第166話 意外な決着
「……そうか、来たか!」
予想していた中では最速に近い到着。ルガシェも素で明るい表情になりながら、敬礼を忘れた士官を咎めることもせず、兵士たちを見回す。
「皆、喜べ! 船が着いたぞ! 我々はこれより帰還する!」
この報せには、士気がどん底まで落ちていた兵士たちもさすがに喜びの声を上げた。周囲の者と肩を組み、抱き合い、中には嬉し泣きする者もいた。
「まずは負傷者からだ。皆で協力して、自力で動けない者を港まで運んでやれ! 各々の荷物は最小限に抑えろ。私物は手に持てるものだけだ。私は最後に船に乗る。誰一人置いていかないから慌てるなよ!」
ルガシェの命令で、兵士たちは一斉に動き出す。ペイルトンに逃げ込んでからの重苦しい空気が嘘のように、気力に満ちた表情できびきびと動く。
負傷者の港への移送は瞬く間に進み、ルガシェも自ら輸送船団を出迎えるため、港に立った。
「おお、本当に来たな……」
これで、少なくとも残存部隊を生きて返すことは叶う。安堵を覚えながら、ルガシェは兵士たちと共に輸送船団が港に入るのを待つ。
港の一角、本来は積み荷を置くための広いスペースには、今はいち早く船に乗るために移動してきた負傷者たちが座り込んでいる。負傷の度合いが酷い者の中には、即席の担架に寝かされている者もいる。
輸送船団の旗艦と思しき軍船からは、港に向けてケライシュ王国軍の軍旗が振られる。ルガシェたちの側も、士官が数人がかりで大きな軍旗を振る。港に集まっている兵士たちも、船団に向けて手を振り、歓声を上げていた。
輸送船の最初の一隻が、港に近づいてきた――そのとき。
「……な、なんだあれは!?」
ルガシェは驚愕し、叫んだ。
・・・・・・・
要塞化されたペイルトンを囲む同盟軍の包囲網。その本陣が置かれた小高い丘の上から、スレインたちは海を見渡していた。
「……これが、『赤い海の秋』ですか」
「私も話には聞いたことがありましたが、これほどのものとは……」
スレインの呟きに、ファツィオが呆然としながら返す。
イレドラル半島沖に生息する、海老に似た魔物、ガラレウラ。それが十数年に一度、沿岸部に大量に押し寄せる大繁殖期。
何の因果か、その発生とケライシュ王国輸送船団の到着が、今このとき、このペイルトン沖で見事に重なった。その凄まじい光景を、同盟軍は目の当たりにしていた。
「私は人生で三度『赤い海の秋』を見たが、これほどの規模のものは初めてだ。我が父や祖父から聞いていた話でも、ここまでのものは知らない……『赤い海の秋』の規模は毎回異なるが、これはその中でも相当に大規模な方だろう」
答えたのはクラークだった。その隣では、ガブリエラが黙り込みながら、海を睨みつけるように見据えている。
スレインも海に視線を戻す。
赤い海。まさにその言葉にふさわしく、視界に収まる海は全てがガラレウラの甲殻の色に変わっていた。
港に面しているので水深はそこまで極端に深くないとはいえ、本来は海底にいるはずのガラレウラが海面まで姿を見せている。その数は十万や二十万ではない。百万でも足りないのではないかと思えるほどに、大量のガラレウラが蠢いている。
一匹一匹がそれなりの質量を持つ魔物が、百万匹以上。その力は凄まじい。本来はなだらかな海底と穏やかな水面に、いきなり無数の岩礁と荒波が迫ってきたようなもの。
「……この様子では、ほぼ全滅でしょうな」
「そうだね。ガラレウラの群れから離れたところにいる一部の船が、イレドラル湾を脱出できたら幸いといったところだろう」
ジークハルトと言葉を交わしながらスレインが視線を向けたのは、赤い海の上で崩壊していく輸送船団だった。
おそらく商船を徴用したのであろう、その気になれば数百人を乗せられる大型の輸送船。それであっても、これほど大きな質量の波の中ではまるで玩具だった。
ガラレウラの群れに押し上げられた一隻の輸送船が、簡単にバランスを崩し、転覆する。その横では、海上に船体の全体が乗り上げてしまった輸送船が、歪な位置に全重量がかかったために船体が耐えられず、前後真っ二つに引き裂かれる。
別の場所では、ガラレウラの群れの上を滑るように、質量の波に翻弄される輸送船が、すぐ隣にいた護衛の軍船の横腹に激突する。その衝撃で、両方の船がばらばらに破壊される。
まるで岩礁地帯に真正面から突っ込んだかのように、ケライシュ王国の誇る船団が砕け、裂かれ、赤い海に消えていく。
晩秋の快晴と、まるで嵐に揉まれているかのような輸送船団のちぐはぐな有様は、それを眺める者にひどく不思議な心地を抱かせた。
船と共に沈んでいく船員たちの絶叫が塊となり、海風に乗ってスレインたちのもとまで届く。
スレインはエーデルランド王国への道中を案内してくれた、若い騎士の言葉を思い出す。
ガラレウラは陸では弱いが、海中では素早く強靭。そんな魔物がひしめく海中に消えた輸送船団の船員たちは無事では済まないだろう。
繁殖で腹を空かせ、共食いさえするというガラレウラたちにとって、脆弱で動きの遅い人間など餌でしかない。跡形もなく食い尽くされるのは間違いない。
「侵攻などという愚行に走った者たちに、罰が下ったと見るべきか」
「はっ、馬鹿を言え」
あまりに壮絶な光景を前にしたオスヴァルドの呟きを、そう笑い飛ばしたのはドグラスだった。
事態急変を前にさすがに寝ていられず、足に傷を抱えたまま起き出してきたドグラスは、松葉杖をついて自軍の士官に支えられながら数歩前に出る。
「海の前では、俺たち人間など塵も同然よ。塵同士の縄張り争いに、海がいちいち罰など下すわけがない……奴らはただ、絶望的なまでに運が悪かっただけだ」
ヒューブレヒト王国も、海と共に生きてきた国。その王の語る理屈に、オスヴァルドも異を唱えることはしなかった。
「あれは……群れが陸まで押し寄せているのでしょうか」
スレインが指を差した先、ペイルトンの港や周囲の海岸が、赤い波に覆われていくのが他の者にも見えた。
「稀に見る大繁殖が、さして広くないイレドラル湾内で起こったせいだろう。まだ体力のある個体までが、海中の混雑に耐えかねて陸に逃げたようだ」
状況を確認したクラークが、そう考察する。
「一応、海岸に近い部隊に戦闘準備をさせておくか?」
「そうだな。あの様子だと、上陸した群れの一部は同盟軍の陣にも近づいてくる…とはいえ、人間の軍隊が組織立って対応すれば敗ける相手ではない。落ち着いて対処するよう各部隊に命じよう」
ガブリエラの問いかけにクラークが総大将として答え、同盟軍は動き出す。
・・・・・・・
日暮れ近くになってから、「赤い海の秋」はようやく収束した。イレドラル湾の一角を埋め尽くしていたガラレウラは、その多くが繁殖を終えて沖合へと帰っていった。
ガラレウラたちがまき散らした無数の卵、そこから生まれる指先ほどの大きさの幼体は、波に流されながら広い海の中に拡散し、大半が魚などに食べられながら、ごく一部が成体まで成長するのだという。
ペイルトン周辺の海岸から上陸してきた千匹を超えるガラレウラには、同盟軍が対処。防衛線を敷いての集団戦闘で数百匹を殲滅すると、ガラレウラはそれ以上の前進を止め、残る個体はその場にとどまって仲間の死体を貪り始めた。
同盟軍はそれら生き残りの個体に対して一応の警戒を続けながら、ペイルトンの包囲を続行していた。
「くはははっ! 海岸と、この丘から見えるペイルトンの港周辺だけでこれだけ赤いのだ。都市内にどれほどガラレウラの死体が転がっているか分からんな。片づけに難儀しそうだ!」
「……まったくだ。せっかく都市内での戦闘を避けていたというのに。結局、復興には相当の手間がかかりそうだな」
未だ足を負傷しているので椅子に座りながら、下品な笑い声を上げるドグラスの横では、クラークが嘆息しながら言う。
「さて、侵攻軍の残存部隊はどう動きますかね」
「同じ規模の輸送船団を、もうひとつ本国から持ってくることもできないだろう。さすがにこれ以上の悪あがきはしないのではないか?」
スレインの呟きにオスヴァルドが返した、そのとき。
ペイルトンに築かれていた防壁の門が開かれ、要塞化された都市内から白旗を掲げた数騎の騎士が出てきた。
ゆっくりと接近してきた騎士たちは、途中で同盟軍の部隊に包囲される。その部隊に連行され、本陣までやって来る。
そして、スレインたち君主や同盟各国の将菅が居並ぶ中で、一人の騎士が前に進み出て、片膝をつく。
「拝謁のお許しを賜り感謝申し上げます。私はアーマール・キヴァ女爵。ケライシュ王国、サレスタキア大陸西部侵攻軍の総大将であるルガシェ・ダフヴィ侯爵閣下の副官を務めております……此度は、西サレスタキア同盟軍への降伏の意思をお伝えしにまいりました」
予想通りの申し出に、スレインたちも驚きはしない。
しばし無言で顔を見合わせ、そして口を開いたのはガブリエラだった。
「降伏の意思があることは分かった。だが、この状況でそれを伝えにくるのは、お前たちの総大将ダフヴィ侯爵の役割ではないのか? 侯爵は何故、この期に及んで自ら出てこない?」
先ほどの「赤い海の秋」で負傷でもしたか。スレインは内心でそう思いながら、ガブリエラの問いかけに対するキヴァ女爵の返答を待つ。
「……ダフヴィ閣下は、海からの魔物の襲撃で戦死なされました。他の将は先の会戦で戦死または負傷、あるいは行方不明となっているため、現在は私が指揮をとっています」
それを聞いた一同の間にざわめきが起こる。スレインも片眉を上げ、傍らのジークハルトやヴィクトル、パウリーナと顔を見合わせて驚きを共有する。
「死んだぁ? 総大将ともあろう者が、陸に上がったガラレウラごときに殺されただと? 何故そのようなことになる? 部下である貴様らは何をしていた? 自分の指揮官も守れんのか?」
キヴァ女爵をねめつけながら、ドグラスが尋ねる。キヴァ女爵は無表情でドグラスに視線を返すと、すぐに正面に向き直り、言う。
「我々は到着した輸送船団にまず負傷者を収容する予定で、港には既に負傷者を運んでいました。そこへあの魔物の群れが上陸してきたため、ダフヴィ閣下は自力で動けない負傷者を退避させるよう命じられました。魔物が間近に迫る中でも、一人でも多くの負傷者を救うために自ら動かれ……最後まで負傷者を見捨てて逃げることはなさらず、魔物の群れに飲み込まれました」
沈痛な面持ちで、キヴァ女爵は語った。
それを聞いたスレインたちは察する。ダフヴィ侯爵はおそらく、自ら敗戦の責任を取って死ぬためにそのような行動をとったのだろうと。
侵攻軍を勝利に導くことができず、自身の責任ではないとはいえ撤退のための輸送船団まで目の前で失った。この上で自分だけ平然と生きて帰ることは、まともな将ならばできない。
それならば、自ら責任を取って死を選ぶ方がはるかにましだ。
全てを終えてから自死する道もあっただろうが、道はそれだけではない。自分は負傷者を助けることで死に様を飾り、降伏後のことは腹心であるこのキヴァ女爵に任せることで、部下に「残された兵士たちを管理し、無事に帰還させた」という小さな手柄を持たせる。そちらの道を選んだのは、単にダフヴィ侯爵の個人的な好みだろう。
「……事情は分かった。この西サレスタキア同盟軍の総大将として、卿らの降伏を受け入れる」
沈黙を破って言ったのは、クラークだった。
「まずは武装解除と、ペイルトンの明け渡しだ。一切の武器を捨て、負傷者も含めて全員がペイルトンを出るように。猶予は明日の正午までだ」
「了解しました。ただちに準備を開始します」
キヴァ女爵は立ち上がり、ケライシュ王国式と思われる敬礼をして去る。
海を越えての侵略を試みたケライシュ王国による侵攻軍と、史上初めて実戦に臨んだ西サレスタキア同盟軍。その戦いはこうして、誰も予想しなかったかたちで決着した。
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