第185話 強き女王

「あ、母上! それと……おきゃくさま!」


 モニカとセレスティーヌの登場を見て、ミカエルがテラスの椅子からぴょこんと立ち上がった。ケルシーと呼ばれていた文官の女性も慌てて立ち上がり、セレスティーヌたちにぺこぺこと頭を下げる。

 そしてローザリンデは、立つのも忘れてセレスティーヌを見ていた。彼女の表情も、セレスティーヌ同様に強張っていた。


「……」


「……リベレーツ女王」


 固まるセレスティーヌに、ようやく立ち上がったローザリンデはかき消えそうな声で言い、ぎこちなく一礼する。セレスティーヌは数瞬遅れ、かろうじて礼を返す。

 ローザリンデの事情は聞いている。兄であるフロレンツの配下となった帝国常備軍に追われ、国を追われてハーゼンヴェリア王国に逃げ込んだのだと。

 若く未熟で、政治的な力のほとんどない彼女は、逃げるしかなかったのだと頭では理解している。

 しかしそれでも。自国を襲い、大切な臣下たちを殺した帝国の皇女と、仲良く話すことはとてもできない。少なくとも今は。


「あの、私は――」


「……ごめんなさい、今は」


 さらに言葉をかけようとしてきたローザリンデを、セレスティーヌは顔を背けて拒絶する。

 しばらく沈黙が流れた後、ローザリンデが静かに動く気配がした。


「ミカエル殿下。よろしければ、図書室をまた案内してくださいませんか?」


「いいよ! いきましょう!」


 二人の足音が離れていったところで、セレスティーヌはようやく顔を上げた。


「……申し訳ございません、女王陛下。お二人がお会いしないよう配慮するべきでした」


「いえ、これは私個人の問題なので」


 モニカの謝罪に、セレスティーヌは首を横に振る。他国の要人を二人も保護しているハーゼンヴェリア王家に、嫌いな国の人間とは会いたくない、などと我が儘を言えるはずもない。


「どうぞ座ってください。すぐにお茶を……私が淹れましょう。ケルシー、お菓子はまだある?」


「はいぃ。も、持ってきますぅ」


 それまで所在無げに立っていたケルシーは、モニカに言われて屋内へと駆けていった。

 暗い顔でテラスの椅子に座ったセレスティーヌの前で、モニカは手際よくお茶を淹れる。


「……お上手ですね」


「ありがとうございます。副官だった頃から、いつも陛下に淹れて差し上げているんです」


 穏やかに笑いながら、モニカは答える。

 そして間もなく、ケルシーが駆け戻ってくる。はひーはひーと乱れた呼吸を整えながら彼女がテーブルに置いたのは、新しい焼き菓子だった。


「ご苦労さま、ケルシー。あなたも座って……陛下、紹介いたします。彼女はケルシー・アドラスヘルム。次期アドラスヘルム男爵の妻で、優秀な農務官僚で、私の義姉でもあります」


「お、お初にお目にかかりますぅ。女王陛下、お会いできて光栄ですぅ」


 緊張した様子でぺこぺこと頭を下げるケルシーを見て、セレスティーヌは小さく笑った。


「初めまして、アドラスヘルム男爵夫人。先ほどお話ししているのが聞こえましたが、このお菓子はあなたが?」


「はいぃ。女王陛下のお口に合うかは分かりませんが……」


 差し出された焼き菓子に、セレスティーヌは口をつける。


「……あら、美味しいですね」


 世辞ではなく、そう答える。焼き菓子は素朴で上品な甘みがあり、美食に慣れているセレスティーヌにとっても良い味だった。

 優しい味わいは、今は特にありがたく感じられた。


「よ、よかったですぅ」


「このお菓子にも使われていますが、我が国名産の砂糖の製法を確立したのは、このケルシーなんですよ」


 ハーゼンヴェリア王国で数年前から砂糖が作られていることは、セレスティーヌも当然知っている。製法は国家機密らしいが、甜菜という植物が原材料だということまでは分かっており、リベレーツ王国内でも研究が進められていた。


「そうだったのですか。まだ若いのに本当に優秀なのですね。どこかの貴族の出で?」


「い、いえそんな貴族なんてとんでもない。私は、ただのしがない小作農の出身ですぅ」


 それを聞いたセレスティーヌは目を見開いた。


「小作農? 本当に?」


「彼女は貧しい小作農から、その才覚ひとつで今の立場になりました。彼女の才覚を見出し、重用したのは国王陛下です」


 モニカの言葉に、セレスティーヌは考え込む表情を見せる。


「そう、ですか……小作農の、それも女性を重用……それほどの寛容さを」


 自国こそが優れた価値観と道徳を持ち、誇りある社会を築いている。そう考え、他国に目を向けてこなかったかつての自分を、セレスティーヌは省みる。

 もっと周辺諸国に目を向け、学ぶべきだった。

 父の背中ばかり、父の成した改革の足跡ばかりを追い、自国ばかりを誇って治世を為してきた。しかしその誇りは、いつからか驕りとなっていたのだろう。

 もし自分の視野が広ければ、結果は変わっていたのではないか。もっと周辺諸国と協調し、連係し――そうすれば、事前にフェアラー王国を警戒できていたかもしれない。かの国の離反を未然に防ぐことさえできたかもしれない。少なくとも、油断して城に攻め込まれるようなことにはならなかったかもしれない。

 大切な臣下たちを失うことも、なかったのかもしれない。


「……どうしてあなたたちは、敵である帝国の皇女を受け入れられたのですか? あなたたちの国の人間も、帝国の侵攻で死んでいるのに。かつても今も」


 ふと、呟くように、セレスティーヌは言ってしまった。

 口に出して後悔するが、もう遅かった。しまった、という顔をするセレスティーヌに、しかしモニカは優しく微笑む。


「それが正しいことだからです」


「だから、感情的な葛藤は抜きで?」


「はい。我らが陛下がそう決断されました。なので、私たちも従っています」


 モニカの声には一切の迷いがなかった。


「……そう。強いのですね。あなたも、あなたの夫も」


「ええ。私たちの王は、私の愛する夫は、この国の誰よりも強い。それは揺るぎない事実です」


 そう語る彼女を前に、羨ましいと、セレスティーヌは思った。

 強き君主を戴く彼女たちが羨ましい。強き君主であるスレイン・ハーゼンヴェリアが羨ましい。

 亡き父も、そのような人だった。

 そうだ、スレインは亡き父に似ているのだ。

 今、セレスティーヌは気づいた。

 自分もそんな、強き君主になりたかったのに。どこで、どれだけ間違ってしまったのだろう。


「リベレーツ女王。ここにいたのですね」


 そのとき。テラスに現れたのは、スレイン・ハーゼンヴェリアその人だった。


「モニカと、それにケルシーも。三人で何の話を?」


「あなたがこの国の素晴らしき王で、私の素晴らしき夫だという話を、女王陛下にお聞きいただいていました」


「それは照れくさい話題だね」


 スレインはそう言ってはにかむ。そして、視線をモニカからセレスティーヌに向ける。


「リベレーツ女王。イグナトフ王国より、リベレーツ王国の現状と国境の様子について報告が届きました」


「……っ」


 その言葉にセレスティーヌは固まる。このテラスでのひとときが束の間の休息に過ぎず、自分の前には厳しい現実が待っている。その実感が温度を以て迫る。


「帝国の侵攻軍は、リベレーツ王国より北進しようとしています。狙いはイグナトフ王国、延いてはこのハーゼンヴェリア王国でしょう。北進してくる侵攻軍を撃滅すべく、我が国を含む、大陸西部の北東地域の国々が共闘することが決まりました。私も数日中には、イグナトフ王国への援軍を率いてこの城を発ちます」


 侵攻軍が動き出そうとしているということは、リベレーツ王国の掌握は終わったということ。

 どれだけ荒らされた。どれだけの民が傷つけられ、奪われ、死んだ。

 セレスティーヌの表情は硬くなり、手には力がこもる。


「そして、こちらはあなたにとって朗報です……リベレーツ王国の宮廷貴族や官僚の一部、及びその家族が、王都ハイラシオネを脱出していたようです。彼らはこの数日でイグナトフ王国に辿り着いていると聞いています」


 それを聞いたセレスティーヌの目が見開かれる。


「そして兵士たちも……若い者を中心に、リベレーツ王国軍や近衛隊の残存兵力が、イグナトフ王国まで逃げ延びています。一部の貴族領軍も。その数は総勢およそ五百人ほどだと。また、北進を試みる侵攻軍は未だ抵抗の見られるリベレーツ王国内の早期掌握を諦め、占領維持のために一部の部隊を残すそうです」


 スレインの言葉を、セレスティーヌは無言で聞く。


「このことからも分かるように、リベレーツ王国の者たちは、あなたの臣下や兵や民は、まだ諦めていません。反撃のために集結し、あるいは敵の蹂躙を許さず抵抗しています。あなたの国はまだ終わっていません。女王であるあなたに導かれるのを待っています……私と共に来て、私たちと共に戦いますか?」


 穏やかに、それでいて試すように。挑むように。尋ねるスレインに――セレスティーヌは不敵な笑みを返した。


「無論です。私こそがリベレーツ王国の女王であると、今一度証明してみせます」


 その返答に、スレインは満足げに笑う。


「それでこそあなたです。セレスティーヌ・リベレーツ女王」


・・・・・・・


 客室に戻るセレスティーヌを見送った後、スレインはモニカと顔を見合わせる。


「どうだった? 彼女の様子は」


「予想通り感情を揺さぶられたようです。やはり、ローザリンデ皇女殿下と顔を合わせるのは一定の効果があったのでしょう」


 リベレーツ王国奪還のために戦うとして、国を追われたセレスティーヌを旗頭にすることができれば、様々な面で都合が良い。同盟軍は大義名分を得られ、リベレーツ王国の残存兵力や民衆の協力と支持も得られやすくなる。

 彼女が再び立ち上がるきっかけを作るため、完全に沈んでいる彼女の感情を揺さぶる劇薬を与えようと提案したのはモニカだった。今この王城にある劇薬――帝国の皇女ローザリンデと、セレスティーヌがこのテラスで鉢合わせするよう、モニカが手を回した。

 それは結果的に成功したようだった。


「一度は国を追われた女王が、城を取り戻し、民を救うために舞い戻って戦う……この物語のもとで帝国を打ち破れば、大陸西部全体が一気に勢いづく。大義ある勝利を得た状態で、この先のフロレンツとの戦いに臨める」


 人は物語を求める。物語を通して世界を見る。

 今、大陸西部に何より強力な物語をくれるのはセレスティーヌだ。スレインはそう考えている。

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