第170話 反逆③

 この場の全員が、この惨状を引き起こしたフロレンツまでもが驚き、正面を向く。

 皆の視線を集めながら、アウグストが立ち上がる。


「フロレンツ! お前がここまでやるとは思わなかったぞ! いやはや存分に驚かされた!」


 今までの、朽ちた木像のように玉座に腰かけていた有様が嘘のように、アウグストは力強い声で言う。力強い足取りで、謁見の間の壇上を降りる。

 まるで在りし日の、強く活力に満ちていた頃のような、皇帝の姿だった。


「かつてこの帝都で、今は皇宮が立つこの場所で、建国の母エルフリーデンは言った! この地に国を築くと! ただの国ではない、偉大な帝国を築くと! 大陸全土に名を馳せ、歴史に永遠に名を刻む大帝国を築くと!」


 謁見の間に響き渡るほどの大声で、アウグストは語る。老い枯れた父の身体の、一体どこにこれほどの力が残っていたのかと、マクシミリアンも唖然とさせられる声だった。


「以来、ガレド大帝国は建国の母の言葉通りに存在してきた! 大陸に、そして歴史に、名を轟かせてきた! この帝国を治める皇帝には常に、強さが求められてきた! そう、この帝国の主に必要なのは強さだ! 倫理でも慈悲でもない! 残虐なまでの強さこそが必要とされてきた! 帝国を守るために! より強大にするために!」


 皆が唖然として固まる中、床に、その下の大地に一歩ずつを刻むようにゆっくりと歩いたアウグストは、フロレンツの前にたどり着く。


「……私もかつてはそうであった。強き皇帝だった。だが今は違う。自分でも分かっている……疲れてしまったのだ。強くあることに。残虐であることに」


 一転して低く唸るように語るその声は、しかしフロレンツに近い位置に立つマクシミリアンにも聞こえていた。


「東と北の国境で、終わらぬ戦いをくり広げた。腐りきった宮廷社会で、そこに巣食う病のような宮廷貴族どもと政争をくり広げた。幾多の敵兵をこの手で斬り、敵国の民を虐殺し、政敵となった叔母と弟を殺し、腐敗した宮廷貴族のまとめ役――かつては爺やと呼んで慕った老臣を殺した。皇族で唯一信頼していた妹は、戦場で失った。来る日も来る日も奪い、奪われ、それに疲れ果て、今はこのざまだ」


 それはマクシミリアンも初めて聞く、皇帝の、父の吐露だった。


「この大帝国の主であり続けるには、私は弱すぎた。継嗣たち――マクシミリアンたちは優秀ではあるが、あれらはまだ行儀が良すぎる。強さはあるが残虐さに欠ける。だからこそフロレンツ。お前が大陸西部への侵攻を企てたとき、私はお前に期待した。お前ならば、帝国を導く上で真に必要な強さと残虐さを発揮できるのではないかと、僅かに期待したのだ!」


 そこで、アウグストの声と顔に気迫が戻る。


「だが、あのときのお前はとんだ期待外れだった! 惨めに敗北し、ザウアーラント要塞まで奪われ、それなのに私の情に頼って許されるつもりで、未だに甘えれば何でも許される可愛い子供のつもりで帰ってきた! あれは無様だったぞぉフロレンツ! あのときのお前は、一人前にもなりきれず、可愛がってやるだけの見てくれも失った間抜けな男だった!」


 フロレンツから殺気が放たれるのが、彼の表情の見えないマクシミリアンにも分かった。

 しかしそれを意に介さず、アウグストはフロレンツの肩を掴む。


「そしてお前は今、もう一度強さと残虐さを私に見せた! 今度はどうだ? 最後までやり遂げられるか? 無様に失敗して泣き出さないか? ――この国の頂点に立ち、生涯強く残虐であり続ける覚悟が、お前にあるか!?」


 問いかけながら、アウグストは獰猛な笑みを浮かべる。


「その覚悟があるのなら、父親を己の手で殺し、その死体を踏み越えて玉座につく覚悟があるのなら――さあ、私を殺せ! かつてお前を散々に可愛がってやった私を、その果てにお前を突き放し捨てた私を、その手で刺し貫け! 殺してみせろおおおっ!」


 巨大な謁見の間が震えるほどの声で、アウグストが吠える。

 それに、フロレンツも絶叫で応える。


「あああああああああああああああああっ!」


 フロレンツが突き出した剣は、アウグストの胸を真っすぐに貫いた。


「……それでいい。それでこそ我が息子だ」


 不敵な笑みを浮かべて呟いたその言葉が、皇帝アウグストの最期の言葉となった。

 フロレンツが剣の柄を離すと、アウグストは刃に貫かれたまま頽れる。その頭から、帝冠が外れて床に転がる。

 父の亡骸を見つめるように俯くフロレンツを中心に、沈黙が流れる。数百人のいる部屋とは思えない沈黙が。防音性の高い壁と扉を越えて、外で争い合う喧騒が微かに聞こえるほどの沈黙が。

 長い沈黙を経て――フロレンツが振り返った。

 不気味なほど穏やかな表情をしていた。


「父は死んだ。私が継ぐ」


 微笑を浮かべるその異様な姿に、皆の目が奪われた、一瞬の間。


「皇太子殿下!」


 マクシミリアンの背後から、一人の貴族が叫んだ。

 マクシミリアンは迷わなかった。自身の側近であるその貴族の声を聞き、反射的に動いた。

 隣にいたディートリンデの手を掴み、前方、皇帝のための出入り口がある壇上に駆ける。そのマクシミリアンを囲むように、二十人ほどの貴族が出席者の列を抜け、共に駆ける。

 皆、マクシミリアンと繋がりの深い東部貴族や、宮廷においてマクシミリアンの派閥に属する宮廷貴族たちだった。彼らの中にも裏切り者がいるなら、自分の身は諦めるしかない。そういう者たちだった。


「おい、止めろ!」


 フロレンツの隣に立つベルナールが叫ぶ。逃亡を阻止するために、剣を構えた近衛兵たちが立ちはだかる。


「うおおおおっ!」


 一人の大柄な貴族が、近衛兵たちの構えた剣に突っ込んだ。自身が刺し貫かれることを厭わず、近衛兵たちを巻き込んで倒れた。

 その僅かな隙間を押し広げるように、貴族たちはマクシミリアンを中心に、一塊になって突き進む。さらに数人の貴族が斬られて倒れながらも、近衛兵の壁を突破して壇上に駆け上がる。

 壇上にいた数人の近衛兵に、数人の貴族がぶつかる。彼らは自らを盾にしてマクシミリアンのための突破口を開く。

 母と、できればディートリンデの母も一緒に。マクシミリアンはそう考えて彼女たちの方を見たが、第一皇妃は娘が死んだ衝撃で未だ呆然として床に座り込み、近衛兵に剣を突きつけられて拘束されていた。第二皇妃は玉座を挟んで反対側におり、距離がありすぎた。

 自分が脱出できるかさえ不確かな今、とても救い出せる状況ではなく、マクシミリアンは断腸の思いで彼女たちから視線を逸らした。


「あちらに!」


 ついに壇上の扉にたどり着いたマクシミリアンが、謁見の間を脱出しようとしたそのとき。

 立ちはだかった貴族を切り捨てて迫った一人の近衛兵が、マクシミリアンに飛びかかり、しかし僅かに届かなかったその手はディートリンデを掴んだ。

 両手でしがみつくようにディートリンデを掴んだ近衛兵は、そのまま彼女を引っ張る。彼女の手が、マクシミリアンの片手をすり抜ける。


「お兄様!」


「待て、ディートリンデが!」


 異母妹を助けるために駆け戻ろうとしたマクシミリアンは、しかし自身を囲む貴族たちに力ずくで扉の外に押し出される。


「駄目です、殿下!」


「畏れながら今は殿下だけが!」


 自分だけが、皇太子の自分の身だけが、逃がすべき最優先の存在。それを頭では理解しているマクシミリアンは、しかし一瞬だけ躊躇し、泣き叫ぶ異母妹の声を背に逃げ去った。


・・・・・・・


「おいおいおい、皇太子が逃げていったぞ? 大丈夫なのか?」


 マクシミリアンとその一派が逃げ去り、十人ほどの近衛兵がそれを追って出ていった後。フロレンツは苦笑しながら、ベルナールを振り返る。

 帝位を簒奪するこの計画において、皇宮の制圧と、皇族をはじめとした要人の捕縛は、軍部と近しいベルナールの担当だった。


「おそらく問題ございません。今、皇宮内にいる近衛兵の多くには我々の息がかかっています。また、帝都内の帝国常備軍は既に我々の側に引き込んでおり、さらには我々の手勢も帝都の中におります。今頃は近衛兵の手引きを受けて皇宮に突入していることでしょう……その包囲の中を潜り抜け、皇宮を、さらには帝都を脱出できるとはそうそう思えません」


「そうそう思えない、か。必ず捕縛できるとは言えないのだな。まあ仕方ない。これほど壮大な計画、一つくらい上手くいかないこともあるだろう……どちらにせよ、兄上は最後には私の前にやって来るだろう」


 味方に引き入れた近衛兵と、帝国常備軍、そして同志の貴族たちが所領から呼び寄せていた手勢をもって皇宮を制圧。帝国の中枢を手中に収め、要人の身柄を確保する。この一連の計画において、マクシミリアンの捕縛の優先度は必ずしも高くない。

 帝国東部、及び北部は、もはやマクシミリアンと第二皇子の勢力圏。彼らの妻や子もそちらにいる。あの地域の貴族たちは、マクシミリアンがいてもいなくても、帝位を簒奪したフロレンツにそう簡単には従わない。

 どちらにせよ、東部や北部の勢力とは一度戦い、打ち破って力ずくで支配下に収めなければならない。たとえマクシミリアンを逃がしても、いずれは彼の方から軍勢を率いて舞い戻ってくれるのだからさしたる問題はない。

 ただ、できることなら今捕らえておいた方が後々楽だった、と少し悔やむ程度の話だ。


「皇子殿下。畏れながら、今は殿下の戴冠を急ぐべきかと。殿下が帝冠を戴けば、マクシミリアンはもはや皇太子ではなくなります」


 そう提言したのはレジスだった。どこか媚びるような笑みを浮かべながらの彼の提言に、フロレンツは不敵な笑みで頷く。


「そうだな。せっかく集っている帝国貴族たちを待たせるのも、彼らに悪いだろう……頼むぞ、総主教殿」


「御意に、殿下」


 フロレンツが呼びかけると、それまで謁見の間の隅で気配を殺していたマトヴェイ総主教が進み出る。彼もフロレンツやその一派の貴族たちと同じ、この状況に動揺を示していない一人だった。

 総主教までもが謀反に加わっている。そう理解した貴族たちがまたざわめく。


「諸卿、どうか静粛に! これより始まるのは、帝国の歴史において極めて重要な儀式だ!」


 レジスの言葉で、貴族たちは間もなくまた押し黙る。

 脅迫的で歪な静寂の中で、フロレンツはゆっくりと、余裕のある足取りで壇上への短い階段を上った。


「……皇族たちを外へ」


 フロレンツの言葉で、娘の死を前に未だ泣き崩れる第一皇妃と、一連の状況を前に青い顔の第二皇妃が、玉座の左右の椅子から引き離される。怯えた表情のディートリンデと共に、謁見の間の外へと連れ出される。

 一人、檀上に立ったフロレンツは、玉座の前で振り返った。まるで既にこの部屋の主であるかのように、この部屋に集う者たちを睥睨した。

 部下である司祭が運んできた聖具を構え、マトヴェイ総主教が床に転がった帝冠を拾い上げ、フロレンツの前に立つ。神に仕える者である総主教を前に、フロレンツは信徒の礼をとる。


「……古、聖なる地において、唯一絶対の神は預言者エインシオンに御言葉を託された。神は我らの父、そして我らの母である。その御目はいついかなる時もこの地を見守り、その御心は――」


 堂々たる声で、総主教が聖句を唱える。フロレンツの一派の手助けを受け、先代の総主教を薬で殺害して病死に見せかけ、若くして今の地位を得た総主教が神聖な言葉を語る。


「――よってこの者こそが、神の代弁者たる皇帝である。大陸の覇者、歴史の覇者である。ここに存在する帝冠が、唯一絶対の神による祝福の証。今ここで、この者の頭上に帝冠を授ける」


 帝冠が、フロレンツの前に掲げられる。

 そして、静かに――見た目の上では厳かに、その頭上に置かれた。


「皇帝陛下。神の祝福は全てあなた様のもの。あなた様こそが、偉大なる帝国の主にございます」


 総主教が横に一歩引いてから首を垂れ、言う。

 信徒として祝福と帝冠を戴いたフロレンツは、皇帝として立ち上がる。


「偉大なる皇帝! 我らの支配者!」


「フロレンツ・ガレド陛下に不変の忠誠を!」


 レジスがどこか大仰な声で、ベルナールが鋭い声で、それぞれ言って片膝をつく。

 フロレンツの一派の貴族たちが一斉にそれに倣い、近衛兵たちはその他の貴族たちの前で無防備になるのを避けるためか、剣を捧げる仕草だけを示した。

 皇宮の謁見の間で、エインシオン教普遍派の総主教から帝冠を戴く。その儀式を経た者は、儀式に至る過程がどうであれ正統な皇帝と見なされる。かつて簒奪によって帝位についた幾人かの皇帝たちが、その身をもって示した慣習法。

 その法に基づけば、フロレンツは正しく皇帝だった。


「……ようやくこの日が来た。そして始まる。私の治世が。私の歴史が」


 恍惚とした表情で、フロレンツは呟く。

 あの日。この部屋で父に見放された。今は違う。見放されたのは父の方だ。壇上から全てを見下ろすのは自分の方だ。

 自分を愛することを止めた父に。自分を馬鹿にし続けた者たちに。自分の邪魔をし続けた者たちに。これから示すのだ。自分は価値ある存在だと。父の後を継ぐにふさわしい存在だと。

 ゆっくりと玉座に、皇帝のための椅子に腰を下ろす。

 この日、フロレンツ・ガレドは皇帝となった。



★★★★★★★


いよいよ今月8月9日、書籍1巻『ルチルクォーツの戴冠 -王の誕生-』が発売となります。


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また、イラストを担当していただいたttl先生によるキャラデザや口絵、挿絵も最強です。

よろしければ是非、お手に取っていただけますと幸いです。

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