第93話 王と平民
八月の後半をかけて、決戦に向けた準備は進んでいく。
ヴァイセンベルク王国が動かすのは一万もの兵力。それだけ大規模な軍勢をもって他国に侵攻するとなれば、すぐに動けるわけではない。正規軍人を集結させ、民から兵を徴集し、部隊を編成し、長期の軍事行動のための物資を集積する。多大な準備が必要で、それを終えるまでにはそれなりの時間がかかる。
スレインはエレーナたち外務官僚を使って、ヴァイセンベルク王国の動きを注視する。注視しつつ、自らも兵を動かす準備をする。
とはいえ、やはり国王であるスレイン自身が直接何かの作業をする場面は少ない。動くのは専ら臣下たちとなる。
実際に動かす外征部隊を編成するのは、王国軍の将軍であるジークハルト。彼はエレーナが収集した情報をもとに、軍事行動の計画を立てる。
そして、酒保商人たちを通じた物資補給の手配や、戦時の社会維持に必要なあらゆる実務の統括を、王国宰相であるセルゲイが一手に引き受ける。
ザウアーラント要塞に置いている兵力を動かすわけにはいかないので、今回の部隊編成の軸となるのは王国軍の一個大隊と、トバイアス・アガロフ伯爵をはじめ西部貴族の領軍、そして民から徴収する兵力となる。その総勢はおよそ千。
もちろんこれだけでは不足だが、ここに友軍としてイグナトフ王国の軍勢も加わる。オスヴァルド・イグナトフ国王は反「連合」という点では立場が一致しており、スレインのここまでの策にも協力者として関わっているので、今回も戦力となってくれる。
また、スレインは他にも複数の国の王に参戦を呼びかけ、エルトシュタイン王国のステファン・エルトシュタインがこれに応えた。スレインの義理の叔従父でもある彼は、当初は情勢の流れに任せて「連合」寄りの姿勢を示していたが、あっさり「同盟」派に鞍替えしている。
三国合わせて集まる予定の兵力は、およそ三千。国境を越えてルマノ王国に踏み入る戦力としてはひとまず申し分ない。
また、ガブリエラの方も周辺国に参戦を呼びかけ、少し前にヴォルフガングに苦汁を舐めさせられたサロワ王国など複数国がこれに応じたと報告されている。
それらの国々が必ずしも「同盟」派というわけではないが、今では大陸西部のほとんどの国が反「連合」の立場となっている。各国の王からすれば、今こそが危険なヴォルフガングの力を削ぎ落し、ついでに豊かなヴァイセンベルク王国の領土を切り取るなり戦勝後に賠償金をむしり取るなりできる好機。勝ち馬に乗りに来た王たちのおかげで、開戦前から状況はスレインたちの有利となっていた。
それでも、戦いが起こることは必然。ヴォルフガングが今さら不利を理由に怖気づくはずもなく、スレインたちももはや後には引けない。
ハーゼンヴェリア王国にとって初の外征の準備は、着々と進む。こうなることを想定しながら前準備を行っていたので、さほどの慌ただしさはない。
そんなある日、スレインは王城のテラスで、幼馴染であるエルヴィンとお茶を囲んでいた。
今や王家の御用商会のひとつとなったハウトスミット商会。その跡取り息子である彼は、他の酒保商人たちと共に、開戦に向けた物資の輸送などを担っている。その仕事の中で王城に立ち寄った際、スレインに招かれてこの場に来ていた。
「それで、市井の反応はどうかな? 今回の外征について」
「……正直に言うと、いまいちだな」
治世に対する民の率直な反応を知る上で、エルヴィンは貴重な情報提供者。スレインが雑談がてらに軽い気持ちで尋ねると、しかしエルヴィンはそのような答えを返した。
「え、何で? 今回の外征の意義は、ちゃんと布告したはずだけど」
「何でって……お前、分からなくなっちまったのかよ」
スレインが首を傾げると、エルヴィンは微苦笑しながら言った。
「どういうこと?」
「……そうだな。どう言ったもんか。いくら幼馴染とは言っても、国王陛下にこんな言い方をしてもいいのかは分かんねえけど」
問いかけを重ねるスレインに、エルヴィンは言い淀む。
「いいよ、聞かせて。好きなように話してよ」
「じゃあ言うぞ……お前、少し変わったと思う。国王だから当然なのかもしれないけど、俺たち平民とは違う考え方をするようになった。俺は商人の端くれとして教育を受けたから、これは王国の未来を守るための戦いだっていう布告の意味は理解できたよ。だけど、あれじゃあ大半の平民には理解できないと思うぜ。お前が語ってるのは、あくまでも高貴な身分の方々の理屈だ」
平民には理解できない、高貴な身分の理屈。そう言われたスレインは、エルヴィンの言いたいことを理解し、そして息を呑む。
自分は王になった。王として生きている。王として決断する覚悟も、今は持っている。ときには多少の犠牲が出ても、国全体やその未来のために決断する覚悟を持っている。
その覚悟のもとに、今回の決断を下した。数十年後、百年後、それより先を見据えて、今戦うことを決めた。これからこの国に生まれる数千数万の子供たちのために、今、多少の犠牲が出るかもしれない戦いに臨むことを決めた。
この国全体を、その未来を思えば、これが唯一絶対の最善手ではないかもしれないが、それでも限りなくそこに近い選択だ。そう考えられる。
しかしこれは、自分が王という立場にいるからこそ至る考えだ。王城の中で、重臣たちに囲まれながら、大きな視点で世界を見ているからこそ至る決断だ。
民は違う。彼らにはそんな視点はない。彼らの大半は、そんな視点があることさえ知らない。
エルヴィンやかつての自分のように、読み書き計算ができてある程度複雑な思考もできる人間というのは、平民の中では少数派。
小作農をはじめ大多数の平民は、雇い主から言われた仕事を言われた通りにこなすことで生きている。そうした者たちは自分の名前を書くこともままならず、日々の買い物で釣銭を数えることにも苦労する。彼らはそもそも、普段から複雑にものを考える習慣がない。その能力もない。
そんな者たちが、簡潔な布告ひとつでこの外征の意義を理解できるはずがない。
目の前だけを見ながら日々を生きている者たちが、遠い未来を見据えて戦えるはずがない。自分と家族と周囲の人間関係だけを見て生きている者たちが、何万人から成る王国全体の利益など考えられるはずがない。
今まさに侵攻してくる外敵から国を――すなわち自分の家や家族、財産や生活を守るための戦いであれば、平民たちも受け入れるだろう。しかし、国境を越えて違う国に攻め込む戦いの意義を、彼らは感覚的に理解できない。
どうしてわざわざ、国境を越えて隣の国をまたいで、さらに遠い国まで戦いに行かなければならないのか。国王は何を考えているのか。今回徴集される平民の多くは、そう考えるだろう。
そうした事実を踏まえ、民の心情を考慮する思考が、スレインには欠けていた。まったく無かったわけではないが、不足していた。この程度の説明で十分だろうと考えてしまっていた。
エルヴィンの言う通り、自分の考え方が変わり始めているのだろうか。
王になってからもうすぐ二年、王太子だった頃も合わせるともう二年半以上になる。これほどの期間を、この国で最も貴き身分の人間として生きてきたことで、自分は変わったのだろうか。
半ば唖然としながら、スレインは考えた。
「ははは。まあ、そんな深刻な顔すんなって。お前の決断は、きっと正しいんだと俺も思うし。お前は王なんだ。考えた通りに、俺たち平民を使っていい身分なんだからさ……なんか俺、やっぱり余計なこと言ったかもしれないな」
「……いや、そんなことないよ。ありがとうエルヴィン」
スレインは友人に、心から礼を伝えた。
王には大きな責任や膨大な義務と引き換えに、自身が考えた通りに平民を使う権利がある。それは確かにそうかもしれない。スレインの立場であれば、民の頭の上からただ命令を下すことも許されるだろう。
しかし、それはスレインが目指す王の姿ではない。
即位の日、スレインは「この国に生きる民の王」になると誓った。であれば、できる限り民の心に寄り添う王を目指すべきだ。完璧にはできなくともその努力はするべきだ。
彼ら平民の多くは理屈ではなく、感情で物事を見る。ならば彼らが安心するための材料を与えるべきだ。彼らの身体や生活だけでなく、心の安寧をも守る努力をするべきだ。
それを、エルヴィンは思い出させてくれた。一人の友人として率直な意見を語ってくれ、深く考える力を持ちながら、平民の社会に生きている。そんな彼は、自分にとって得難い存在だとあらためて思い知らされた。
「君が幼馴染でよかったよ。これからも友達にいてほしい」
「おい、何だよ急に気持ち悪いな……でも、分かったよ。っていうか心配すんな。わざわざ頼まれなくてもこっちはずっと友達のつもりだぜ?」
笑いながら言ったエルヴィンに、スレインも笑みを返した。
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