第176話 皇太子生還

 マクシミリアン・ガレドは、命からがら帝国東部――皇帝家の東部直轄領、その中心都市であるノヴァレスキアへと辿り着いた。

 二週間以上も隊商のふりをして主要街道を外れた僻地を進み、その後にようやく東部貴族たちの領軍の部隊と合流を果たし、いくつかの中部貴族領を強引に通過しての帰還だった。

 ノヴァレスキアの市域に入り、マクシミリアンが覚えたのは安堵ではなかった。ただ大きな徒労と、そして無力感が、マクシミリアンの脳内を包み込んでいた。


「……」


 警護の兵士たちに厚く守られ、東部における自身の居所である宮殿に向けて街並みを抜けながら考えるのは、ここに辿り着くまでに犠牲にした者たちのこと。

 フロレンツが帝位についたことは、早馬や魔法使いまで使って帝国中に広められていた。皇宮で起こったその後の騒動や、皇族の公開処刑の件を、マクシミリアンは逃避行の道中で知った。

 さすがに、公開処刑について知ったときは身体の力が抜けた。あのとき母と第二皇妃の救出を諦めたことを、ディートリンデの手を離してしまったことを、あらためて心の底から悔いた。僅かにとはいえ、涙を流すなど成人してからは初めてのことだった。

 自分に忠誠を誓う兵を。迷わず自分の陣営を選んだ臣下を。そして皇族、すなわち自分にとっての家族を。見捨てた末にここまで来た。そこまでして逃げ延びたからこそ、自分は戦い、そして勝たなければならない。

 味方はどれだけいるか。貴族たちは、帝国軍人たちは、どの程度が自分の側についたのか。これからつくのか。国境に敵国を睨みながら、西に巣食う謀反人たちとどのように戦えるか。まだ何も分からない。それでも勝たなければならない。

 マクシミリアンが無言で決意を確かめているうちに、馬車――古びた荷馬車から、味方の軍勢との合流後に多少見栄えのするものに乗り換えた――は宮殿に辿り着く。

 出迎えたのは、マクシミリアンの妻と二人の子供と、派閥の中核を成す東部貴族の重鎮たち。

 そして、彼らの中心に、弟である第二皇子パトリックもいた。


「兄上!」


 馬車を降りたマクシミリアンに、パトリックは険しい表情で歩み寄ってくる。

 フロレンツによる帝位簒奪の件は、フロレンツ本人によって帝国中に喧伝されている。フロレンツに都合のいいよう、多大に脚色されながら。

 なので当然、パトリックも既に知っているだろうと、マクシミリアンは思っていた。帝都を共に脱出した貴族の一部を北部国境のパトリックのもとに向かわせたので、彼らの話を聞いたパトリックが、東部まで来ているかもしれないとは思っていた、

 だからこそ、マクシミリアンは弟を見ても驚きはしなかった。

 男の中でも背の高いマクシミリアンより、さらに頭一つ分は大きい偉丈夫であるパトリックが、険しい顔で迫ってくる。それをマクシミリアンは無言で待つ。

 フロレンツの帝位簒奪を止められず、母たちも妹たちも助けられず、多くの忠臣を犠牲にして、自分だけのうのうと生きて帰ってきた身。たとえパトリックに殴られたとしても、受け入れるつもりでいた。

 マクシミリアンの目の前までやってきたパトリックは――両手を広げ、荒々しい所作でマクシミリアンを抱き締める。


「よくぞ無事で……よくぞ無事でいてくれた! 兄上!」


「……喜んでくれるのか。お前が。私の生還を」


 呟くようにマクシミリアンが言うと、パトリックは兄を離し、怒ったような顔を見せる。


「当たり前だ! 弟としても、この帝国の皇子としても、皇宮で起こった惨劇から皇太子の兄上が生きて帰ったことを喜ばぬわけがないだろう……さすがに少し疲れているようだな。第一声がそのような弱音とは、兄上らしくもない」


 力強くも優しい笑みを見せたパトリックに、マクシミリアンも薄い笑い返す。


「さあ、早いところ中へ入ろう。兄上が私のもとに送り込んだ貴族たちからある程度のことは聞いているが、現状について伝えるべきことも、兄上の口から詳細を聞くべきことも、今後のために話し合うべきことも山ほどある。今は一刻の時間も惜しい。俺が仕切って悪いが、兄上が少し休んだら、東部の重鎮たちと私の連れてきた北部の重鎮たちも一緒に会議といこう」


「……そうだな。だが私の休息は不要だ。今すぐに会議を始めるぞ」


 マクシミリアンはそう言って、宮殿に向かって歩き出す。その顔は既に、いつもの表情に戻っていた。


・・・・・・・


 皇太子妃である妻や、子供たち、そして東部貴族たちと再会を喜び合うのもそこそこに、マクシミリアンは宮殿の会議室へと移った。

 側近プロスペール・ドーファン伯爵をはじめ、共にノヴァレスキアまで逃げ切った貴族たち。東部貴族の盟主オーギュスト・モンテルラン侯爵やその他の重鎮たち。パトリックと、彼が伴ってきた幾人かの北部貴族たち。さらには、帝国軍の軍団長格も幾人か。

 彼ら全員を前に、マクシミリアンはまず、自身の視点から一連の出来事と見解を語った。


「――私が生きてこの場に辿り着けたのも、フィルマンのおかげだ。モンテルラン侯爵家にはあらためて感謝する。この貢献を受けたことは生涯忘れぬ」


「畏れ多いことです、殿下」


 マクシミリアンの言葉に、フィルマンの伯父であるオーギュストはそう言った。既に老人と呼んでいい齢の彼は、しかし年齢を感じさせない筋肉質な肉体と覇気を纏っている。


「皇太子殿下をお守りすることは、モンテルラン侯爵家にとって当然の使命。儂としてはむしろ、甥が一人前に家の使命を果たしたことに安堵しておるくらいです」


 老臣の言葉にマクシミリアンは小さく笑い、そして今度はパトリックに視線を向ける。


「それで、東部と北部の現状はどうなっている?」


「まず言うまでもないが、東部貴族たちは兄上の側についた。派閥の中でも中央部寄りに領地を持つ貴族家は、フロレンツの側についた家もないではないが……いずれも小家ばかりだ。あんな奴らは数に数えなくていいだろう。この地における兄上への支持は、フロレンツの帝位簒奪前と何ら変わっていないと思っていい」


「そうか。ようやく朗報を聞けたな……諸卿、礼を言うぞ」


「当然のこと故、礼は不要にございます。帝国東部がここまで勢力圏を広げ、発展したのも、他ならぬ殿下の庇護があったからこそ。我々が殿下を――若様を裏切ることなど、天地が逆転してもあり得ぬことです」


 オーギュストが答えると、居並ぶ貴族たちも口々に同意を示した。

 自分が成人したばかりの頃、今よりももっと西にあった東部国境で初陣を迎えた頃からこの地で尽力してきたことを、彼ら東部貴族は忘れないでいてくれる。マクシミリアンはそのことに感慨を覚える。

 もちろん、このままフロレンツの陣営に敗北すれば東部貴族の領地や権益が大幅に削られ、あるいは全て取り上げられるという懸念もあるのだろう。

 しかし、そうした打算は領地と民を抱える貴族ならば当然に為すこと。マクシミリアン・ガレドが帝位を得れば自分たちの領地と権益も守られると彼らが考えたのならば、それは自分に対する彼らの信頼の証でもある。


「北部における俺への支持も同じ状況だ。そして帝国軍も……東部や北部における帝国軍の将官や士官は、ほとんど全員が持ち場に留まって俺たちの側につくことを選んだ。在地の貴族や富裕層から指揮官を任用する方針が、ここに至っては有利に働いたな」


 一般的には単に「帝国軍」と呼ばれる帝国常備軍。その創設時、将官や士官は宮廷貴族や、帝国中央部の伝統ある領主貴族の縁者からのみ採用されていた。

 しかし、帝国が規模を拡大し、帝国軍の規模もそれに比例して膨れ上がっていくうちに、幹部の数が足りなくなった。単に頭数が不足するのに加え、実家からあまりにも遠い地に何年も十何年も赴任することを嫌う者も増えた。

 その結果、帝国軍の各軍団の将官や士官は、在地の貴族や富裕層の縁者から採用されるようになった。兵もまた、仕事を探す地元の平民を採用するようになった。それが今になって幸いし、帝国軍の全てがフロレンツのもとに下る事態は避けられた。


「貴族領軍と在地の帝国軍。それだけの戦力があれば、少なくとも直ちに我々が窮地に陥るということはないか」


「ああ。だが、悪い報せもある。紅龍王国とシレー王国の動きが活発になっている。おそらく、今年はしつこく攻めてくることだろう」


 それを聞いたマクシミリアンは眉を顰める。

 東の隣国である紅龍王国と、北の隣国であるシレー王国。どちらも帝国にとっては宿敵と呼ぶべき相手だった。


「昨年の会戦では両国とも痛い敗北を喫したはずだが、一年足らずで活性化か……フロレンツの帝位簒奪に合わせた動きと見るべきだな。騒動が自然に伝わってから動き出したにしては、さすがに対応が早すぎる」


「俺も同意見だ。フロレンツの後ろ盾に宮廷内の愛国派がいる以上、例えば帝国東部と北部を隣国に差し出すような密約があったとは考え難いが……謀反を始めると同時に、その情報を両国に噂として流す程度のことはしていたと考えた方がいい」


 フロレンツから帝位を取り返すまで、隣国が大人しくしておいてくれるのが、マクシミリアンとしては当然都合がよかった。

 しかし、世界が都合よく動くことなどない。皇太子という責任重大な立場にあると、そのことは人一倍よく知っている。


「隣国の攻勢を促して我々を消耗させたところで、自分たちが軍をけしかけて仕留め、東部や北部を掌握するつもりか……二正面作戦を強いるとは。厄介だな」


「全くだ。だが、俺たちが生き残り、帝国が正しき帝位継承者のもとで今後も歴史を重ねていくには、この危機を乗り越えるしかない……兄上。いえ、皇太子殿下。今ここであらためてお願い申し上げます」


 パトリックはそう言って椅子から立ち上がり、マクシミリアンの前で片膝をつき、首を垂れた。

 それに、居並ぶ貴族の全員が倣った。


「殿下にこそ、我々の主君、この帝国の皇帝になっていただきたい。我々は忠実なる臣として、身命を賭して殿下をお支えいたします。どうか我々をお導きください」

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