅に着き、在来線のホームに下りる。

 蒸し暑いホームに、呉線の電車が入る。扉が開くと、エアコンの冷たい空気と特有のにおいが流れ出た。この扉から乗るのは、僕一人、車内もガラガラ。四人がけの席の窓側、進行方向に向かって座った。

 電車が動き出すと、車窓には広島市東部の市街地。少なくとも年に一度は帰るので、懐かしいというほどではないが、明日からしばらく職場に行かなくて済むと思うと、切なくも穏やかに映る。

 職場の光景を思い出すと不安になる。努めて何も考えないようにしながら、窓の外を眺めていた。約十五分、四つ目の矢野駅に電車は着いた。十人ほどの乗客が降りる。それに混ざって階段を上がり、橋上の改札を抜ける。今度は階段を下りてバス停に行く。ニュータウン経由が待っていた。普通、実家方向に行くには、それに乗るが、母親に何と切り出そうかと思うと、億劫になる。

 日帰りのつもりだった。

 …別に急ぐことはないんだ。今晩は実家に泊ればいい。ちょっと懐かしい街を歩いてみよう。

 高校を卒業してから九年、実家に顔を出すことはあっても、ゆっくり故郷を感じたことはない。

 僕、伊藤山翔いとうやまと、二十七歳は、岡山県警の巡査長。一応、刑事部の刑事。この町を離れて九年の内訳は、岡山の大学に四年、Uターンせずに県警独身宿舎に五年である。

 駅から右の坂道を上がればニュータウンだが、左側、オールドタウン方向に向かった。中学、高校はサッカー部に所属していて、部活帰りに、駅横のコンビニで買い食いをするのが楽しみだった。


 極楽橋ごくらくばしという名前の、小さな橋に差し掛かる。橋と向こう側の道が信号のある交差点になっている。二車線から三車線に広がる扇形で両側に歩道があるが、川幅は狭いので欄干は五メートルほどしかない。

 睡眠不足のせいか、強いめまいと動悸がして、生汗が噴き出す。

 …暑い。

 蝉時雨が遠く近く、ほかの音をかき消し、陽炎が景色を歪める。

 欄干にすがって、立ち止まり、目を閉じた。

「お兄ちゃん!」

 …武瑠?

 弟の声が聞こえたような気がしたが、武瑠は三年前から行方不明。そういえば、この橋の辺りからの足取りが分からないと聞いている。今と同じ七月のことだった。

 目を開けると、川の上を涼しい風が吹き抜け、生気を取り戻した。心配そうに様子を窺う人もいたが、軽く手を上げ、「大丈夫です」と言った。

 鼻で息を大きく吸い込み、指先で鳩尾(みぞおち)の少し下を押さえる。

「ふー」

 腹動脈の鼓動を感じながら、口から大きく吐き出す。気持ちを安定させるために、自分で編み出したルーティンである。不思議と不安やイライラが消える。

 いつから止まっていたのか、蝶が肩から飛び去った。


 橋を渡ると、昔は商店街だったという中浜通り。平日だからなのか、いつもなのか、人通りは少ない。僕が子どもの頃には、すでに商店はわずかになっていて、大きなマンションが建っていた。その景色からはほとんど変わっていない。

 マンションの駐車場の続きに僕が通っていた塾があった。家族から、塾長は作家になり、塾はやめたと聞いている。その建物が残っていた。昭和レトロな三階建て、つたが壁を這い上がり、迫力を増している。一、二階が教室で、三階には塾長が住んでいた。

 一階が喫茶店になっている。木の看板には時代を感じる字体で「純喫茶ぎふまふ」と刻まれていた。

 …喫茶店、いつから誰が? ぎふまふって何? 塾長は?

 いろんな疑問が湧いたが、中が見えにくい店構え。一見客(いちげんきゃく)を躊躇させる。

 …その気弱さだよ。やっぱり刑事には向かないのかな。

 入るのを諦めた。


 カランコロン。

 カウベルの音がして、ガラスのはまった木製のドアが開いた。エプロンをした若い女性が、水の入ったジョウロを持って鼻歌を歌いながら出てきた。

 そのメロディ、すごく知っているのにタイトルが思い出せない。

 …何ていう歌だっけ?

 その人がこちらを向いた。ハッとした表情で息を飲み、僕を見つめた。時間が止まったように感じた。

 …え?

 女性は気を取り直したように笑顔を作って言う。

「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」

 背の高い美人、八重歯が印象的だ。

 …少し年下かな。

 店の外に並んだプランターに水を遣り始めた。

「ごめんなさい。すぐに終わります。朝、水を遣るのを忘れてて、やっと、日陰になったので」

 また、笑顔をくれた。素敵な女性だ。見惚れそうになる。

「すぐに終わります。どうぞ、先に中へ」

 変に思われてはいけないので、店内に入った。ドアに付けられたカウベルが鳴る。冷房が効いていた。ほかに客はいない。テーブルが三つ、カウンターに四席。座らないうちに、さっきの女性も店に戻った。黄色いバンダナを三角に折って頭に巻き、髪は高い位置でポニーテールに結っている。

「こんにちは、こんにちは。初めてのお客様ですね。お好きな席にどうぞ」

 カウンターの席に座ると、水を注いだコップとメニューが差し出された。

「何になさいますか。お食事ですか」

 …そういえば、ちゃんと昼飯を食べていない。

 メニューを見ようとすると。

「あの、一緒にカレー食べません?」

「え?」

「私もお昼食べてないんですよ」

 …なぜ、この人は「私も」と言ったのだろう。「昼飯を食べていない」と心でつぶやいたのが聞こえたかのようだ。

「あ、ああ。じゃあ、カレーお願いします」

「元気の出る特製カレーですよ」

 …元気の出る? メンタルが弱っているのが顔に出てるのかな。

「僕、元気なさそうですか」

「あ、いえ。変なこと言ってごめんなさい」

「いえいえ」

 女性は冷蔵庫を開ける。

「誘っておいて申し訳ないんですけど、このカレー、鍋に作り置きしないので、少し時間がかかります。いいですか」

「はい、特に予定はないので」

「そうですか。それと、いつもは入れないんですけど、じゃがいも、入れてもいいですか」

「あ、はい。お任せします」

 ボウルを取り出し、ラップを外して、ペースト状のものを鍋に移し、背中向きにコンロに向かった。ペーストを油で溶かしながら再加熱。下茹したゆでしてあるらしい鶏肉を投入し、穴の空いた木べらを使って炒めるように味を馴染ませる。店内に幸せな香りが立ち込める。次にじゃがいもを同じようにする。見事な手さばき。火力を上げて、魔法のランプのようなケトルから液体を注ぐと、なぜか炎が上がった。別の魔法のランプから水が注がれて、煮込みにかかる。

 …いい香り。唾液腺がキュッとなる。

「ごめんなさい。お腹すいているのに、付き合わせて」

「マジックショーみたいですね。全く退屈ではありません」

「良かった。スパイスの調合から、自分でやってるんですよ。パウダーは週に一回、ペーストには生野菜や果物を使うから前日に作るんです。一日限定五食。お昼に三人分出たから、今日はこれで終わり」

「へえ、調合からとは本格的」

「このカレーは特別。手間がかかり過ぎるからメニューには書いてないんです。必ずあるとは限りません」

「そんな特別なもの、僕なんかが食べていいんですか」

 それには笑顔で答えて、カレー講座を始めた。

「カレーの基本は、香りのクミン、色のターメリック、辛さのレッドペッパー。これに、ブラックペッパー、カルダモン、コリアンダー、シナモン、ナツメグ、クローブ、ローリエみたいなスパイスを混ぜてパウダーを作る。私の場合、漢方の薬草もいくつか入れちゃいます。オニオン、ガーリック、人参、ナシやリンゴをすり下ろして、パウダーと一緒に加熱してペーストにするんです」

 見ると、店の奥の棚にはおびただしい数の瓶や缶、スパイスや漢方薬の材料のようだ。

「薬膳カレーですね」

「ああ、流行ってるみたいですね。カレーは味も香りも強いから、少々変わったものを入れても、食べられちゃうんですよ」

「そういうことか」

 しばらく言葉が途切れ、二人で鍋を温める炎を眺めていた。彼女はそこに視線を置いたまま、確かに「あの…」と言った。何かを僕に聞こうとして、思いとどまったのか。その先はまた沈黙。

「そろそろできたかな」

 小皿に取って味見して、頷いた。最後にパクチーと何かの粉を入れて、声に出さずに何かを言いながら、軽くかき混ぜている。

 白っぽい陶器の皿の上に、メロンパン型に型押ししたライスを盛り、ルーをたっぷりタラーリ。色とりどりの夏野菜サラダ、ラッキョ漬けと福神漬けの小皿を添えて、和風のトレイに乗せた。

「お待たせしました。純喫茶ぎふまふ特製カレーです」

 …「ぎふまふ」も気になるが、ここはカレーに集中。

 芳香が鼻腔から脳へと駆け上がる。サラサラのカレーは、ルーというよりスープ。ライスを通り抜けて、皿に広がっている。

「インド風?」

「カレー通ですね。オーナーの趣味で昭和風と言ってます」

 …オーナーは別にいるのか。

 スプーンで少しライスを崩し、ルーと一緒にすくって口に運ぶ。「旨い!」。その後、心地よい辛みに襲われる。そして、鼻をくすぐる不思議な風味。

「これ、美味しい」

「ありがとうございます。じゃがいもは邪魔ですか?」

「いえ、ボリューム感が増して美味しい」

「味がぼやけるから、入れない方がいいという人が多いけど、美味しいですよね」

「ええ。そういえば、微かに根っこの香りがするんですけど」

「たぶん、それが漢方。薬事法に触れない薬草だけど、食欲の湧く成分が入ってます」

「薬事法…」

「私、薬剤師だったんです。漢方薬も多少勉強しました」

「へえ、華麗なる転職。カレーだけに」

 ダジャレはスルーされた。

「でも、たくさんの香りが混ざるカレーの中で、それを嗅ぎ分けられるのはすごいですよ」

「大学のとき、カレー研の部長でした」

「ほんと?」

「ウソ」

「もう、何ですか、大学のカレー研って」

 目を合わせて笑った。一時的なことかもしれないが、鬱々とした気持ちが晴れている。

 …この人、いい。初めてなのに気を遣わせない。優しくて居心地がいい。

 カウンターに並んで座り、一緒に食べた。スプーンと皿が当たる音が店内に響く。旨さに操られて動く手に、咀嚼が間に合わず、スプーンが口の前で待機している。結構な辛さ、おしぼりで汗を拭う。夏野菜を箸で摘まみ、口をニュートラルに戻す。ラッキョ漬けも美味しい。最後は皿を持って、丁寧にご飯粒をさらい、完食。スプーンを置いた。この女性、早食いの僕とほぼ同時に食べ終えた。

「ああ、美味しかったあ。ごちそうさまあ」

「良かった」

「あ、このお皿もかっこいいですね。カレー専用?」

「わあ、分かります? 地元の陶芸家さんのところに行って、私が造って、焼いてもらったんですよ」

「一点ものですね」

 水を飲むと、これにも微かに香りがある。

「レモンのようなミントのような…どちらでもないような」

「レモンの香りがするミントの仲間。やっぱり、お主ただ者ではないな」

 そう言われれば、確かに僕はよく、料理を食べながら材料や調味料を推測している。だいたい当たるような気もするが、それを能力だと思ったことはない。

 皿を引きながら、彼女が言った。

「コーヒーれますね。外は暑いけど、うちのコーヒーはぜひホットで」

「ありがとう」

 ミルで豆を挽き始めると、香りが見えるように立ち上がった。

 …この店のにおいのベースはこの香りだ。

「コーヒーも一癖ありそうですね」

「ふふ、分かります? 喫茶店ですから、コーヒーは美味しくなくちゃ」

 と言って、サイフォンの準備を始めた。

「化学の実験みたいなやつ」

 魔法のランプのようなケトルからフラスコに水を入れる。ロートにフィルターをセットして、フラスコに差し込み、コーヒーの粉を入れた。

「最近はドリップが主流だけど、うちは『ぎふまふ』ですから」

「あの、その『ぎふまふ』って何なんですか?」

 その質問には答えず、表情が真剣になった。

 指をパチンと鳴らして、アルコールランプの芯を指さすと、火が点いた。

 …魔法?

 驚いて、彼女の顔見ると、ちょっと得意げな表情を返した。

 沸騰した水が上のロートに逆流し、粉を押し上げる。小さな木のへらで、ゆっくり混ぜる。また、無声で何かを言っている。どんどん謎が増えていく。

 しばらく対流させると、アルコールランプを引き、マジシャンのような手さばきで、キャップを被せて火を消した。フィルターで濾過されたコーヒーがフラスコに戻った。スタンドを持って、別にお湯で温めていたコーヒーカップに注ぐ。

「ブラックで飲んでくださいね」

「はい」

 数々の謎を置いて、カップに口をつけた。

「美味しい。何だろう、甘みがある?」

「企業秘密。でも、やっぱりいいセンスをされていますね。コーヒー豆は、町内の焙煎所に特注した『ぎふまふブレンド』なんです」

「銀行の前にある焙煎所ですね。結構遠くまで香りがしますよね」

「そうそう。そこの職人さんと一緒に味見しながら、作っていただいたんです」

「こだわりますねえ」

「私、そういう人です。本当は焙煎も自分でしたい」

 また、微笑みかけてきた。

 …外見は優しい女性だが、芯のある人のようだ。

 コーヒーを飲み干すと、自覚できるくらい、穏やかな気持ちになっていた。

「おかわりします?」

「では、もう一杯だけ」

 おかわりを頂きながら、時々、女店主を見る。食器の片づけなどをしているが、何度か目が合ってしまう。『ぎふまふ』の意味も、結局、聞き直せなかった。

 …彼女もさっき、「あの」って言った。何か言いたいことがあったんじゃないのかな。

 飲み終わった。立ち上がって、出口に歩く。

「ごちそうさま。カレーもコーヒーも美味しかった。また、来ます」

 立ち上がって、出口に歩く。

「良かった。ぜひまた来てください。お待ちしていますよ」

 一旦ドアを開けたが、お金を払うのを忘れていることに気付いて、振り返った。

「おっと、おいくらですか」

「いいですよ。フードロスになるカレーでしたから」

 押し問答になりかけた。

「僕、警察官なんで、無銭飲食をするわけにはいきませんから」

 と言うと、彼女は意を決したように、今度ははっきり、「あの…」と言った。

「あの、武瑠君のお兄さんですよね」

 彼女が言いたかったのは、それだったらしい。

「あ、はい。…武瑠をご存じなんですか」

「ええまあ。武瑠君に、お兄さんはおまわりさんになったと聞きました」

「武瑠の同級生とかですか」

「いえ…」

「あ、お名前を教えてください。僕は伊藤山翔といいます」

君島三佐子きみじまみさこです」

「君島、三佐子さん…」

「はい」

「必ずまた来ます」

 無理やり二千円を手渡すと、レジから五百円玉を出して返した。

「必ず、また来てくださいね」

 外に出ると、ドアを開けたまま、こちらを見ている。軽く会釈すると、手を小さく振ってくれた。

 …なんか、運命の出会いっぽいな。


 ここからニュータウンの家に帰るには、矢野駅まで戻って西に向かう坂道を上るのが普通だが、そのままオールドタウンを南に進む。途中から西に向かい、墓苑を抜けて尾根を越えることにした。中学生の頃に探検しながら下校したコースだ。

 オールドタウンにも現代的な家が多くなってきたが、古い日本家屋も残っている。「この銭湯、まだやってるんだ」とか「ここ、友達が住んでいたアパートがあったはずだけど、駐車場になってるわ」とか、思いながら懐かしい街を歩く。やがて、墓地に向かう坂道に入る。竹藪に蝉時雨が響く。故郷の空気が傷ついた心を包み込んでくれる。

 とはいえ、真夏の午後五時はまだまだ明るい太陽が残っている。大きな墓苑の尾根に上がるころには、汗だくになった。

 北側に見える水面は海田湾。西側に広島市街地が広がっている。

 景色を眺めていると、メロディが頭に浮かんだ。

 …あ、さっきの三佐子さんの鼻歌、「草原の乙女」だ。

 尾根を越えると、高台にあるニュータウンの入口に着く。広島熊野道路を挟む大きな住宅団地、ここが僕の故郷だ。

 さらに十分ほど歩くと実家。僕が九年前にここを出て、父は三年前に心筋梗塞で急死し、すぐに、弟が失踪した。今は、母一人が住んでいる。


 自宅の鍵を開けて玄関に入った。

「ただいま」

 母が出てきた。

「あら、どしたん。休み?」

「う、うん」

 生返事をして、リビングに入った。

「言うてくれんけん、夕ご飯ないよ」

 靴下を脱いで、椅子に座った。

「いい。さっきカレー食べてきた」

「へえ、どこで?」

「菊池塾だったところの喫茶店」

 母は一瞬、「え?」という表情をした。

「あらそう。美味しいって評判らしいね。こないだミニコミ誌に出とったよ」

 …評判なんだ。

「知らずに入った。母さん、行ったことあるん? はい、お土産の吉備団子」

「ありがと。毎度、ワンパターンじゃね。店は行ったことないんよ。菊池先生が倒れて、塾生だったお弟子さんが店を継いだというのは、噂で聞いたけど」

「ふーん。吉備団子好きじゃ言うたじゃん」

「岡山言うたら、桃とかマスカットとかあるじゃろ」

「高い」

 …三佐子さんは塾生だったのか。

 菊池塾は中学生専門だった。小さな塾なので、上下二つ違いまでなら顔くらいは知っているはずだが、たぶん、見たことはない。ということは、三年生のときに一年生だった武瑠よりもさらに下ということになる。二十三、四歳か。

 昼食後の薬飲むのを忘れていたことを思い出した。メンタルで休んでいることを報告する前に、母に薬を見られたくない。「シャワーしてくる」と言って、鞄(かばん)を持って風呂場に行った。大きめの紙袋に四種類の薬が入っている。抗うつ剤が二種類と睡眠導入剤、精神安定剤。昼食後はこのうち、抗うつ剤の一つと精神安定剤を飲む。

 …昼食後っても、もう五時半だな。

 シャワーをしたが、着替えを持って来ていない。もともと、日帰りするつもりだった。脱衣場に四段のベビーダンスが置いてあり、引き出しに父、ヤマト、タケル、母と書いてある。そこには下着と寝間着が入っている。自分のところを開けると、ここを出るときのまま。ティーシャツとジャージに着替えた。警察学校以来、筋トレをしているので、高校時代のシャツは、腕と胸がきつい。父の引き出しも、武瑠の引き出しもそのままであることを知っている。武瑠の引き出しを開けると、ルーズなシャツが入っていた。

 …武瑠、ちょっと貸して。

 風呂場から出ると、母親が見て、びっくりした顔をしている。

「武瑠かと思った。やっぱり兄弟じゃね」

「似とるとか、言われたことないよ」

 出窓に置いた家族写真が目に入った。中学生の僕はサッカーのユニホームを着ている。大会に応援に来てくれたときの写真だ。武瑠はまだ小学生。この家の家族盛りだ。

 …そういえば、新幹線の中でサッカーの夢を見た。

 薬のせいか、急に眠くなってきた。

「ちょっと、寝るわ」

 母親に言って、自分の部屋に入った。エアコンを付けて、ベッドに横になった。

 …三佐子さん、素敵な人だった。夢で会いたい。

 中学生の初恋のようなことを思う。


 一面の緑。蝶が舞う草原で、美しい乙女が花を摘んでいる。

 僕は少し離れた道から見ている。

 乙女は僕に気付いて立ち上がり、手を振っている。

「お兄さーん。私、ここにいるよー」

「あ、三佐子さん。はーい。行きまーす」

「ずっと、待ってたんだよー」

「必ず行きまーす」

「必ずよー」

 前後のない恋物語。夢に到達しているのか、ただ、考えているだけなのか。現実ではないという自覚はある。

躊躇ためらいは誰にでもありますよー。テキトーに頑張りましょー」

 最後の言葉は意味が分からない。


 短い時間だと思ったが、目を開けると夜の十時だった。

 腹が減った。夕食を食べていない。

「母さん、何か食べるものない?」

「ない言うたじゃろ」

 母親は一人でテレビを見ていたが、「しょうがないね」と立ち上がり、冷蔵庫から野菜と卵、豚肉、冷凍ご飯を出した。ご飯をレンジで解凍しながら、野菜を刻む。溶き卵にご飯を投入した「卵かけご飯状のもの」を準備するのが、母親流。

 フライパンにごま油を敷いて加熱し、野菜を炒める。ここに卵かけご飯を流し込み、市販の中華調味料をドバっと入れて、強火で炒める。中華風の皿に移して、レンゲをぶっ差して、テーブルに置いた。

「ほい! 母さん特製濃厚チャーハン」

「ちょっと入れ過ぎ、やり過ぎが我が家の味」

「入れ過ぎてないよ」

 レンゲでざっくり掬って食べる。

「濃(こ)いい!」

「美味しいじゃろ」

「うん。母さんの味」

「父さんの味なんよ。もっと気を付けてあげれば良かった」

 父の死因である心筋梗塞と濃い味の料理に、関係があるのかどうかは知らないが、健康にはよくなさそうだ。湿っぽくなりそうだったので、その話には乗らなかった。

「これ、食べれただけでも、帰った甲斐があった」

 母親はテレビに視線を反らして言った。

「何か、用事があって帰って来たんじゃないん?」

 これまで、ほぼ正月前後以外に帰ることはなかった。お盆でも、連休でもないので、普通じゃないことは見え見えだ。

「う、うん。また、明日、言う」

「ええこと? 悪いこと?」

「それも明日」

「気になるわ。今、言え!」

「言わん。明日。明日の夕方」

「夕方って、明日も泊まるん?」

「うん」

 せっかく、母親が水を向けてくれたのに、言い出せなかった。それでも明日には言う約束をしてしまった。

 夕食後と就寝前で、四種類の薬をフルセットで飲む。

 ベッドに倒れ込むと、気を失うように眠った。

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