第133話 家族の安息
十二月。スレインはモニカと、長男ミカエルと共に、城館の居間で休日を過ごしていた。
「へーか」
「はーい、お父さんだよ」
舌足らずな口調で呼んでくるミカエルを抱き上げながら、スレインは微笑む。
間もなく一歳になるミカエルは、こうして時おり簡単な言葉を発するようになった。
「ミカエル、お母さんのことも呼んで頂戴?」
「ママ、マーマ」
「ふふふ、よくできました」
スレインと並んでソファに座っているモニカは、慈愛に満ちた笑みを浮かべながらミカエルの頭を優しく撫でる。
「……いいなぁ。その呼ばれ方」
「あら、『陛下』という呼ばれ方も素敵だと思いますよ? 母には親しみを、父には尊敬を。王族の男児として理想的ではないですか?」
冗談めかして言うモニカに、スレインは苦笑を返した。
「この子がそこまで考えて言ってるならいいけどね」
ミカエルは齢一にも満たない現時点で、自分の父を「陛下」と呼んでいる。
周囲のほぼ全員がスレインをそう呼んでいるため、ミカエルがそれを見て覚えて真似をするのは仕方のないことではあるが、呼ばれるスレインとしてはどうにも寂しさを覚える。
幼いうちは、我が子にはもっと自分に甘えてほしい。なのでスレインは、ミカエルがもう少し大きくなったら「父上」という言葉を教えようと心に決めている。
「~~」
と、ミカエルは何やら言葉とも鼻歌ともつかない声を発しながら、スレインの膝の上からのっしのっしと降りる。スレインがそれを支えてやると、ソファから床の上に降り立ったミカエルは、つかまり立ちと四つん這いを使い分けて自由気ままに進んでいく。
居間の隣、書斎へと機嫌よさそうに入っていくミカエルを、お付きのメイドが慌てて追いかけていった。
一歳近くにもなると、子供の行動の幅は広がり、体力もつく。わんぱくな我が子の様子を前に、スレインとモニカは顔を見合わせて笑った。二人は今、何にも代えがたい幸福を共有していた。
「……本当に、ここまで元気に育ってくれてよかったです」
「そうだね。そろそろ一安心だ」
赤ん坊は弱い。ふとした怪我や体調不良で、そのままあっけなく死んでしまうことも多い。優秀な医者や高価な魔法薬に守られた王族の子は、一般的な平民の子よりは生き延びやすいとはいえ、それでも死ぬときは簡単に死ぬ。
身体が大きくなり、たくさん食べるようになり、医療や魔法を受け入れる土台となる体力がある程度備わる、その目安が一歳。ここを超えると、王族や貴族の子は目に見えて生き延びやすくなるとされている。
我が子が無事にこの区切りを迎えることに、スレインたちは心の底から安堵していた。
「ふわあ~」
スレインたちが話していると、お付きのメイドに抱きかかえられたミカエルが、あくびをしながら居間に戻ってくる。
「あらあら、ミカエルは眠くなったみたいですね……お昼寝させてあげて」
「かしこまりました、王妃殿下」
メイドはスレインとモニカに一礼し、ミカエルを抱えたまま退室する。寝かしつけるのを手伝うために、居間に控えていた別のメイドも後に続く。
「……いつものことながら、さすがは生まれながらの王太子だね。あの歳でもう使用人慣れしきってる。僕の王太子時代よりもよほど堂々としてるよ」
たくさんの使用人に世話を尽くされる生活を当たり前のものとしながら育ち、苦しゅうないと言わんばかりの表情でメイドに運ばれていったミカエルを見て、スレインはそう呟いた。
「私も男爵家とはいえ貴族家に生まれたので、使用人がいる生活しか知りませんが……全ての世話を実の親にしてもらう子供時代というのも、叶うのならば経験してみたかったです」
高貴な身分の人間は、忙しい立場にいることもあり、自身ではあまり我が子の世話をしないことが多い。
モニカは時おり自らミカエルに母乳をあげたりと、王妃という立場の割には子育てに携わった方だが、それでも実際の世話の多くは乳母やメイドたちが務めてきた。
王侯貴族の世界においては、実母から世話をされて育ったスレインの方が異例の存在だった。
「僕の生家も母さんと二人だけだったから、あまり一般的な平民家とは言えないけど……まあ、楽しかったよ。母さんは優しかったし。エルヴィンの一家とも、家族ぐるみで仲良くしてたし。今のミカエルみたいに快適で贅沢じゃなかったけど、幸せだった。気楽だったしね」
柵のついたベッドの中に座って母の仕事姿を眺めながら育ち、歩けるようになってからはエルヴィンや近所の子供たちと遊んだ幼少期を、スレインは思い出す。
そして、その記憶を昔ほど鮮明に思い出せないことに気づく。それは単に歳を重ねたからだけでなく、おそらくは国王になったからでもある。
自分の人生において、この数年はあまりにも濃く、重厚だった。これからもそんな日々が続き、その日々に上書きされて、王城に迎えられる前の記憶はもっと薄れていくのだろう。
「……平民だった頃に、戻りたいと思うこともありますか?」
尋ねられてスレインが振り向くと、モニカは少し寂しげな表情でこちらを見ていた。
「いや、ないよ」
スレインは迷うことなく答えた。
「平民だった頃の記憶はなるべく忘れたくはないけど、僕にとってはあくまで昔の思い出だよ。今の僕には、今の幸福がある。モニカとミカエルがいて、守るべきものがある。僕にとってはかけがえのない幸福だ。僕は国王で、君の夫で、ミカエルの父親だ。これが僕の人生だ。放り投げることも、置いて逃げ出すことも絶対にない」
それを聞いたモニカは、どこか安堵したように笑みを零し、しかしその顔には少しだけ寂しげな色を残したまま、スレインを抱き締めた。
「あなたが今の人生を、これからも幸福だと呼べるように、私もずっと支え続けます。愛しています。大好きです」
「……ありがとう。僕も愛してる」
どちらからともなく唇を重ね、そのまま二人で吐息を混ぜる。
しばらくして唇を離したモニカは――ぞくりとするほど艶やかな表情をしていた。
「そろそろ、二人目を作りませんか?」
スレインは一瞬だけきょとんとした表情になり、モニカが何の二人目のことを言っているのかすぐに理解する。
「モニカの身体には、負担じゃないかな?」
「もう出産から一年も経ちましたから、全く問題ありません。むしろ、これからまだ何人か子を産むのなら、あまり間を空け過ぎない方がいいと乳母たちにも言われています。なので、また二人の愛の結晶を作りましょう?」
熱い吐息を零しながら、モニカは言った。
読書好きのスレインが去年モニカに薦めた、あまり著名でない恋愛物語の本。その中に出てきた「愛の結晶」という表現を彼女はいたく気に入ったようで、こうして時おり使ってくる。
「分かった、作ろう…………え、今すぐに? 今夜じゃなくて?」
服の中に手を滑り込ませてきたモニカが今何を求めているかを察し、スレインは少し驚く。今はまだ夕方前で、外は明るい。
「今は冬です。休息の季節です。それに、ミカエルも丁度お昼寝中です……私たちも、ベッドに行ってもいいと思いますよ? だから、スレイン様」
行きましょう、と甘い声で囁かれ、スレインはそれを拒否する気にはなれず、モニカに手を引かれるがまま寝室へと移動した。
・・・・・・・
年が明け、ミカエルは無事に一歳の誕生日を超えた。
そして、モニカは二人目の子を身ごもった。今回は彼女が「身ごもった気がする」と自ら言ったことをきっかけに魔法で調べてもらい、つわりが始まるよりも早く懐妊が判明した。
「王妃殿下のご懐妊については、私も先日報告を受けました。陛下、誠におめでとうございます」
「ありがとう、セルゲイ」
一月の下旬。第二回目の二十二か国会談に向けた打ち合わせの席で、スレインはセルゲイとそう言葉を交わす。
「これで、僕の身に何かあっても、今まで以上に安心になったかな」
自分が死んでも国の安定が崩れないようにすることも、君主の重要な仕事。子が一人だけでは不安が残るが、言わば「予備」となる第二子までいれば、ある程度の安定が確保される。
自分が不意に死ぬことがあっても、少なくともハーゼンヴェリア王家の血脈を絶やす心配はあまりしなくて済む。
そう思いながらスレインが呟くと、セルゲイはすぐには言葉を返さなかった。
彼は少しの間、スレインを力強い目で見据え、そして口を開いた。
「国王陛下。これは個人的なお願いとなりますが……どうか、私より早く逝去されるようなことはなさらないでくださいませ。自分より若い主君が、自分より早く旅立たれる様は、もう見たくはありません」
その言葉は重かった。若い頃にスレインの曽祖父を、宰相の職に就いてからスレインの祖父を見送り、そして見送るはずではなかったスレインの父と異母弟まで見送った老臣の強い願いが、そこには込められていた。
「……分かった。すまない、軽率なことを言ったね」
セルゲイの心中を思い、スレインは素直に詫びる。
「いえ……それに、王国宰相としての立場からも、陛下にはできるだけ長く王位につき続けていただきたく存じます」
少ししんみりとしてしまった空気を変えるためか、セルゲイはいつもの声色で言う。
「歳を考えると、私はそう遠くないうちに死ぬでしょう。甥のイサークは優秀ですが、宰相を継いだ直後から私と同程度の働きを成せるとはさすがに思えません。そのようなとき、まだ幼いミカエル殿下が国王であらせられたら、畏れながらその治世に大きな不安が残ります。王国の安定を考えますと、名君であらせられる陛下に長く国をお治めいただきたく」
「あはは、それは尤もな話だ。就任して間もない宰相と、幼い国王の組み合わせなんて、とてもじゃないけど安心できないからね。まるで今のヴァイセンベルク王国みたいだ」
スレインも、あえて明るい口調で答えた。その冗談にセルゲイも口の端を僅かに歪める。
「だけど、あまり寂しいことを言わないでほしいな。僕はまだまだ未熟だ。できるだけ長く君に支えてもらいたいと思ってるんだから」
「私もできることならば、あと十年でも二十年でもお支えしたく存じますが……おそらく難しいでしょう。陛下もなかなか、老体の身に厳しいことを仰いますな」
極めて珍しく、セルゲイがユーモアを見せたので、スレインは小さく吹き出した。
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