第94話 外征を前に

 エレーナ率いる外務官僚の情報収集によって、ヴァイセンベルク王国の軍勢がオルセン王国へと侵攻する時期は、九月の上旬頃になるという予測が立てられた。ハーゼンヴェリア王国も、その予想に合わせて行動開始の準備を整えることが決まった。

 八月の末には王家の外征準備も大詰めに入り、スレインも国王として、外征の指揮官として忙しくなる。各方面――宰相セルゲイや将軍ジークハルト、近衛兵団長ヴィクトル、西部貴族の代表トバイアスらと話し合う機会が多くなり、執務室を空ける日が増える。

 そんなスレインの抜けた穴を埋めるかたちで、王国社会を維持するための日常業務については、王妃であるモニカが代わって務めている。


「あなたも大変そうね、パウリーナ」


 ある日。スレインの指示で執務室に置かれている書類を取りに来たパウリーナに、モニカは声をかけた。


「いえ、これが私の仕事ですので。王妃殿下」


 振り返ったパウリーナは、いつも通りの生真面目な表情で答えた。

 モニカはそんな彼女に苦笑して――そして、少し不安げな表情を見せる。


「ねえ、パウリーナ。お願いがあるの。友人として」


 友人として。王妃と国王付副官ではなく、法衣貴族の子弟として幼い頃から交流を重ねてきた、同い年の友人として。


「……何?」


 モニカの言葉に、パウリーナは表情を少し柔らかくして、口調を崩して返す。


「陛下のことを――スレイン様のことを、どうか支えて差し上げて。お傍で見守って差し上げて。今回の外征は、私がスレイン様の傍に付いていて差し上げられない初めての戦いだから」


 身重のモニカは、当然ながら外征には同行できない。今のモニカの使命は、スレインの、王家の血を繋ぐ子供を無事に産むことだ。

 なのでモニカは、スレインを――崇拝する王を、最愛の夫を戦場に送り出し、その帰りを待つことになる。

 もちろん、自分一人が付いていくかどうかで、さしたる差はないだろう。スレインにはパウリーナという優秀な副官がいて、精鋭の護衛が周囲を守るのだから。

 それでも、スレインを傍で見守れないことには不安を覚えてしまう。彼がこの王城に迎えられたその日から、ほとんどいつも一緒にいた自分が、戦場に赴く彼の傍を長期間離れることに恐怖を感じてしまう。


「スレイン様は、良き王としてあり続けることに強い使命感を覚えておられるから。戦場で緊張や疲れを押し隠して、ご無理をなさるかもしれないから。だから、私が傍にいて差し上げられない間は、あなたが代わりにスレイン様の傍にいて、気遣って差し上げて」


 いつも冷静で余裕のある笑みを見せる友人の、珍しく不安げな姿を前に、パウリーナは片眉を挙げて驚きを示す。

 そして、ふっと笑みを零した。


「もちろん、外征の間も陛下をお傍でお支えし続けるつもりよ……ちなみに、あなたのそのお願いは、あくまで『副官として』っていう意味でいいのかしら? それとも、陛下が夜お眠りになるときまでお傍にいて差し上げた方がいいの?」


 パウリーナにそう言われて、モニカは一瞬固まり、そして顔を赤くした。

 私の代わりに傍にいてあげて。それはまるで、愛する殿方を友人と共有しようとしているようにも聞こえる。そう気づいた。


「いえ、違うの。私はただ、スレイン様が心配で……いえ、でもスレイン様がそう望まれて、あなたも嫌でないのなら……ああ、でも……」


「……ふふっ、冗談よ。あなたもそんな顔するのね。初めて見たわ」


 クスクスと笑いながら、パウリーナは答える。

 モニカが照れて、それどころか妬いて見せるなど、彼女のそんな顔を見る日が来るなど、パウリーナは想像もしていなかった。

 動揺しているところなど想像もできなかったモニカでさえ、こんな顔をする。しかしパウリーナは、友人のこれまでにない一面を見て納得する。

 彼女の惚れた相手がスレイン・ハーゼンヴェリア国王なら無理もない。そう考える。

 自分の主君は不思議な人物だと、パウリーナは思っている。決して分かりやすく勇ましいわけではなく、周囲を畏怖させる迫力を持つわけではなく、しかし恐ろしく強い。穏やかな表情のままに大きな決断を成し、目の前の危機に挑むと決めれば瞬く間に突破口を開いて見せる。

 そんな彼を前に、自分たちは思い知らされる。彼は王なのだと。

 パウリーナの記憶では、スレインは王太子として迎えられたばかりの頃は、あのような人物ではなかった。しかし今は違う。彼はあまりにも当たり前に、まるで生まれつきそうだったように、王として君臨している。

 昔は世界の全てにどこか冷めたような視線を向けていたモニカが、初心な少女のようにスレインを想い、全てを捧げているのも納得だ。


「私は陛下を心から敬愛しているけど、それは一臣下として。陛下が私を頼ってくださるのも、主君としてのことだと思うわ。だから今回の外征でも、私は臣下として陛下をお支えし続ける……安心したかしら?」


「……ええ」


 パウリーナに微笑みかけられたモニカは、照れ笑いを見せた。


「なら、よかったわ……それでは王妃殿下。私は仕事に戻ります」


「ご苦労さま。時間をくれてありがとう、パウリーナ」


 再び副官としての表情と声で言ったパウリーナが退室するのを、モニカは王妃として見送った。


・・・・・・・


 八月の最終日。王国軍は外征準備の最終段階に入っていた。

 現在の王国軍は三個大隊三百人編成。そのうち一個大隊はイェスタフ・ルーストレーム子爵が指揮をとるザウアーラント要塞の防衛に就いており、残る二個大隊のうち一方は王領防衛のために残留。もう一方の大隊が、外征の基幹部隊として国王スレイン・ハーゼンヴェリアと共に発つ。 

 新兵ルーカスの所属する大隊は、外征に出る方だった。

 今年の初めに王国軍に入隊し、新兵訓練と並行して上官の軍務の手伝いを日々こなしながら仕事を学び、多少なりとも自分が軍人であることに慣れてきた今。しかし、いざ実戦に出るとなれば、やはりどうしても心は浮き足立つ。

 ルーカスは他の多くの新兵とは違い、騎士だった父に幼い頃から鍛えられていたが、それもあくまで訓練。本物の戦争となればわけが違う。

 自分はもうすぐ戦いに出て、もしかしたら死ぬかもしれない。その事実は重い。

 なのでルーカスは、王城の敷地の隅で、集積された物資の見張りとして立っている間も、気持ちが落ち着かずにいた。その落ち着かなさは行動にも出てしまい、無意味にそわそわと手足を揺らしてしまっていた。

 数日前までは、ここまでの不安はなかった。上官と酒保商人の間を走り回る連絡業務や、徴集兵に配布するための武器の準備。物資輸送に使う荷馬車の点検や、馬の体調の確認。そうした目の前の仕事をこなしている間は気を紛らすことができた。

 しかし、大方の準備が終わって出発のときを待つだけとなれば、目の前に迫った戦争のことをどうしても考え続けてしまう。


「落ち着かない様子だな、新兵」


 不意に声をかけられ、その声だけでルーカスは相手が誰なのかを察する。

 心臓が止まるかと思うほど驚きながら、姿勢を正し、声のした方を向いて敬礼する。全身が引き締まるような緊張のおかげで、手足の揺れは止まっていた。


「も、申し訳ございません! 将軍閣下!」


 声で予想した通り、ルーカスの前に立っていたのは王国軍将軍ジークハルト・フォーゲル伯爵だった。

 新兵であるルーカスにとって、ジークハルトは上官である小隊長のさらに上官である中隊長のさらに上官である大隊長の、そのまた上官。雲の上の存在。新兵訓練などで他の新兵たちと共に指導を受けることはあったが、こうして一対一で会話をするとなればさすがに緊張する。

 ルーカス個人にとっては、騎士だった父を倒した人物。そのことも、緊張をより大きくする。


「直れ」


 そう命じられて、ルーカスはややぎこちない動きで敬礼の姿勢を解く。


「別に叱っているわけではない。見張りの仕事はしっかりとこなしているようだしな……それで、先ほどしきりに手足を揺らしていたのは何だ? 武者震いを始めるには気が早いぞ?」


 ジークハルトの言葉が聞こえたのか、周囲で立ち働いている何人かの兵士が笑い声を上げた。


「そ、それは……」


「いい。分かっている。初陣を前に気が休まらないのだろう。お前以外の新兵も、皆そのような調子だ。今では戦い慣れた顔をしている兵士たちも、初陣の前はそうだった……無論、私もだ」


 そう言われたルーカスは、驚きに目を丸くした。


「私とて、別に生まれたときから将軍だったわけではない。実戦を知らない若造の頃はあった。もう二十年以上も前になるか。エルトシュタイン王国との国境で小競り合いに臨むための出陣だった……フレードリク・ハーゼンヴェリア前国王陛下と並んでの初陣だったな。陛下はまだ王太子でいらっしゃったが」


 ジークハルトが懐かしそうに語るその話は、ルーカスにとっては歴史だった。後に王となる人物と、後に将軍となる人物の揃っての初陣。自分が生まれる前の、まさに歴史の一幕だった。


「誰にでも初陣がある。お前が今感じているその緊張も、来年には次の新兵に笑って話せる経験になるだろう……いざ戦いが始まって、泣こうが吐こうが漏らそうが構わん。初陣ではそういう奴も多いからな。ただし、どんな無様を曝そうが上官の命令には従え。退けと言われるまでは退くな。それだけは守れ。分かったか?」


「はっ!」


 ルーカスは再び敬礼し、声を張った。


「それでいい……お前は強き騎士の息子で、お前自身も優秀だ。見込みがある。期待しているぞ、新兵ルーカス」


「……っ」


 父のことを語られ、自身への評価を語られ、ルーカスは小さく息を呑んだ。

 ジークハルトが去った後、ルーカスは初陣を前にした自身の緊張が、先ほどまでよりも小さくなっていることに気づいた。

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