第135話 再び、二十二か国会談②

 その名を聞いた瞬間、スレインは思わず立ち上がった。円卓に並ぶ諸王も、全員が起立し、そして老人に一礼した。

 君主として一国を治める者たちが、揃ってそうせずにはいられなかった。


 ユーリ・ウォロトニコフ。ここに居並ぶ者で、その名を知らない者はいない。


 大陸西部の歴史における彼の登場は、二十二か国の建国前、動乱の時代まで遡る。

 ヴァロメア皇国末期から始まった大陸西部社会の破綻は、皇国の崩壊とともに決定的なものとなった。皇国貴族たちはそれぞれの家と所領の生き残りをかけて戦い、民はそれに翻弄された。土地は荒れ、殺し合いや飢えがごく身近なものとなった。

 自分の財産と命を奪われないために、力をもって他者の財産と命を奪う時代。そんな時代に生きながら、当時学者だったユーリはひとつの思想を作り出した。

 エインシオン教の教義のひとつ「汝の富を分かち合い、隣人の痛みを分かち合え」を柱とし、社会におけるあらゆる財産を、社会に属する全ての者が分かち合うことを理想とする思想。

 後に「共産主義」と呼ばれるようになったその思想を、ユーリは故郷の都市で説いた。不幸ばかりの時代に落胆していた人々は、その思想を救いと考えるようになった。

 やがて共産主義思想は隣の都市まで広まり、この二都市は周辺の貴族領とは一線を画す独自勢力となった。若くして著名な知識人であったユーリの、周辺貴族への人脈と、その政治力があってこその結果だった。


 そのまま、ユーリは人脈と政治力を存分に発揮し、動乱に疲れて共存の道を歩み始めた貴族たちの仲介役として立ち回るようになった。共産主義を信奉する二都市が、大陸西部のほぼ中央、交通の要所であることも、結果として有利に働いた。

 ヴァイセンベルク、オルセン、ルヴォニア、ギュンター、バルークルス、アルティア。そうした周辺国の成立に助力したユーリは、今度は彼らの助力を得て、共産主義を国是とする独立国を成立させた。独立の正統性を確保するため、彼らから共同でランツ公爵の位を授かった。

 ユーリは共産主義の理想を追求しながらも、その歩みは現実的なものだった。

 国名については、自称する「人民共和国」ではなく「公国」と呼ばれることを許容した。儀礼的な身分として、公爵位も受け入れた。

 社会における財産の共有は、私有財産の制限というかたちで一定の実現を成し、民による直接統治については、識字率が低すぎるために「民の代表者たちによる国家運営」という体制を採用し、国の治安維持については、思想を異にする者たち――傭兵の力を借りた。

 そして、ユーリはその後も大陸西部の政治の世界に関わり続けた。他の国々とは全く違う価値観を持つ国の指導者だからこそ、中立を保った存在として諸王から重宝され、様々な会談の場に呼ばれ、誕生したばかりの小国群の融和に努めた。その広く深い知識と特異な経験を買われ、助言を求められることさえあった。


 それらは、今より七十年も八十年も前の出来事。既に歴史の一幕となっているその話を、スレインは王太子時代にモニカとの授業で学んだ。

 四十年以上前に政治の世界を退き、齢は既に百を超えているユーリは、しかし未だ存命であるということはスレインも知っていた。しかし、その彼がこうして再び政治の表舞台に姿を現すとは、全く想像していなかった。

 反応を見るに、諸王もスレインと同じだったと分かる。

 今、スレインたちが感じているのは畏敬の念だった。

 現代の大陸西部の支配者たるスレインたちにとって、ユーリはまさに偉人。自分たちの国の、建国の父や母と直接顔を合わせ、言葉を交わした存在。自分たちの国の誕生をまさに目撃してきた歴史の生き証人。

 公的な身分の差など関係ない。偉大な先達に、敬意を表さないはずがなかった。


「……」


「諸卿、どうか座ってくれ。ウォロトニコフ殿のお話を拝聴しよう」


 ガブリエラの言葉を合図に、スレインたちは席につく。

 皆の視線の高さが、車椅子に座るユーリと揃ったところで、ユーリは再び円卓に視線を巡らせると口を開いた。


「……私は既に国家主席の任を退き、ランツ公爵の地位からも離れて久しい一平民の身。しかし、この場に限り、君主である皆様に、ただ人生の先達として語ることをお許しいただきたい」


 ユーリのその言葉に、反対を示す者はいなかった。


「もちろん構いません、ウォロトニコフ殿。どうかあなたのお言葉を、あなたのお考えのままに語ってもらいたい。そのためにあなたを招いたのですから」


 ガブリエラが代表して答え、それを受けてユーリは小さく頷き、また口を開く。


「この数年で大陸西部の社会が大きく揺れ動いていることは、政治の表舞台より去った身ながら、私も知っている。それ自体が悪いこととは思わぬ。永遠に変化しない社会などないのだから……だが、この変化が再び、大陸西部全体を巻き込む動乱へと繋がるのであれば、私はこの社会に生きる一人として、それを断じて許容できない」


 その眼光が、一層鋭くなる。人の目とは思えないほどの強さを見せる。


「若人たちよ。あなたたちは知らないだろう。今より八十余年前の、動乱の時代の空気を。あの時代、大陸西部に満ちていた絶望を」


 若人、と呼ばれても、誰も何も言わなかった。諸王のうち年配の者は六十代に入っているが、彼らでさえ、ユーリから見れば若人どころか子供も同然であることは明らかだった。


「あなたたちは見たことがあるか。骨と皮ばかりの死体が路上にいくつも並ぶ様を。その死体を食らうため、引きずって持ち帰ろうとする者たちを。飢えに耐え兼ね、子を一人殺して捌き、皆で食らう家族の姿を。まだ幼い兄弟が、小さな椀に一杯の麦粥を奪い合って殺し合う様を。

 あなたたちは見たことがあるか。都市が一つ、そこに暮らす者たちも、積み重ねてきた歴史も文化も全て一緒に、破壊し尽くされる様を。地平のその先まで届くほどの、何百もの怨嗟と断末魔の叫びを。

 あなたたちは見たことがあるか。伝統ある名家が一つ、滅ぼされる様を。貴族の一家全員が、彼らを慕う臣民たちの目の前で赤子に至るまで殺される様を。その屋敷も、家紋も、家系図も、肖像画も全てが焼かれ、家の存在そのものが歴史から消し去られる様を。

 私は見た。一度や二度ではない。そのような光景を幾度となく見た。そのような時代の中で、私は若い頃を生きた」


 しわがれた声には、この部屋の空気そのものを圧するような静かな迫力があった。

 動乱の時代。二百万に届こうとしていたという大陸西部の人口が、百万を切るほどに減少した時代。それがいかに厳しいものであったかは、もちろん君主たちも知識としては知っている。

 しかし、書物に文字として記された言葉と、当時を実際に見た者が声に出して語る言葉には、天と地ほどの差があった。


「……あなたたちは見たことがあるか。夫の目の前で、何十人もの暴漢によって死ぬまで犯される妻を。父親の目の前で、面白半分に切り刻まれて殺される息子を。己の愛する者がそのようにして死ぬ様を想像したことのある者はいるか。私は見た。想像ではなく現実だった。幼馴染として共に育った妻と、生まれたばかりの息子は、実際にそのようにして死んだ。私がまだ十代の頃だった。八十年以上が経っても、あの光景は鮮明に憶えている。今でも夢に見る。最期の日まで忘れることはないだろう」


 何人かが息を呑む音が聞こえた。

 ユーリ・ウォロトニコフは偉大な政治家や学者として知られているが、私人としての彼は謎に包まれている。彼には伴侶も子もおらず、彼の生い立ちについては公的な記録は皆無。彼の過去が、このような公の場で語られるのは初めてのことだった。

 彼にそのような凄惨な過去があるとは、誰も知らなかった。

 彼は今、心から流血しながら語っている。スレインはそう感じた。


「動乱の時代は、地獄そのものだった。地獄であることが当たり前だった。地獄を地獄とも思わない時代だった……二度と、大陸西部があのような時代に戻ることがあってはならない。私はそう考えている。そう考えたからこそ、私は共産主義とランツ人民共和国を作り出した。共に地獄を生き抜き、志を同じくした者たち――あの時代を共に生き延びた、我が同志たちと共に」


 ユーリはそこで言葉を切り、しばらく目を伏せる。

 そしてまた目を開く。彼の視線に刺されたのは、スレインだった。


「ハーゼンヴェリア王スレイン殿。あなたはガブリエラ・オルセン殿と並び、『同盟』の実現のために力を注いでいると聞いている……あなたは何を思って『同盟』の実現を目指す? 何を思ってこの大陸西部に変化を起こす?」


 見据えられたスレインは、ユーリの視線の圧力に押し潰されそうな感覚を覚えながら口を開く。

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