第108話 覇王の最期

 ヴァイセンベルク王国によるオルセン王国侵攻軍の退却戦は、悲惨な有様となっていた。負傷者を含めて九千近い軍勢の、追撃を受けながらの退却。秩序立ったものになるはずもなかった。

 退却開始前。まず、自分の足で歩けない負傷者は全員が置き去りにされることが決まった。

 そして退却開始の日。侵攻軍の大将を自ら務めるヴォルフガングは、最初に最も信頼のおける兵士たちの多くを失った。王国軍の精鋭三百が陣に残り、主君をできるだけ遠くへ逃がすために最後の一兵まで戦い続け、全滅した。

 その翌々日。敵の追撃部隊に追いつかれたヴォルフガングたちは、極めて無様な退却を演じる羽目になった。追撃してくる敵部隊を、間に合わせの隊列を組んで迎え撃ち、乱戦に持ち込み、最前衛の兵士たちがまだ戦っているのを見捨てて退却を急ぎ、なんとか追撃をしのいだ。

 そのさらに翌々日には、本国からの補給が途絶えた。兵士たちに食料さえ配れないとなれば、もはや軍の秩序など維持できなかった。

 忠誠心の高い一部の正規軍人と、プロ意識の高い一部の傭兵。それら数百人がヴォルフガングの傍に残り、残りは好き勝手に逃げた。侵攻軍は完全に瓦解し、数人、数十人、数百人ずつの小さな軍勢に分かれた。

 敵の追撃部隊がヴォルフガングのいる部隊を見失ったことで、すぐに捕まることこそなかったものの、戦力をできるだけ維持しながらゴルトシュタットに戻り、王都を奪還するなどという作戦は夢のまた夢となった。

 ヴォルフガングの一行は、壊走の道中にある村や小都市――いずれも本来はヴォルフガングが王として庇護すべき民の暮らす場所だ――を襲って食料を略奪し、それでも食料が足りずに腹を空かせ、逃げ続けた。

 分散してヴォルフガングを捜索する敵の追撃部隊と接触するたび、ずば抜けて国王に忠実な貴族や騎士たちが、王家の旗を抱えて囮を務めてくれた。おかげで、その後もヴォルフガングはかろうじて敵に捕まることなく逃げ続けた。

 とはいえ、それも悪あがきの時間稼ぎにしかならない。逃げる過程で軍勢はさらに散り散りになり、継嗣であるモーリッツとも途中ではぐれた。

 惨めな壊走の果てに、ようやくゴルトシュタットを遠くに認め、しかしそこに掲げられているのはハーゼンヴェリア王国をはじめとした敵国の旗。自身を囲む僅か五十人ほどの、疲れ切った手勢では、王都奪還など叶うはずもない。


「……陛下」


 遠く前方にはゴルトシュタット。そして遠く後方には、敵の追撃部隊がおよそ千。絶望的な状況で、ヴォルフガングは未だ自分に付き従う騎士に呼ばれた。

 次はどうすればいいのか。騎士の顔はそう言っていた。


「……ふっ、これまでだな」


 笑みを浮かべながら、ヴォルフガングは言った。

 自分の命運は尽きた。事ここに至っては、そう認めるしかなかった。

 言い訳のしようもないほど、完膚なきまでに自分は敗けた。政略、戦略、戦術。全てにおいて、ガブリエラ・オルセン女王やスレイン・ハーゼンヴェリア国王の方が上手だった。

 自分の野望は潰えたのだ。


「お前たち、よくぞここまで付いてきた。これより全員の任を解く……故郷に帰るなり、遠くへ逃げるなり、敵に投降するなり好きに動け」


 そう言って、ヴォルフガングは自身を囲む騎士や兵士たちの前に、金貨と大銀貨の詰まった袋を投げ捨てる。袋には、分け合えば全員が数か月暮らせる程度の額が入っている。


「陛下はいかがなされるのですか?」


「投降か、死ぬまで戦うかだが……敵の手に身を預けるなど俺の性分ではない。せいぜい派手に玉砕するとしよう」


 野望を実現することはもはや叶わない。しかし、たとえ途絶えている覇道だとしても、最後までその道を進めばそれすなわち覇王である。

 ヴォルフガングはそう考えた。覇道の道半ばで散った王として歴史に名を残すことを選んだ。

 後方へ馬を向け、いくらか前進し、敵を見据える。迫る千の軍勢は、どうやら追撃部隊の本隊であったらしい。そこにはオルセン王家の旗が見えた。

 ヴォルフガングは不敵に笑う。相手がガブリエラのいる本隊となれば、玉砕のし甲斐もある。あまりにも遅すぎるが、今更になって運は自分の方を向いたらしい。

 と、ふと気配を覚えて後ろを振り返ると、ここまで付き従った五十人ほど、その全員が並んでいた。武器を構えて。


「陛下。我々も最後までお供いたします」


 五十人の中では最上位である、近衛兵団の副団長が言う。

 それを受けて、ヴォルフガングは楽しげな表情を見せた。


「大馬鹿者どもが。だが、貴様らと戦えたことを誇りに思おう」


 そう語り、再び前を向く。


「……戦乱の時代に生まれたかったものだな」


 最後に呟いて、ヴォルフガングは付き従う五十余人と共に突撃を開始した。


・・・・・・・


 オルセン王国による追撃部隊の本隊は、敵の小部隊による玉砕的な突撃を受け、その戦闘の後処理のためにゴルトシュタット近郊に簡易の陣を置いていた。


「国王陛下、報告いたします。味方の損害は軽微。敵兵およそ五十は全滅いたしました……その一人は、やはりヴォルフガング・ヴァイセンベルク国王であったようです。捕虜の貴族に遺体を確認させたところ、間違いないとのことでした」


「……そうか、報告ご苦労」


 報告役の騎士を本陣から下がらせたガブリエラは、周囲に聞こえないよう小さく嘆息した。


「暴れるだけ暴れて玉砕とは。最後まで好き勝手にやってくれたものだな」


「全くです、陛下」


 愚痴じみたガブリエラの呟きに、傍らのロアールが律義に答える。

 損害が軽微だったということはつまり、軽微とはいえ損害を負ったということ。こちらの意表を突いた突撃だったとはいえ、五十の兵力で千の部隊に損害を与えるとは尋常でない。

 玉砕した当人はさぞ気持ちよかっただろうが、勝利が揺るぎないものとなった段になって無用な損害を被った側としてはいい迷惑だった。


「失礼します、国王陛下」


「今度は何だ」


 新たにガブリエラのもとにやってきた騎士が、敬礼して口を開く。


「別動隊がモーリッツ・ヴァイセンベルク王太子を発見し、連行してきました」


 それを聞いたガブリエラは小さく目を見開き、そしてまた小さく息を吐いた。これはため息ではなく、安堵の息だった。


「陛下。よろしければ、モーリッツ王太子への対応は私が務めますが」


 ロアールがそう進言する。

 いくら強い女王として振舞っていても、限界はある。慣れない大規模戦闘からの追撃戦で明らかに疲弊しているガブリエラを、側近として気遣うが故の進言だった。


「……分かった。お前に全面的に任せる」


「御意」


 短く答えたロアールは、本陣を離れる。


・・・・・・・


 モーリッツ・ヴァイセンベルクが拘束されているのは、陣の端に置かれた天幕だった。

 伝令に来た騎士と、自身の直属である王国軍兵士数人を伴って天幕にやって来たロアールは、まず天幕を見張っている兵士たちに命じる。


「ご苦労だった。ここは私が引き継ぐ。お前たちは自分の隊に戻れ」


「……はっ」


 見張りの兵士たちは、将軍であるロアールに逆らうこともなく、天幕を離れる。

 それを確認した後に天幕に入ったロアールは、まず怪訝な顔になる。

 モーリッツは猿轡をされ、後ろ手に縛られ、足まで縄でしっかりと縛られた上で天幕の床に転がされていた。


「貴人を拘束した場合は、礼を失するなと命令していたはずだが」


「それが……酷く暴れられ、兵士の武器を奪おうとされたため、止むを得ず拘束いたしました」


 困り顔で答えた伝令役の騎士に、ロアールは頷く。


「そういうことであれば致し方あるまい。案内ご苦労だった。お前も戻ってよい」


「はっ!」


 騎士は敬礼し、天幕を出ていく。

 ロアールは後ろに控える直属の兵士たち――ノールヘイム侯爵家の縁戚であり、絶対的に自身の命令を聞く兵士たちを向く。


「外に出ていろ。天幕に近づく者がいないよう見張れ」


 兵士たちは一斉に敬礼し、天幕を出る。

 ロアールはモーリッツの前にしゃがみ、彼の猿轡を解いてやる。すると、モーリッツは一度大きく息を吸い、口を開いた。


「お、お前ら! 俺をだ、誰だと思ってるんだ! 俺はヴァイセンベルク王国の王太子だぞ! こんなことをして、ど、どうなるか分かってるのか!?」


 威勢よく叫びながらも、モーリッツの顔には明らかな怯えの色が浮かんでいた。

 髭は伸び、髪は脂でべたつき、頬は少しこけ、目の下には隈がある。大陸西部で最大の権勢を誇っていた国の王太子らしい威厳は、もう微塵もない。


「失礼いたしました。モーリッツ・ヴァイセンベルク王太子殿下。止むを得ず拘束させていただきましたが、殿下がこちらに協力的な態度をとっていただけるのであれば、すぐに拘束を解かせていただきます。その後、捕虜として丁重に扱うことをお約束いたします」


「わ、分かった協力する。だから早くこの縄を解け! 飯を食わせろ! 風呂にも入らせろ!」


 縛られて転がされた状態でも、その尊大な態度は平時と変わらなかった。


「かしこまりました。ですが、拘束を解かせていただく前にもう一点、お尋ねすべきことがございます。我が主君ガブリエラ・オルセン女王陛下より、お尋ねするよう仰せつかっていることが」


「くそっ、一体何なんだ!? 早く聞け!」


 煩わしそうな表情で喚くモーリッツに、ロアールは冷淡な視線を向けた。


「では……この戦争は、ヴァイセンベルク王国の敗北に終わりました。貴国の侵攻軍は大敗し、ヴォルフガング・ヴァイセンベルク国王陛下は戦死いたしました」


「待て! 父上が死んだ!? 本当に死んだのか!?」


 当然ながら初耳であったらしく、モーリッツは驚愕の声を上げる。


「はっ。ヴァイセンベルク国王陛下は勇敢にも我が軍に向けて突撃を敢行し、玉砕されました。武人として見事な最期でした……話を戻させていただきます。現状、ヴァイセンベルク王国の敗北は揺るぎないものとなりました。つきましては、王太子殿下にはご自身の今後の処遇について、ご自身でお選びいただくよう願います。次期王位をファツィオ第二王子殿下に譲り、隠居……実質的には幽閉になりましょうが、そうしていただくか。あるいは誇りある自害をお選びいただくか。どちらかを」


「ど、どうして俺が幽閉されなければならんのだ! この若さで隠居なんかしてたまるか! 父上が死んだのなら、次のヴァイセンベルク王は俺だろう!?」


「政治的な事情故、どうかご理解いただきたい……ご理解いただけない場合は、我々は殿下を抹殺しなければならなくなります」


 抹殺。物騒な単語に、モーリッツの顔が青くなる。


「何、幽閉と言っても、そう不愉快なものにはならないはずです。小さくも清潔な館で、食事、酒、娯楽、女に囲まれた余生をお過ごしいただきます」


「……わ、分かった。幽閉でいい。そっちを選ぶ」


 さして長く悩むこともなく、モーリッツは答えた。

 それを聞いたロアールは、縛られたモーリッツの後ろに回り、その身体を起こす。

 そして、短剣を抜き――剣先をモーリッツの喉に向けた。


「かしこまりました。さすがは勇猛果敢なるヴァイセンベルク国王陛下のご嫡男。素晴らしいご決断です」


「んあっ!? おい待て! 幽閉を選ぶと言っただろう! 自害はしない!」


「ご心配なされぬよう。殿下のお名前は、不名誉な幽閉ではなく名誉な自害を選んだ誇り高き王太子として歴史に刻まれましょう」


「い、嫌だ! 死にたくない! 誰か、誰かああモゴッ!?」


 ロアールはその大きな手で、モーリッツの口を塞いだ。


「痛みは一瞬です。すぐに大量の出血で意識が遠のきます」


「~~~っ!」


 声にならない悲鳴を上げるモーリッツの喉に、よく研がれた鋭い剣先が突き立ち、すぐに引き抜かれる。切られた動脈から鮮血が吹き出し、一度全身をびくりと震わせたモーリッツは、間もなく事切れた。

 ロアールは懐から取り出した布で短剣の血を拭い、モーリッツの身体を拘束する縄を切る。

 立ち上がり、血だまりを踏みながら天幕を出る。

 ロアールの直属の兵士たちは、天幕の中の騒ぎなど何も聞こえていなかったかのように、表情を変えることなく立っていた。


「モーリッツ・ヴァイセンベルク王太子殿下は誇りある自害を選ばれた。それが事実だ。分かっているな?」


「「「はっ」」」


 兵士たちは一切の迷うそぶりなく、ロアールの期待通りの返答をした。

 これでいい、とロアールは思う。

 モーリッツが幽閉されることを望んだと知れば、ガブリエラはそうするよう命じるだろう。しかし、あのヴォルフガングの嫡男で、若い頃のヴォルフガングと同様に、あるいはそれ以上に愚かなモーリッツを生かしておけば、どのような不安要素となるか分からない。いつかガブリエラの障害になるかもしれない。

 だからこそロアールは、この結果を事実に選んだ。

 全てはガブリエラのためだった。

 ロアールにとっては主君であり友でもあった、先代国王の忘れ形見。かつては姫であり、今は女王となった若き主君。

 彼女は先代国王から受け継いだ理想を実現するため、困難の多い道を自ら選んだ。その道程にある障害を排除し、彼女に余計な心労を与えないよう密かに手を汚すのは、遺臣として当然の務め。

 これでいい。これが最善のかたちだ。この裏にある事実をガブリエラひめさまが知る必要はない。

 そう考えながら、ロアールはガブリエラのもとに戻る。モーリッツが自害を選び、その最期を自分が見届けたことを報告するために。

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