四章 変革の時代

第112話 ミカエル

 王国暦七十九年の十二月中旬。今年も間もなく終わるというこの時期に、スレインは人生最大の緊張を抱えていた。

 領土を接する超大国との戦い。親戚である大貴族の謀反。大陸西部の未来の安寧をかけた戦い。それら全てで勝利を収めてきた英雄が、それらの戦いに臨んだ際よりも大きな緊張を覚えるほどの事態。

 それは、妻であるモニカの出産だった。

 彼女が産気づいたのは、今日の午後。その後、彼女はすぐに出産のための一室に運ばれ、王家直属の医師、王都で最も経験豊富な産婆、彼女の母であるアドラスヘルム男爵夫人など、必要な人員が集められた。

 そして、時刻は深夜。スレインはモニカが出産に臨む部屋の前で、自分と彼女の子が生まれるそのときを待っている。


「……」


 エインシオン教の教えでは、出産の場に男が立ち入ることは不吉だとされている。仮にそうでなくとも、スレインが部屋の中に入ったところで役立てることなどない。むしろ邪魔になる。

 なのでスレインは、女性たちが忙しく立ち働き、時おりモニカが苦しげな声を上げる室内の喧騒を前に、落ち着きなく待つことしかできなかった。


「……まだ、かかりそうだな」


 一人呟き、スレインは廊下を後にする。居間に戻り、ソファに腰を下ろす。

 深夜にもかかわらず起きてくれている使用人にお茶を差し出され、それを口にしながら、ため息を一つ吐く。


「何度戦争に勝とうと、どれだけ英雄扱いされようと、こういうときは無力だね。苦しそうなモニカに、僕は何もしてあげられない」


「恐れながら陛下、それは当然です」


「左様。女が子を産むとき、男は無力で邪魔なだけ。それは古の統一国家の時代から変わらぬ、この世の真理です」


 スレインの呟きに答えたのは、重臣であるセルゲイ・ノルデンフェルト侯爵とジークハルト・フォーゲル伯爵。

 セルゲイはハーゼンヴェリア王家の世継ぎが無事に生まれたと報を聞くまで眠れそうになく、ジークハルトは単にスレインを気遣って、主君の夜更かしに付き合ってくれている。


「御心配には及びません、陛下。王妃殿下には王国で最高の医師と産婆、優秀な使用人たちが付いています。お世継ぎは無事に誕生するでしょう」


 言ったのは、モニカの父であるワルター・アドラスヘルム男爵。とはいえ、愛娘の初の出産がさすがに心配らしく、その口調と表情はまるで自分に言い聞かせるようでもあった。


「ははは、アドラスヘルム卿は陛下に励ましの言葉をかけられる立場ではなさそうだな……ですが陛下、彼の言う通り心配はないでしょう。陛下はこれまで多くの苦難を乗り越えてこられた御方。その血を継ぐ御子ともなれば、必ずや無事にお産まれになるはずです」


 ジークハルトの言葉は気休めだったが、治癒魔法使いの医師や優秀な産婆が付いているのであれば、母子の命にほぼ心配がないのは事実。彼の力強い断言に、スレインは安堵を覚える。

 ちなみに、これと同じような内容の会話は、皆が集まった夕刻あたりから既に数回、くり広げられている。スレインと、ついでにワルターの気を落ち着かせるために。


「そうだね、そう信じるよ……モニカが頑張ってるんだ。僕も落ち着いて構えないと」


 こう言いながら、しばらくするとまた落ち着きなく心配を語りだすのだろう。自分でそう思いながら再びため息を吐き、スレインは黙り込む。


「いやしかし、懐かしいものです。我々も若い頃、初めて我が子の誕生を前にしたときは、ひどく緊張して不安になりましたなぁ」


「私にそういう話を振るな。私には子はいないぞ」


 ジークハルトに雑談を振られ、独身を貫きながら宰相の仕事一筋で生きてきたセルゲイが顔をしかめた。


「おっと、これは失敬。ではベーレンドルフ卿、卿はどうだった?」


「……確かに、私も長子の誕生を前にしたときは、ひどく落ち着かない様になりましたな。おそらく誰もが通る道でしょう」


 深夜の警護当番を部下の近衛兵と替わり、皆と一緒にスレインの夜更かしに付き合っているヴィクトル・ベーレンドルフ子爵が、そう答える。


「へえ、いつも冷静沈着なヴィクトルでもそうだったんだね」


「はい。ですが、二人目の子が産まれたときの緊張はさほどのものではありませんでした」


「……そうか。そういうものなのか」


「陛下、何事も二度目は慣れるものです。戦いと同じです」


 子の誕生と戦いを同列に並べて語るのはどうかと思いつつも、スレインはジークハルトの言葉にまた安堵を覚える。

 ハーゼンヴェリア王家のためにも、スレインとモニカは今後さらに数人の子を作るつもりでいる。スレインとしては、毎回このように無力感や緊張を覚えていては辛い。次からはこれほどの思いをしなくて済むというのはありがたい話だった。それが果たして良いことなのかは別として。

 と、そのとき。


「っ!」


 かすかに産声が聴こえた気がした。スレインは目を見開き、立ち上がる。


「陛下。医師や産婆に許可されるまでは、部屋に立ち入ってはなりません」


「わ、分かった……とりあえず、部屋の前まで行ってくる」


 セルゲイの注意を心に留め、スレインは居間を出た。

 少し震える足で廊下を進み、モニカたちのいる部屋の前にたどり着き、そこで待つ。

 部屋の中からはやはり産声と、女性たちが忙しく働く声が聞こえてくる。

 元気な泣き声からして、赤ん坊は無事なのだろう。モニカはどうか。

 胸を押さえ、痛いほどに高鳴る鼓動をこらえていると、やがて扉が開かれる。

 出てきたのは副官のパウリーナだった。おそらくはスレインを呼びに出ようとしたのであろう彼女は、扉のすぐ前にいたスレインを見て少し驚いた表情を見せ、すぐに口元をほころばせる。


「国王陛下、ご安心ください。王妃殿下も御子様もご無事です。中へどうぞ」


「……」


 我が子との対面を前に緊張で声を詰まらせ、パウリーナに対して無言で頷いたのみで、スレインは部屋に入る。

 国王の入室を認め、皆が一礼する。


「おめでとうございます、国王陛下。元気な男の御子様ですよ」


 老齢の産婆が笑顔で言い、ベッドの方を手で示した。

 スレインがそちらを見ると、そこにはモニカと、清潔な布に包まれて彼女に抱かれた小さな赤ん坊がいた。

 スレインはゆっくりと、モニカのもとに歩み寄る。


「……陛下」


 モニカがスレインを見る。額には汗が浮かび、表情は疲れきっていて、しかし彼女は笑顔を浮かべていた。その目元からは涙が零れている。

 スレインも同じ表情になりながら、彼女の隣に座り込む。

 そして、彼女に抱かれた赤ん坊の顔を見る。


「……これが、僕たちの」


「はい、私たち二人の子です。スレイン様」


 スレインが囁くように呟くと、モニカも小さな声で答える。

 この赤ん坊が、自分とモニカの血を継いでいる。自分とモニカの愛の結晶だ。

 スレインの心の中に、言いようのない幸福感が満ちる。


「ありがとう、モニカ」


 スレインはそう言ってモニカの頬をそっと撫でた。汗で濡れた彼女の額に口づけした。


「愛してる。君も、この子も。心から愛してる。僕が必ず君たちを守る。これからずっと」


「……私も愛しています。これからずっと、あなたを支えて、あなたと一緒にこの子を守ります」


 二人で言葉を交わし、笑みを交わし、スレインはもう一度彼女に口づけをして立ち上がる。

 モニカは疲れている。今は彼女にゆっくり休んでほしかった。


・・・・・・・


 赤ん坊の誕生からおよそ一週間後。モニカの体調が落ち着いた頃に、スレインは謁見の間で彼女と並び、法衣貴族たちと赤ん坊を対面させた。

 今まで直系の王族はスレイン一人しかいなかったため、彼らにとっては主君の世継ぎとなる待望の子。臣下たちはそれぞれ感動を示し、常に厳しい顔をしているセルゲイでさえも、感無量の表情で赤ん坊に深々と頭を下げていた。


「それでは国王陛下。畏れながら、お世継ぎとなる御子様に陛下が授けられる御名を伺いたく存じます」


 臣下たちの感動が落ち着いた頃、セルゲイが尋ねた。

 皆の注目が集まる中で、スレインは頷き、口を開く。


「この子の名前は……ミカエル。ミカエル・ハーゼンヴェリアだ」


 スレインの言葉を聞いた臣下たちの、息を呑む音が聞こえた。セルゲイを見ると、彼は目を大きく見開いていた。

 ミカエルは、フレードリクと共に火事で死去した前王太子、スレインにとっては一度も会ったことのない異母弟の名前だった。


「……陛下。ご命名の、理由を伺っても?」


「もちろんだよ」


 スレインは答え、臣下たちを見回す。


「僕の父で、先代国王だったフレードリク。その名前は第四代国王として、この国の歴史に残る。だけど父の継嗣で、僕の弟にあたるミカエルは、王太子として生まれ育ちながら即位することが叶わなかった。王として名を刻むことも、歴史に功績を刻むこともできなかった。だから、」


 顔も知らない兄弟を思いながら、スレインは語る。


「せめて彼の名だけでも、この子に継がせることで、王国の歴史に残したい。僕がこの子を守り育て、この子にハーゼンヴェリア王国を受け継がせることで。そう思ったんだ……君たちがかつて、臣下として弟を支えたように、この子も支えてあげてほしい。この子の成長を見守って、教え導いてほしい」


 スレインが語り終えても、臣下たちはしばらく押し黙っていた。

 静かに目を瞑る者。穏やかで懐かしげな笑みを浮かべる者。涙を流す者。反応は様々だった。

 彼らが共有しているのは、スレインの知らない弟との記憶。スレインがこの王城に迎えられる前の思い出。今この時間にスレインが立ち入ることはできないし、立ち入るつもりもなかった。

 やがて、セルゲイが伏せていた顔を上げ、スレインを見据え、口を開く。


「かつてフレードリク陛下とミカエル殿下に仕えた身として、全ての臣下を代表し、国王陛下の御意思に御礼申し上げます……我々は必ずや、命に代えても、陛下と御子様をお支えいたします」


 セルゲイは片膝をついて最敬礼を示し、居並ぶ臣下全員がそれに倣った。


「ありがとう。君たちの忠節と覚悟、今あらためて受け取った。これからこの子を守り育て、ハーゼンヴェリア王家を再建していこう。今は亡き王族たちを忘れることなく、前を向いて、王家と王国の未来を築いていこう。皆で一緒に」


 そう答えて、スレインは慈悲深い笑みを浮かべる。

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