第130話 歩み寄り

 平穏の中で各種の施策は順調に進展し、季節は秋に移った。

 よく晴れたある日の午後。スレインは、ハーゼンヴェリア王国と、隣国イグナトフ王国の国境地帯にいた。

 エルモライの丘、と呼ばれるその場所は、両国の係争地帯でもある。


「こんにちは、イグナトフ王。直接お会いするのは春の会談以来ですね」


「……そうだな、ハーゼンヴェリア王。息災で何よりだ」


 今までであれば年に一、二度ほど、両国による小競り合いがくり広げられる緩やかな丘の頂で、しかしこの秋は両国の王、スレインとオスヴァルドが対面していた。この丘に関する相互不可侵の条約を締結し、係争に一旦の区切りをつけるために。


「では、早速始めましょうか」


「……分かった」


 スレインが切り出すと、オスヴァルドは少しの間をおいて答える。

 地面の上に敷物が広げられ、テーブルと椅子が置かれた会談の場で、二人は席につく。


「それでは、読み上げさせていただきます」


 テーブルの傍らに立ち、今回結ばれる条約の条文を声に出して読み始めたのは、ハーゼンヴェリア王国の外務長官であるエレーナ・エステルグレーン伯爵。

 彼女の隣にはイグナトフ王国の外務長官も並んでおり、エレーナが条文の前半を、イグナトフ王国の外務長官が後半を読み上げる。

 それを、スレインは穏やかな表情で、オスヴァルドは複雑そうな面持ちで聞く。

 エルモライの丘が両家の係争地帯となったのは、両国が建国される以前、ヴァロメア皇国が崩壊して動乱の時代が始まったばかりの頃。

 元々はイグナトフ家の直轄地であったこの地は、しかし皇国末期からの社会の混乱の中で捨て置かれた。丘の麓にあった農村は凶作の影響を受けて放棄され、ほとんど無人の土地となった。

 そこを実効支配したのが、ハーゼンヴェリア家だった。

 廃村をそのまま占領して民を入植させたハーゼンヴェリア家の実効支配はおよそ三十年近くにわたったが、王国建国直後の僅かな混乱の隙を突かれ、こちらも建国直後のイグナトフ家に村を焼かれ、追い払われた。

 以来、両王家はこの丘を巡って定期的に争っている。ハーゼンヴェリア王家は直前まで実効支配していた立場として、イグナトフ王家は元々の支配者として、領有権を主張し合っている。

 ヴァロメア皇国の慣習法に倣えば、両王家の主張それぞれに一定の理がある。動乱の時代から各国建国の黎明期には、このような係争が至るところで無数にくり広げられ、その一部はこうして現代まで続いている。

 とはいえ、エルモライの丘については、特筆すべき要所というわけではない。廃村の農地は今や野に帰り、緩やかな丘とその周囲に草原が広がり、牧草地としては有用だが、だからといって国を挙げて勝ち取るほどの価値はない。

 それでも両王家が係争をくり広げているのは、言葉を飾らずに言えば面子のためだった。

 建国以前から先祖が手に入れようとしていた地を、ろくに抵抗もせず隣国に譲ったとなれば、その王家は弱腰と見られる。領主貴族たちから頼りなく思われ、周辺諸国から舐められるのは避けられない。

 だからこそ、両王家は君主の本心はともかく、表向きは明確に丘の領有権を主張して争い続けている。死者が出ることはほとんどない、もはや惰性の茶番というべきものだとしても、定期的に小勢を出し合い、丘で対峙して戦いをくり広げている。

 そこにひとまずの終止符を打とうと決断したのは、ハーゼンヴェリア王家の側だった。


「――以上が、エルモライの丘における相互不可侵と共同管理を定めた条約の内容となります」


 エルモライの丘は両国が共同で管理することとし、両国が同時に丘に入らせる兵士は、それぞれ十人までとする。両国の王がこの丘で対面し、会談を行う際は、従者と護衛はそれぞれ五十人までとする。

 兵士の駐留のために、両国の連絡所が並び合って建設される。両国の同意なしには、それ以外のいかなる建物の建設も禁止となる。

 共同管理のための兵士以外の者が丘に侵入することは禁止となる。

 どちらかが破棄を宣言するまで、条約は効力を保つ。

 そのような内容が定められた条文を、二人の外務長官が読み終えた。

 続いて進み出たのは、両国のエインシオン教の司教だった。


「それでは、両陛下。条約の内容に異議がない場合は、それぞれご署名をお願いいたします」


「その後、条約の順守について神への宣誓をお願いいたします」


 アルトゥール司教と、イグナトフ王国の司教の言葉を受けて、スレインとオスヴァルドはそれぞれの前に置かれた文書を見る。

 スレインが迷わず署名すると、数秒遅れてオスヴァルドも署名する。両国の外務長官が文書を入れ替え、スレインたちはもう一枚の文書にも署名する。

 条文が明記され、両国の王の署名がなされた文書が二枚、完成する。


「……イグナトフ王国は、第四代国王オスヴァルド・イグナトフの名において、エルモライの丘における相互不可侵と共同管理を定めた条約を順守することを唯一絶対の神に誓う」


「ハーゼンヴェリア王国は、第五代国王スレイン・ハーゼンヴェリアの名において、エルモライの丘における相互不可侵と共同管理を定めた条約を順守することを唯一絶対の神に誓います」


 聖職者の見守る前で神への宣誓がなされ、この瞬間より条約が発動した。

 アルトゥール司教たちは一礼してその場を離れ、エレーナたち外務長官も、文書を手に取って下がる。会談の場にはスレインとオスヴァルド、気配を殺して立つ両者の副官と直衛だけが残る。


「これでひと段落ですね。ありがとうございました、イグナトフ王」


「礼はエステルグレーン卿に言ってやれ。今回、一番の功労者はあの者だ」


 姿勢を少し崩し、椅子の背にどかりと身を預けながら、オスヴァルドは言った。


「あなたにそう評されたと知れば、彼女も喜ぶでしょう」


 オスヴァルドの言う通り、この条約締結において最も重要な働きを示したのがエレーナだった。

 盗賊討伐を経て、ザウアーラント要塞の後背を守るためにイグナトフ王国との歩み寄りを進めたいと考えたスレインから指示を受け、エレーナは外務長官として、エルモライの丘における係争に一区切りをつけるための実務を担った。

 相互不可侵と共同管理に関する条約の草案を作り、イグナトフ王国の外務長官と会談を重ね、両王家が極端な弱腰だと周囲から思われないよう、内容や文言について緻密な調整をなした。

 エレーナたちが官僚として力を尽くしてくれたからこそ、今日のこの場がある。


「イグナトフ王。この条約締結に悔いがありますか?」


「……どうだろうな。確かに、エルモライの丘を巡る戦いには、我が国の自立の精神を示す象徴以上の意味はなかった。だが、やはり……私の即位以前、いや建国以前から続く状況を変えてしまったことには、思うところがある」


 そう言って、オスヴァルドは嘆息した。


「ですが、いつかは区切りをつけなければならなかったのです。私としては、現状ではこれが両国にとって最善の選択であると思いますよ」


「最善か。そうであればいいのだがな」


「あるいは、決着を先送りにせず全面戦争でもしてみますか? 丘とその周囲の平原、半径一キロメートルもない土地を巡って」


 スレインがおどけて言うと、オスヴァルドは苦笑を零す。


「それも悪くないが、帝国という、より大きな脅威がすぐ隣にあるからな。貴国と戦って消耗している暇は我が国にはない。今のところは止めておこう」


「あはは、それは幸いです。我が国としても、帝国とイグナトフ王国を相手に二正面作戦を行うのは御免ですから」


 このように物騒な冗談を交わせるのも、これまで積み重ねた信用があるからこそだった。


「それに、区切りをつけたとはいえ、この条約はあくまで一時的な相互不可侵を誓うもの。言わば係争の解決を先送りにしただけのものです。なので私もあなたも、先祖に対して何らの裏切りもはたらいてはいません」


「……それは私に対する慰めのつもりか?」


「そう思われたのであれば、そういうことにします」


 顔をしかめるオスヴァルドに、スレインは涼しい顔を見せた。


「しかし、貴殿の言う通りこれは先送りだ。係争が解決したわけではない」


「ええ、何も解決していません。ですが、それは私たちの子孫が成してくれるでしょう。数十年後か、百年後か、あるいはもっと後に」


「……そのような考え方は好かんな。まるで、子孫に負債を押しつけるようだ」


 ますます渋い表情になるオスヴァルドを前に、スレインは顔を変えない。


「百年前、私たちの先祖は動乱の時代の中で殺し合っていました。ですが、今はそうではありません。もちろん国が違う以上、利害が一致せず対立することもありますが、少なくとも、殺し合っていた時代の憎しみは薄れて久しくなりました。ここからさらに数十年、百年が経った時代を想像してみてください。きっと今以上に、エルモライの丘への執着は薄れていますよ。そんな時代を生きる子孫たちなら、必ず私たちより上手く解決策を見つけてくれるはずです」


 スレインがそう語ると、オスヴァルドはしばらく黙り込み、そしてまた嘆息した。先ほどのため息よりも、深く長いものだった。


「そう言われると、確かにそうだと思えてくる……だが、気に食わんな」


「何か、ご不快にさせるようなことを言いましたか?」


「言った内容ではない。その言い方だ」


 オスヴァルドはスレインの口元を見ながら顎をしゃくる。


「穏やかな善人ぶった表情で、淡々と説く話し方。先代のハーゼンヴェリア王にそっくりだぞ。以前から似ているとは思っていたが、貴殿と顔を合わせる度にそれが増している。奴は立派な男だったが、その話し方は気に食わないとずっと思っていたのだぞ。何故そんなところが似る?」


「……そう言われましても、親子だから、でしょうか?」


 スレインが小さく首を傾げながら言うと、オスヴァルドは小さく鼻を鳴らす。


「親子か。会って話したこともないのに、こうも似るものか……おい、ニヤニヤと笑うな。貴殿を喜ばせるために言ったわけではないぞ」


「おっと、これは失礼しました」


 指摘されても、スレインのニヤけた笑みはすぐには直らなかった。


「まったく……おい、ハーゼンヴェリア王」


 呆れた表情で頭をかいたオスヴァルドが、真面目な顔になったのを受けて、スレインも笑みを引っ込める。


「建国以来の係争に区切りをつけるという面倒な歩み寄りをしてまで、貴殿は我が国を『同盟』に引き込みたいのか?」


 オスヴァルドはずばり「同盟」に言及してきた。条約締結の裏にあるスレインの目的に、彼が気づいていないはずはなかった。


「はい。あなたが現状の『同盟』を理想論じみた枠組みだと考えているのは分かっていますし、私もある部分ではその通りだと思います。それでも、大陸西部には『同盟』が必要だと私は考えています。私たちの子孫に、末永い安寧をもたらすために。そして、各国が歩み寄りを重ねれば、理想は単なる理想ではなくなり、『同盟』は現実に機能する枠組みになると私は信じています。大陸西部の各国は歩み寄ることができます。今回の我が国と貴国のように」


 オスヴァルドの刺すような視線から目をそらさず、スレインは答えた。


「子孫に末永い安寧をもたらす、か」


 腕を組みながら呟くオスヴァルドには、つい数か月前、初孫が生まれたという。その話を聞いたときは、スレインも隣国の王として祝いの品を贈った。


「……今日は無事に条約を締結できて何よりだ。共同管理の実務については、また互いの外交官を使って進めていこう。それではな」


 やや唐突に話を切り上げて立ち上がるオスヴァルドに、スレインは笑顔で頷く。


「はい。今日は良い日となりました。帰路もどうかお気をつけて」


 ここで「同盟」参加について何らかの明言をもらえるとは、スレインも思っていない。

 それでも新たな手ごたえは得られた。単にこれ以上不毛な係争に労力を割かなくてよくなったというだけでなく、オスヴァルドの心を一歩「同盟」派に引き寄せることができた。

 さらに言えば、イグナトフ王国との歩み寄りを成すことで、その他の国々に対してハーゼンヴェリア王国が「同盟」にかける覚悟を示すことも叶った。

 成果に満足しながら、スレインはパウリーナとヴィクトルを引き連れ、会談の場を去る。

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