六章 帝国の動乱

第168話 反逆①

 帝国歴二九〇年の春。

 ガレド大帝国の帝都ザンクト・エルフリーデンは、このサレスタキア大陸に帝国が誕生したときから変わらない隆盛を、今日このときも纏っていた。これからも悠久に続くと思われる繁栄を謳歌していた。

 広大な帝国領土の中央で、この国の心臓としての役割を為す皇帝の膝元は、国境付近の紛争とも無縁。当然の平和を享受していた。

 その帝都の西側に、帝国の主である皇帝の居所、皇宮はある。

 多くの館と庭園、軍事施設や農地までを内包し、中規模の都市に匹敵するほど広大な敷地を持つ皇宮の本館。その中にある謁見の間では、重要な式典が行われていた。


「ガレド大帝国の偉大なる君主にして、帝国を栄光へと導く偉大なる指導者! 唯一絶対の神の代理人! 皇帝アウグスト・ガレド三世陛下のご入来!」


 高らかに宣言した儀礼官の言葉に続いて、荘厳な音楽が奏でられる。

 やや大仰なまでに厳かさを演出するその音楽は、謁見の間に入って玉座へと歩く老い枯れた皇帝の、覇気などとうに薄れ果てた有り様を、まるで誤魔化すようでもあった。

 どこか虚しさも漂うこの空間で、しかし集った帝国貴族たちはこの国の主に対して一斉に礼をする。片膝をつき、首を垂れ、皇帝への忠誠と尊敬を――少なくとも表向きは、示す。

 玉座に最も近い位置には、皇太子であるマクシミリアンもいた。昨年の西サレスタキア同盟の戦いを自ら見届け、冬前には帝国東部国境の戦地へと帰ったマクシミリアンは、年が明けたこの春、再び戦地を出て帝都に舞い戻っていた。この式典のために。

 今日は、皇帝であり父であるアウグストの、在位四十年を祝う日だった。

 アウグストはゆっくりと歩き、玉座に腰を下ろす。その両の隣には、皇妃――皇帝と同じほどに歳を重ねた第一王妃と、それより二回りは若い、アーレルスマイアー侯爵家より迎えられた第二皇妃が並ぶ。


「……面を上げよ」


 アウグストの口から、その老いを感じさせる、しわがれて間延びした声が響いた。それに従って一同は立ち上がり、顔を上げる。


「皇帝陛下。陛下の在位四十年の節目を祝う場に立ち会えたこと、我ら一同、身が打ち震えるほどの光栄と感動を覚えております。今日この日、心より陛下にお慶び申し上げます」


 アウグストの前に進み出てそう言ったのは、椅子に座る皇帝とその后を除けばこの場の最上位者であるマクシミリアンだった。


「苦しゅうない、我が継嗣マクシミリアンよ。そして我が忠実なる臣たちも。こうして集ってくれたことを嬉しく思う」


 我が子と、居並ぶ貴族たちを見下ろして答えるアウグストの目は、どこか虚ろだった。

 本当に歳をとられた。マクシミリアンはそう思う。

 十年も前には明確に老いが見えていた父は、この数年でさらに老い枯れた。ただ老いただけではない。為政者として、その能力の全てが鈍くなった。

 この様子では、東部国境で目覚ましい戦果を挙げてきた自分が帝位を継ぐまであと何年もかからないだろう。もしかしたら二年以内、いや来年にも、自分が帝冠を戴くことになる。

 そう思いながら、マクシミリアンは一礼し、下がる。

 次に進み出たのは、聖職者だった。ガレド大帝国において国教であるエインシオン教普遍派。その総主教、マトヴェイ。

 病死した先代の総主教の後を継ぎ、二年ほど前に若くして総主教に抜擢されたマトヴェイは、アウグストの前で慇懃に礼をする。そして聖具を掲げ、偉大なる皇帝に神の祝福を授ける聖句を唱え始める。

 総主教による祝福が終わると、その後は帝国を代表する大貴族たちの挨拶が行われ、さらにはアウグストの治世の振り返りとして、彼のこれまでの功績――そのほとんどは二十年以上も前のものだが――を儀礼官が読み上げていく。

 五年前にも、十年前にも、それ以前にも行われた、皇帝の在位の節目を祝う式典。もはや惰性で続けられる作業と化したこの式典は、粛々と進行していく。

 そして、式典も終わりに近づいたとき。


「――失礼いたします、皇帝陛下」


「なんだ、このようなときに」


 入室してきた官僚が、アウグストのもとに駆け寄る。自分の在位を祝う儀式をまるで他人事のように眺めていたアウグストは、煩わしそうな顔で官僚に耳を傾ける。


「……何、フロレンツが? この場にか? 今、来ているのか?」


 せっかく官僚が小さな声で伝えた報告を、アウグストは声を抑えずに聞き返してしまう。居並ぶ貴族のうち前の方にいた者たちはそれが聞こえたようで、彼らから話が伝わり、場がにわかに騒々しくなる。

 その様を、ため息を吐きたい気持ちをこらえながら、マクシミリアンは見回した。

 フロレンツ・マイヒェルベック・ガレド。何年か前に、謁見の場で平静を失ったように喚き散らしてつまみ出され、そのまま静養という名目で田舎に軟禁されていた異母弟。

 ここ最近は随分と心も落ち着き、外出も許されるようになっていると、マクシミリアンは話に聞いている。

 とはいえ、多くの帝国貴族が集うこのような場に招き入れるにはまだ不安がある。フロレンツがまた醜態を晒せば、それは皇帝家の恥になるのだから。

 前回フロレンツが騒いだときとは違い、ここには宮廷貴族だけでなく領主貴族たちもいる。彼らの前で、平静を失った皇子が老い枯れた皇帝に向けて騒ぎ立てる様など見せれば、諸侯に対する皇帝家の権威が揺らぐ。

 だからこそ、報せを伝えにきた官僚はアウグストが内密にフロレンツを追い返す命令を下せるよう、密かに報告したというのに。

 フロレンツが来ていることを貴族たちに知られた今となっては手遅れ。この上でアウグストが、病からようやくある程度の快復を見せて会いにきた息子を追い返したとなれば、体面が悪い。


「――ください、どうかお待ちください、皇子殿下!」


 そのとき。謁見の間の正面側の扉から何やら騒がしい声が聞こえ、そして扉が開かれる。

 近衛兵が整然と開くのではなく、一人の男――フロレンツ当人が、自力で両の扉を雑に開いて入室してくる。

 その後ろでは、文官が一人と扉を守る近衛兵が二人、立ち尽くしていた。文官はひどく困った表情をしていた。相手が第三皇子となれば、さすがに力ずくで止めることは叶わなかったか。


「……」


 こうして、マクシミリアンの懸念は無に帰した。アウグストの失敗とは関係なく、フロレンツは勝手にこの場へと入ってきてしまった。

 数年ぶりに見たフロレンツは、見た目の上では、静養させられる前と変わらぬほどに快復しているようだった。

 マクシミリアンは自身の横を向く。共に並ぶ皇族――第一皇女マリアンヌの不愉快そうな顔と、歳の離れた異母妹である第二皇女ディートリンデの不安そうな顔と向き合い、二人の妹に小さく肩を竦めてみせる。

 フロレンツが入ってきてしまったのならば仕方がない。この期に及んで皇帝が一言も言葉をかけず、無理やり引きずり出すのはあまりにも体面が悪くなる。

 異母弟が暴走しないこと、老い枯れた父が今回ばかりは上手く立ち回ってくれることを祈るしかない。さて、果たしてどうなるか。

 マクシミリアンが静観を決め込む前で、フロレンツはアウグストに向けて片膝をつく。


「皇帝陛下。まずは、厳粛なる式典の場を騒がせましたことを心よりお詫び申し上げます。我が父であらせられる陛下の在位四十年という記念すべきこの日、せめて一言お祝いの言葉をお伝えしたく思い、いてもたってもいられず、ご迷惑かとは思いながらも参上いたしました」


 そう語るフロレンツは、少なくとも落ち着いて見えた。常軌を逸して髪を振り乱しながら、這ってアウグストに迫った数年前とは大違いだった。


「……許そう。フロレンツよ、面を上げよ」


 父に祝いの言葉を届けにきた、一応まだ病人である息子。そのいじらしい説明を前に、アウグストはひとまず寛大さを見せながら命じる。


「会うのは久しぶりだが、息災そうであるな」


「はっ。陛下よりお慈悲をいただき、田舎で静養したところ、我が心も随分と落ち着きました。今はもはや、あの日の己の失態を恥じ入るばかりです。一日も、いえ一刻も早く、帝国に貢献できる立場へと完全に回復できるよう、努力を重ねる日々を送っております」


 顔を上げて語るフロレンツも、公の場で話すことが問題ない程度に快復している。マクシミリアンにはそのように見えた。フロレンツの内面は分からないが、少なくとも表面上は。


「そうか。皇妃の子ではないとはいえ、皇子として正しき心がけだ。今後も励むとよい……挨拶はもうよかろう」


 どこか事務的な口調でフロレンツに言葉をかけたアウグストは、冷めた表情で呟く。


「ここに集った者たちを待たせておる。式典はまだ終わっていない……フロレンツよ。お前もこのまま、皇族たちの列に並んで式典を見届けるか?」


 出席者の最前列、マクシミリアンたちの並ぶ方を手で示して問いかけるアウグストに、しかしフロレンツは首を横に振った。


「いえ、陛下。私は遠慮させていただきます」


「そうか、では――」


「私はあの列ではなく、そこへ」


 皇帝である父の言葉を遮り、フロレンツは指差す。突き出された指の先にあるのは――アウグストが今まさに座る、玉座だった。

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