第209話 対話

 フロレンツ陣営の結末は、大陸の歴史に残る大戦争の幕切れとしては、実にあっけないものとなった。

 帝都と皇宮が包囲されてから、およそ一週間が経った深夜。皇宮の裏門のひとつが開いた。堀を渡るための橋が降ろされ、門が完全に開放され、外に向けて合図があった。

 そこへ、あらかじめ選抜されていたマクシミリアン陣営の精鋭百人が突入。肉体魔法使いや生え抜きの兵士たちは、愛国派貴族の手勢による協力を受けながら、起きている者も少ない真夜中の皇宮内を移動した。

 彼らが開いた残り二つの門から、さらに百人ずつの精鋭が侵入。その後も続々と兵士が入り、総勢五百人を超える兵力で皇宮内の制圧を開始した。皇宮内に配置されている数千人の兵士たちは多くが就寝中で、彼らの宿営場所は皇族の居住空間からは遠かったため、侵入部隊は容易に皇宮の奥まで入り込んだ。

 フロレンツ陣営の近衛兵たちが気づいたときにはもう遅かった。敗北が目の前に迫り、士気が底をついていた彼らは、目の前に現れた大勢の敵に組織立った抵抗をすることも叶わず、大半が投降した。

 皇帝フロレンツも捕縛された。マクシミリアンはそこまで命じていなかったが、侵入部隊が到達する前に愛国派の手勢が自主的に皇帝の寝室を制圧し、高級娼婦に囲まれて眠っていたフロレンツは隠し通路などから逃げる間もなく捕らえられた。

 ベルナール・ゴドフロワ侯爵を含む愛国派宮廷貴族のほとんどは、潔く投降。命を惜しんだごく一部が逃走を試み、中央部領主貴族の半数以上がそれに倣った。その大半は力ずくで取り押さえられるか、剣を抜いての悪あがきの末に殺された。

 ごく少数が帝都の市街地に逃げて姿を隠したが、彼らはたとえ逃げ延びたとしても、逃亡者として生きる運命が待っている。

 中枢たる皇宮を失い、皇帝フロレンツの身柄を押さえられた帝国常備軍は、全員が降伏を宣言し、帝都をマクシミリアン陣営に明け渡した。

 結果としては、皇宮制圧と帝都解放は大成功を収めた。死者は敵味方合わせて百人未満。皇宮が火に包まれることも、帝都が戦いによって荒廃することもなかった。

 簒奪皇帝フロレンツ・ガレドの治世はここに終わった。彼の在位期間は一年と少しだった。


・・・・・・・


 帝都と皇宮がマクシミリアンの手に渡ってから数日。西サレスタキア同盟をはじめとした各勢力の将たちは、未だ帝都の外で野営生活を送っていた。

 未だ混乱を極め、警備体制も使用人による運営体制も整っていない皇宮に泊まれるはずもないので、スレインを含め誰もがこの現状を受け入れていた。そもそも、皇宮の新たな主となったマクシミリアンでさえも、未だ皇宮では寝泊まりしていない。夜になるたびに野営地へ帰ってきている。


「当面は帝国中枢も落ち着かない状況が続くだろうけど、マクシミリアン殿がもう少し掌握を進めたら、僕たちの役目も終わりかな……夏頃には国に帰りたいものだね」


「はい、陛下」


 国王の天幕の中。本国に送るための書簡を書き進めながらスレインが呟くと、副官パウリーナが同意を示す。

 帰ったら、やるべきことがいくつもある。まずは妻モニカと子供たちと再会し、互いの無事を喜び合う。その後は戦後の社会安定に向けた施策を動かし始め、先の王城襲撃で死亡した兵士や使用人たちを悼み、遺族への支援をし――ジークハルトの国葬を執り行う。

 大戦の後も、勝利の後も、治世は続き、人生は続く。

 スレインがそんなことを考えていると、天幕の入り口に立っていた近衛兵団長ヴィクトルが入ってくる。


「陛下、お仕事中に失礼いたします。マクシミリアン・ガレド殿下がお越しになりました」


「……マクシミリアン殿が、ここへ直接? すぐに行くと伝えて」


「御意」


 再びヴィクトルが天幕を出るのを横目に、スレインは仕事を中断して立ち上がり、パウリーナにも手伝ってもらいながら軽く身支度を整える。

 遣いを送ればいいだろうに、わざわざマクシミリアン本人が来るとは。一体何の用だろうか。そう思いながら外に出る。


「お待たせしました、マクシミリアン殿」


「先触れもなくやって来てすまなかった、ハーゼンヴェリア王。何しろこちらも立て込んでいるものでな」


「大変な状況だと思いますので、どうかお気になさらず……それで、どのような御用で?」


 スレインが尋ねると、マクシミリアンは神妙な表情になる。


「フロレンツの処刑の日程が決まった。一週間後の正午、帝都の中央広場にて執り行われる。貴殿ら大陸西部の諸王にも立ち会ってもらいたい」


 それを聞いたスレインも、表情を引き締める。

 いよいよ、フロレンツが死ぬ。暴虐の果てに、彼が世を去る。その事実を噛みしめる。


「もちろんです。心して彼の最期を見届けます」


 それだけを告げるためにマクシミリアンがわざわざ来たわけではあるまい。そう考えながら、続く言葉を待つ。


「それで、実はな……獄中のフロレンツが貴殿に会いたいと言っている。死ぬ前に貴殿と会って話がしたいと。私としては許可していいと思っているが、実際にあ奴と会うかどうかは貴殿に任せる」


「……」


 スレインは思案する。

 自分がフロレンツから並々ならぬ因縁を持たれていることは分かっていた。ただ要衝に領土を持つ王だから、彼に狙われる機会が多かったわけではない。フロレンツ個人が、スレイン・ハーゼンヴェリア個人に対して深い恨みを抱いていることは分かっていた。

 その彼が、最期に自分に何を言いたいのか。自分と何を話したいのか。

 スレインは興味を抱いた。


「分かりました。僕としても、彼と話す機会を得られるのであれば、彼の言葉を聞きたい。彼と会います」


「……そうか」


 スレインの答えに、マクシミリアンは驚かなかった。


「数日中には面会の場を設ける。日程がまだはっきりせずにすまないが、そのつもりでいてくれ」


「分かりました。今はこちらは特に忙しくもない身です。いつでも構いません」


 そう伝えて、スレインはマクシミリアンを見送った。


・・・・・・・


 それから数日後。スレインは皇宮の一室に通された。

 案内されたのは、客を通す区画とは違う、もっと皇宮の端の方、奥まった場所。装飾もなく、実用のみが考えられている区画だと分かった。

 副官パウリーナと直衛のヴィクトルを伴い、頑丈そうで無骨な扉を潜る。

そこにフロレンツがいた。低い椅子に座らされていた。皇族とは思えない、清潔ではあるが質素な服を着せられ、後ろには監視役の近衛兵が四人も控えていた。

 フロレンツは後ろ手に縛られているようで、おまけにスレインまでの位置は遠い。もし彼が立ち上がってスレインに飛びかかろうとしても近衛兵たちがすぐさま引きずり戻すであろうし、仮にそれを突破してもヴィクトルが容易に止めるであろう。そんな状況だった。

 もうひとつ置かれてる高い椅子に、スレインは座らなかった。スレインが手ぶりで指示すると、パウリーナがすぐに椅子をどけた。

 スレインは立ったまま、フロレンツと対峙した。


「……久しいな、スレイン・ハーゼンヴェリア王。元気そうだ」


 フロレンツは弱々しい声で言って、笑みを零した。気力の尽きた、枯れ果てた笑みだった。


「……フロレンツ・マイヒェルベック・ガレド殿。あなたは……疲れていますね」


 スレインが答えると、フロレンツの笑みに喜色が混じる。


「ああ、マイヒェルベックの姓を付けて呼ばれるのは久しぶりだ。母の姓は好きなんだが、帝位についてからは誰も呼んでくれなくてな」


 フロレンツが先代皇帝アウグストと、下級貴族家出身の愛妾の子であるということは、スレインも知っている。


「それで、フロレンツ殿。私と話したいと言っていたそうですね」


 彼の雑談にはそれ以上応じず、スレインは尋ねた。


「そうだ。貴殿と話したかった。貴殿に……君に、聞きたいことがあったんだ。私が父に見放されて静養を命じられた日から、君にずっと聞きたかったことが。スレイン殿」


 寂しげな表情で、フロレンツは言った。


「君は自分の父親を信じているか? 父親は自分を愛していたと思うか?」


「はい。信じていますし、そう思っています」


 スレインは迷わず答える。それを聞いたフロレンツの顔が歪む。まるで泣き出す寸前の幼子のように。


「……私と君では、一体何が違ったんだ? 何故、私は父と触れ合って育ったのに、父は私自身を愛してくれなかった? 何故、君は父親と会ったこともないのに、父親を信じられる? 父親に愛された?」


 フロレンツを見下ろすスレインの瞳に、憐れみの色が混じる。


「それは分かりません。きっと、この世の誰にも答えの出ない問いです」


 言葉を交わしたこともない父を、自分は信じている。父が自分を愛していたと信じている。信じることができる。

 それがどれだけ幸運で幸福なことかは分かっている。

 同時に、フロレンツのような不幸な者がいることも分かっている。どれだけ親と共に時間を過ごし、言葉を交わそうとも、ついに愛されない子がいることも知っている。

 その差が何なのかは分からない。親と子、どちらかのせいなのか。何かを変えれば結果も変えることができたのか。それとも変えられない運命だったのか。

 答えはない。正確には、親子の数だけ答えがある。統一された真理はない。


「……どうして私では駄目だったんだ。私の何が駄目だったんだ。私が弱かったからか。愚かだったからか。私は愛する父を殺し、父の帝冠と玉座を奪い……それでも、父が間違っていたと証明できなかった。結局は、私を見放した父が正しかった。では私の人生は、一体何だったんだ」


 そう語るフロレンツは痛々しかった。

 彼は許されざることをした。今回の戦いだけではない。今まで彼のせいで多くの者が苦しみ、死んだ。スレインの庇護下の者たちもそうだった。ハーゼンヴェリア王国の者たちも、今まで多くの犠牲を払った。

 王国軍と貴族領軍の騎士や兵士たち。自ら志願した予備役兵たち。徴集された民兵たち。エーベルハルト・クロンヘイム伯爵。騎士グレゴリー。そして、ジークハルト・フォーゲル伯爵。多くの者が傷つき、死んだ。

 だから、スレインはフロレンツを許さない。世界はフロレンツを許さない。

 それでも、目の前の男を、スレインは哀れだと思った。


「フロレンツ殿」


 スレインは彼の名を呼び、数歩歩み寄り、膝をついて彼と視線の高さを合わせる。


「あなたが私を王にしました。あなたが最初の敵として立ちはだかったから、弱き王太子だった私は、真に王となることができました。あの日あなたに打ち勝たなければ私は弱いままだった。これまでの苦難の数々を、この先訪れる苦難の数々を、きっと乗り越えられなかった。だから……あなたが私の最初の敵でよかったと思っています」


 フロレンツの目が、驚きに見開かれる。


「私はこれからも王の道を歩みます。父フレードリクの愛に恥じない偉大な王を目指します。歴史に名を残します。私の名前と共に、あなたの名前も歴史に残ります。私の最初の敵で、そしておそらく最大の敵として。後世、多くの者があなたのことを語ります。誰もあなたを忘れません」


 これが、スレインが彼に語ることのできる、精一杯の慰めの言葉だった。


「……ありがとう。スレイン殿」


 フロレンツは笑った。その目から涙が零れる。


「ああ、私は…………私は、君が羨ましい」


「……さようなら。フロレンツ・マイヒェルベック・ガレド」


 スレインは言い残し、部屋を立ち去る。

 後ろで重く頑丈な扉が閉まるのを感じ、そして口を開く。


「僕も、あなたが羨ましい」


 誰にも聞こえない、ごく小さな声で呟く。

 フロレンツは父親と触れ合い、語らった思い出を持つ。

 それは自分がどれほど望んでも、ほんのひとときだけでいいからと願っても、絶対に手に入れられないもの。


 それだけは、自分が持たず、フロレンツが持つものだ。

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