第144話 貴族の恋

「こちらが、この五年間での甜菜の収穫量の変化と、今年の見込み収穫量を記載した資料になりますぅ」


 初夏のある日。王城の会議室で、そう言いながら書類を差し出すのは文官ケルシーだった。

 王家に仕官してもうすぐ四年。小作農であるが故に当初は王城で働く日々に戸惑っていた様子の彼女も、今ではすっかり一人前の文官らしくなった。語尾がやや間延びした特徴的な話し方は個性として残っているが。

 今は砂糖生産と甜菜栽培の実務担当として、君主であるスレインを前にこれまでの総括を報告しているところだった。


「ご覧のように、甜菜の栽培効率化に取り組み始めてから、総収穫量も農地面積あたりの収穫量も飛躍的に増加しましたぁ。ただ、昨年の収穫量は一昨年と比べて増加率が落ち着いているので、栽培の効率化については現状ではそろそろ頭打ちかと存じますぅ」


「大陸西部における砂糖の需要を考えると、あと二倍程度までは原料の甜菜を増産するのが望ましいかと考えます。ケルシーの言ったように、栽培の効率化については天井が見えてきているため、今後は甜菜栽培に充てる農地面積そのものを増やしていくべきかと」


 スレインとモニカ、王国宰相イサーク、そして農業長官ワルター・アドラスヘルムを前に、ケルシーが説明し、彼女の上司で次期農業長官であるヴィンフリート・アドラスヘルムが補足する。


「せっかく砂糖が王領の特産品として根付き始めているし、甜菜の増産は最優先で進めたいね」


「であれば、一部の野菜の生産を縮小するのがよろしいかと。四年前にオルセン王国と行った農業技術協力の影響で、農地面積あたりの収穫率はいずれの野菜も向上しています。王領での需要を満たして有り余る量の野菜が生産され、市場での値下がりが目立つほどです」


 スレインが呟くと、それにワルターが答えた。

 作物は豊作であればあるほど良いというわけでもない。麦など保存の利くものならばともかく、野菜などはあまりにも豊作だと値が下がり、かといって消費者が急に増えるわけではないので品が余り、結果的に農民の収入が減ってしまう。

 王家ならば農民を守るために価格統制を行うこともできるが、そのような強権的な振る舞いは社会に与える影響も大きいため、気軽にとれる手ではない。

 他に需要のある作物として、甜菜を多く作らせれば、王家と農民の双方が幸せになれる。


「農民の中でも新参である元ヴァイセンベルク王国難民たちが、古参農民たちと比べても収入が低く、生活の質が上がっていないという課題がございます。この新参農民たちに向けて特に甜菜の栽培を奨励し、王家が一定の価格で買い上げれば、課題の解決にも繋がりましょう」


「それは丁度いいね。そろそろ彼らにも、ただ安寧に暮らすだけでなく人生を前に進ませてほしいと思っていたところだ」


 新参の農民たちがいつまでも社会の下層にいては、それが社会の停滞にも繋がりかねない。勤勉に働いた者が社会の中流に上がれるようにするのも、王国の発展を考えるうえで重要なこと。スレインはそう考え、イサークの提言に頷く。


「では、アドラスヘルム卿とも連係し、その方向で調整いたします」


 甜菜の増産について大まかな方針が決まり、話し合いはひと段落する。


「砂糖生産も甜菜栽培も、技術面の洗練は十分になされたから……今後はひとまず現状を維持しながら、我が国の新たな特産品の普及に努めることになるかな?」


「仰る通りかと。現状の数字を見ても、生産規模を拡大すれば王家の収入源のひとつとして申し分ない利益を得られる見込みです。細かな技術改良のために研究は続けるべきでしょうが、これまでほど労力をかけて急ぐ必要はないかと思われます」


 スレインの言葉に、イサークはそう言って首肯した。


「それじゃあ、ケルシーもしばらくは仕事が楽になるかな。これまで本当に大変だったと思う。ご苦労だったね」


「ありがとうございますぅ。ですが、これまでも決して辛くはありませんでしたぁ。仕事はとてもやりがいがありましたし、ヴィンくんも支えてくれたのでぇ」


 おっとりした笑顔を浮かべてケルシーが言うと、室内に静寂が訪れる。


「……ん?」


 スレインは首を傾げ、そして強烈な違和感の正体にすぐに気づいた。

 ヴィンフリートはワルターの息子で、モニカの兄。アドラスヘルム男爵家の継嗣であり、いずれはワルターの後を継ぐ歴とした貴族。

 そして、ケルシーは砂糖生産と甜菜栽培という重要な仕事を担っているとはいえ、平民の文官。そんな彼女が、役職も身分も上であるヴィンフリートを「ヴィンくん」と呼んだ。

 この意味が分からないほど鈍感な者は、室内にはいなかった。

 スレインはモニカと顔を合わせ、無言で苦笑を交わす。イサークに顔を向けると、彼は小さく肩を竦めて見せ、書記を務める副官パウリーナに顔を向けると、彼女は無表情で首を振った。

 ヴィンフリートを見ると、彼は目を小さく見開いて固まっていた。その隣のケルシーは、自身の失言に気づいて顔を青くしている。

 最後に、スレインたち全員の視線が、ヴィンフリートの父であるワルターに向けられる。


「……ヴィンフリート。説明してもらおうか」


 ワルターは静かな、しかし硬質な声で言った。


「はっ。一年ほど前より、ケルシーと男女の関係にあります。申し訳ございません」


 ヴィンフリートは少しばかり表情を強張らせ、しかしその返答は潔かった。もはや言い訳はできないと思っているらしかった。


「も、ももも申し訳ございませんっ。わ、私が仕事で少し疲れていた時期に、ヴィンフリート様に甘えてしまい、そのまま流れでぇ……」


 あわあわと狼狽えながら涙目になるケルシーを見て、ワルターはため息を吐く。


「お前を叱責はしない。こういうことの責任は、貴族のヴィンフリートにある……おい。一応聞くが、避妊はしているな?」


「もちろんです。どちらかが必ず『カロメアの蜜』を飲んでいます」


 あまり心配していない様子のワルターの問いに、ヴィンフリートは即答した。


「……えっと、僕とイサークは席を外そうか」


「あら、もしかしたら私たちの親戚が増えるかもしれないお話ですから、陛下もぜひ同席してくださいませ。ノルデンフェルト卿も、もし法衣貴族の結婚という話になれば王国宰相として無関係ではないでしょうし、よければこのまま」


 気まずさを感じて立ち上がろうとしたスレインを、モニカがそう言って引き留める。結局、スレインは妻に促されるままに座り直す。巻き添えでイサークも逃げ損なう。


「……まったく」


 ため息をつきながら、ワルターが呟いた。


「お前は我がアドラスヘルム男爵家の継嗣だろうに、どうして婚前交渉に手を染めてしまうのだ。貴族の子として生まれた自覚が……ああ、申し訳ございません。今の発言は、決して王妃殿下と国王陛下の過去のことを非難しているわけではなく」


「分かっています。気にせず続けてください、お父様」


「僕が言うのもなんだけど、気持ちは分かるよ、ワルター」


 モニカが今は王妃ではなく娘としてそう言い、スレインも気に障っていないことを示すように穏やかに頷く。ワルターの今の気持ちは、スレインも多少なりとも想像できる。


「……それで、お前はどうなのだ、ヴィンフリート。ケルシーに手切れ金を支払って関係を終わりにするか? それとも彼女を娶る気があるのか?」


「彼女を妻としたいと考えています」


 ヴィンフリートは分かりやすく緊張した面持ちで答えた。その明言を聞いて、ケルシーが頬を赤く染めながら彼の――ヴィンくんの横顔に見入る。

 そんな様を前に、ワルターはさっきより大きなため息を零し、また口を開く。


「確かに、ケルシーが賢く優秀なのは認めよう。伯爵家や侯爵家ならばともかく、男爵家の夫人であれば、少し教育を受ければ務まるだろう。しかしだな、貴族の結婚とはただ男女が結ばれるだけのことではない。家同士の新たな繋がりを築くためのものでもある。それに、今は王家の文官とはいえ、元小作農の娘を妻にするというのは、体面を考えても……」


「ですがお父様。他の家との繋がりという点では、私がお兄様の分も補って余りあるほどの働きを示したと思いますよ?」


 父が兄に向ける説教を、モニカが遮る。ワルターはモニカに視線を移し、何か言い返そうとしたが、結局反論は出なかった。

 王家の姻戚。一男爵家にとって、これ以上の繋がりなどどう考えても必要ない。今更ヴィンフリートが無理にどこかの貴族家と繋がりを作る必要はない。それはモニカの言う通りだった。


「……格の問題も、僕がケルシーに名誉騎士の称号を与えればある程度は解決できるね。元々、近いうちにそうするつもりだったし。ケルシーはそれに見合う働きを示したから」


 名誉騎士は、王国社会に大きな貢献を示した平民――例えば官僚や、豪商や豪農、高名な職人、医者や学者など――に与えられる称号。その名の通り、王国軍や近衛兵団における騎士資格と同等の価値を持つ。現在の国内では、例えばベンヤミンなどが持っている。

 ケルシーがこの名誉騎士号を得れば、一般的な平民よりも一段上の立場となるため、貴族の最下級である男爵とも一応はつり合いがとれる。


「とは言っても、これはアドラスヘルム男爵家の問題だからね。僕は口を出さないから、最終的なことは当主のワルターが決めてほしい」


「私も、王妃ではなく娘として、お父様のご決定を尊重し従います」


「……」


 ワルターは目を伏せ、しばし黙り込んで考える。

 彼が顔を上げてヴィンフリートを見ると、ヴィンフリートはごくりと唾をのんだ。


「このような勝手をするのだ。ケルシーと二人、アドラスヘルム男爵家をしっかりと守り発展させることで、お前の決断が気の迷いによる過ちではなかったと証明しろ。家に帰ったら、カーヤにも息子であるお前の口から説明しろ。分かったな?」


「……はい。感謝いたします。父上」


 喜色を隠しきれない弾んだ声で、ヴィンフリートは答えた。


・・・・・・・


 予想外の展開となった会議が終わった後、スレインとモニカは執務室に戻るために廊下を歩いていた。


「まさか、ケルシーが僕たちの義理の姉になるとはね。思ってもみなかったよ」


 スレインが笑いながら言うと、モニカもクスッと笑みを零して頷く。


「ですが、兄が愛する女性と一緒になることができて良かったです……それに、あんなに可愛い年下の義姉ができるのも、嬉しいです」


 ケルシーが文官として取り立てられたばかりの頃、慣れない王城での仕事の日々に彼女が参ってしまわないよう、モニカは時おり彼女をお茶に誘っていた。ケルシーが仕事に慣れてからも、二人の交流は続いていた。

 それもあって、モニカはケルシーと仲が良い。


「そうだね。僕も、ヴィンフリートとケルシーが幸せなら、主君としても義理の弟としても嬉しいよ……それにしても、ワルターは意外とあっさり二人の結婚を認めたね」


「父と母の馴れ初めの件もありますから、息子である兄にもあまり強くは言えなかったのだと思います」


「あはは、そういえばそんな話もあったね」


 若い頃は王国貴族社会でも随一の美青年として知られたワルターは、領主貴族家の令嬢――今はモニカとヴィンフリートの母であるカーヤに社交の場で一目惚れし、相手が王都に来る度に逢瀬を重ねたという。

 結局、その関係は親たちの知るところとなり、当時のアドラスヘルム家当主であるモニカの祖母は我が子の勝手な恋愛に激怒したものの、相手方の親がワルターの度胸を面白がって結婚を認めたため、二人の恋は成就した。

 そんな過去のあるワルターが、身分違いである点はともかく親に黙って異性と恋愛関係になったことについて、ヴィンフリートをあまり強く叱れないのも当然と言えば当然だった。


「ですから、うちの母も兄の選択に難色を示すことはないでしょう。母もケルシーとは何度か会っていて、彼女を可愛がっているようなので、むしろ娘が増えて喜ぶかもしれません……これで、アドラスヘルム男爵家もひとまず安泰です」


 既に二十代後半となっていた兄の伴侶が無事に決まり、モニカはほっとした表情で言った。

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