五章 盟約
第138話 時代の区切り①
西部統一暦四九六年から四九八年までの三年間、大陸西部は危機を見た。ガレド大帝国によるハーゼンヴェリア王国侵攻という危機、そしてヴァイセンベルク王国の暴走という危機を目の当たりにした。
四九九年から翌五〇〇年の前半にかけて、大陸西部は変革を見た。西サレスタキア同盟の結成という新たな時代の幕開けを目の当たりにした。
そして、五〇〇年の後半から五〇二年にかけて、大陸西部は平穏を見た。戦いはなく、混乱はなく、大陸西部の諸国は日々を着実に積み重ねることで、新たな時代を歩み、作り上げていた。
大陸西部の一員であるハーゼンヴェリア王国もそうだった。スレインたちは三年弱に及ぶ平和を見た。これが幾度もの波乱を乗り越えた対価なのか、これから訪れる嵐の前の静けさなのか、この時はまだ誰も知らない。
年が明け、統一暦五〇三年、ハーゼンヴェリア王国暦では八十四年の初頭。王家が所有する保養地にて、スレインは家族の時間を過ごしていた。
「ちちうえ! みてください! とり! おおきい!」
「本当だね。大きくて綺麗な白鳥だ」
温泉地である保養地は冬の間も比較的暖かく、白鳥がよく集まる。別荘からほど近い湖のほとりで、スレインは長男である王太子ミカエルに手を引かれながら優美な白鳥の傍まで歩く。
「すごぉい! とり! かわいい!」
「ほら、あまり近づいたら駄目だよ? 噛まれるかもしれない」
四歳になったミカエルは、起きている間中、元気と好奇心が溢れ続ける年頃。今にも白鳥に抱き着きにいってしまいそうな彼を、スレインは苦笑しながら制止する。
「ふあぁ……」
「あらあら、ソフィアは白鳥が少し怖いみたいね」
スレインとミカエルの後ろを歩きながら、モニカが抱きかかえているのは第二子である王女ソフィアだった。現在二歳の彼女は兄とは打って変わって大人しい性格で、寒くないようにともこもこに厚着させられた姿で、白鳥から目を逸らして母親にしがみつく。
「モニカ、寒くない?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
現在、モニカの腹の中にはスレインとの第三子が宿っている。まだ腹部の膨らみはほとんど見られないが妊娠中である妻をスレインが気遣うと、彼女は穏やかに笑ってそう答えた。
「ちちうえ、おへや、かえろ……?」
屋外の冷えた空気が嫌だったのか、あるいは白鳥が怖いのか、ソフィアが不安げな表情でスレインに言う。娘の言葉に、スレインも頷く。
「そうだね。そろそろ昼食の時間だし、別荘に帰ろうか……ミカエル。行くよ」
「はい、ちちうえ!」
スレインが呼ぶと、ミカエルは元気よく答え、家族の先頭に立って別荘への道を歩き出す。ほんの数十メートルの道のりを帰るその道中も、ミカエルの興味はあちこちへ向けられ、それに伴って足もふらふらと道を外れる。
冬の快晴に照らされた草木。澄んだ空気の中を舞う鳥たち。冬の間も冬眠しない種類の小動物たち。さらには、無害な種族であるために放置されている魔物なども見られる。王都近辺とは随分と違う景色や植生は、幼児の好奇心を大いにくすぐるようだった。
ミカエルが別荘へ戻る道から外れ過ぎないよう使用人たちが見守り、急に駆け出していった彼を追いかける様を眺めながら、スレインはモニカに寄り添って歩く。
「年を重ねるごとにわんぱくになっていくね。父親と母親、どっちに似たのかな」
「あら、私に似たと仰りたいんですか?」
何気なく呟くと、モニカはクスッと笑いながらそう尋ねてくる。
「いや、そういうわけじゃないけど……少なくとも、僕はもう少し大人しい子供だったかな。エルヴィンに誘われれば外で遊んだけど、普段は家で母さんから本を読んでもらうのが好きだった。あんなにやんちゃだった覚えはない……かな?」
「それでは、やっぱり私に似たのかもしれませんね。私はお転婆で、木登りや泥遊びが好きでしたから」
貴族令嬢がそんな遊び方を許されるわけはないので、モニカの言葉は明らかに冗談だとスレインにも分かった。しかしスレインは、幼い彼女が木に登って父ワルターや兄ヴィンフリートに叱られるあり得ない光景を想像し、思わず吹き出す。モニカも同じように、楽しげに笑う。
くだらない冗談で笑えるのんびりとしたひととき。家族で過ごす穏やかな日々。こんな日々が今年も続いてほしいと、スレインは願っている。
それと同時に、世界はそう甘くはないと、いつまた非常事態が起こってもおかしくないと、一国の君主として覚悟もしている。
・・・・・・・
春も近づいたある日。王城の執務室で、スレインとモニカは王国宰相セルゲイ・ノルデンフェルト侯爵と顔を合わせ、今年一年の国家運営について打ち合わせをしていた。
「――以上が、現時点で決まっている、国王陛下及び王妃殿下の今年の主なご予定となります」
「何というか、今年も平穏そのものだね。不意の予定が入らない限りは」
今年の計画が記された、余白の多い書類を眺めながら、スレインは苦笑した。
社会が平穏である限り、君主の予定はそう詰まっているものではない。
主要な領主貴族や、同盟国の代表者との会談。王領内の要所や国境地帯などの視察。国内外の行事や晩餐会への出席といった儀礼。そうした仕事が月に一、二件程度の間隔で並ぶ。定例の会談や視察などについては、まだ具体的な日程までは決まらず、おおよその時期だけが定められているものも多い。
王妃であるモニカは、スレインが王城に不在となる間の政務の代行や、賓客への応対などを主に務めることになる。
これらに加え、誰かの結婚や葬儀、代替わりがあれば即位の儀式などが、年に数件程度入ることになる。それ以外は、王族として日々の政務をこなす。
スレインとしては平和過ぎて未だに少し違和感を覚える部分もあるが、これこそが本来のハーゼンヴェリア王の在り方だった。
「陛下はご即位の前より、ハーゼンヴェリア王国の君主としては異例と言えるほどの波乱をご経験されました。今年も平穏が続けば、ようやく陛下は波乱と同じ年数の平穏をご経験されたことになります。一臣下としては、そうして陛下の御心が穏やかに保たれることを切に願います」
「あはは、ありがとう……まあ、きっと大丈夫だよ。フロレンツ皇子が幽閉……じゃなかったね、静養に入ってからは帝国もすっかり静かになったし、『同盟』も年々進展してる。国内の諸々の施策も順調そのものだ。不安要素はない」
この三年ほど、平穏に支えられながら多くのことが前進した。
西サレスタキア同盟は、その理念のもとにより現実的な枠組みへと成長を続けている。いざ戦争が起こった場合に備えて各同盟国の君主による話し合いが重ねられ、今では具体的な相互防衛の内容が概ね定まっている。
各国の将官や士官による、部隊運用の議論や訓練などもなされている。これまでは数百、せいぜい数千の軍勢による戦いを想定していた将官や士官たちは、有事に万単位の軍勢を効果的に動かすための指揮系統の構築や、命令伝達の手段確立を目指して奮闘している。
ハーゼンヴェリア王国自体の軍事面も、改革がなされた。現在のハーゼンヴェリア王国は、単独で長期の国境防衛戦闘を行う想定ではなく、同盟国の援軍が到着するまでの初動防衛を効果的に成す想定で防衛計画を立てている。
そのため、「同盟」発足前と比べて、ハーゼンヴェリア王国は初動対応に国力を集中的に注げるようになった。武器も、備蓄物資も、人員も、最初から惜しみなく投入できるようになった。初動防衛という一点で見れば、王国の防衛力は飛躍的に高まっている。
軍事以外の施策も、大きな前進があった。
王都の再開発は完成が見え、オルセン王国の王都エウフォリアまで繋がる石畳の街道も工事が完了。「同盟」の発足も好影響となり、狙い通り国家間の人やものの行き来が増えた。王都や街道沿いの各都市では、商業が以前より活発になってきている。
ジャガイモはより一層普及し、麦と並んで王領民の胃袋を支える主食のひとつと見なされ始めている。スレインの亡き父フレードリクが目指した王領の食料自給率の改善はついに達成され、今では王領のみならず貴族領でも栽培が年々広まっている。
甜菜から作り出された砂糖も、農務官僚ケルシーの活躍もあって順調に生産量が増えている。嗜好品としてさらに上質なものへと洗練され、生産も効率化が進んでいるハーゼンヴェリア王国産の砂糖は、新たな特産品として少しずつ評判が広まり始めている。
余談だが、御用商人ベンヤミンが調べたところ、甜菜の原産地である西端地域キルステン王国でも、ハーゼンヴェリア王国に先駆けて砂糖が少しずつ出回り始めているようだった。甜菜の有用性に気づいたのは自国だけではないらしいと、スレインはベンヤミンの報告を受けて知った。
今のところ、砂糖の生産工程は国家機密。おそらくキルステン王国でも同じ。ハーゼンヴェリア王国とキルステン王国が、砂糖の原料はともかく洗練された生産方法をいつまで秘匿できるかは、二国の努力次第と言える。
「セルゲイにも、なるべく楽に過ごしてもらわないとね」
「陛下よりいただくご配慮、感謝の念に堪えません」
生真面目な顔で頭を下げるセルゲイを見て、また少し瘦せたのではないだろうか、とスレインは思う。元より痩せた体躯の彼は、老いのせいか、スレインと出会ったばかりの頃よりもさらに細くなった。
彼は既に七十歳を超え、いつ隠居しても許される身。それでも、頭がはっきりしていて身体が動く限りは働きたいという彼自身の意思を考慮して、スレインは彼を最側近として置いている。
「それでは陛下。私はこれにて」
「分かった。ご苦労だったね」
立ち上がって一礼し、セルゲイはスレインとモニカの執務室を去る。
「陛下、少しご休憩なされますか? お茶を淹れましょうか?」
「そうだね。お願いしようか――」
スレインがモニカの言葉に答えようとした、そのとき。
どさり、と何かが倒れるような音が、部屋の外、廊下から聞こえた。
スレインとモニカ、そして副官パウリーナは顔を見合わせて一瞬黙り込み、ほぼ同時に、ハッとした表情で立ち上がる。
「宰相閣下!」
廊下の警護に就いている近衛兵の緊迫した声が聞こえる。パウリーナが素早く扉を開けて廊下に出る。彼女の後ろにスレインたちも続き――スレインが見たのは、壁にもたれるようにして倒れているセルゲイの姿だった。
「セルゲイ!」
王家に仕える医師を呼ぶためにパウリーナが走っていき、一方でスレインはセルゲイを呼びながら駆け寄る。
「……」
みぞおちの辺りを押さえているセルゲイは苦しげではあるが、少なくとも意識はあった。
応急措置についても知識がある近衛兵とモニカが、セルゲイを寝かせて楽な姿勢にさせる。
そうしているうちに、パウリーナの報告を受けた医師と数人の使用人が駆けてきて、セルゲイを担架に乗せて運んだ。
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