第91話 形勢逆転

「……上手くいったね」


 ハーゼンヴェリア王家の専用馬車に乗り、ヴィクトル率いる護衛に囲まれる中で帰路に発ったスレインは、他人の目と耳がなくなったことでようやく一息ついた。

 その表情は涼しく、ヴォルフガングに平伏していたときのような憔悴した様子は微塵もない。あれは全て演技だった。

 スレインが講じた二つ目の策。それは今回のような公の場で、家族や臣下や民を庇うような言い方で、ヴォルフガングに大げさなほど謝る……というただそれだけのものだった。

 それだけの行為が、あの場においてはこれ以上ないほど効果的に作用した。

 先日のエウフォリアでの騒動、ヴォルフガングの人格的評価、そしてスレインの言葉選び。この三つの要素が合わさることで、スレインは何も確信的なことを言っていないにもかかわらず、諸王はスレインの思い通りに思考を誘導されてくれた。

 王妃モニカの懐妊についても、このタイミングで公表した。自分をより憐れに見せ、諸王の同情をより誘うために。

 本当はもっと平穏なかたちで明かしたかったし、モニカとの愛の結晶が作られた事実を政治に利用するのは気が進まなかったが、未来の安寧が懸かっているとなれば背に腹は代えられない。

 家族や臣下、民について触れながら平伏して謝罪する自分を見て、諸王は考えたことだろう。やはりヴォルフガングは信用できないと。信用してはならないと。

 スレインがあのような言い方をすれば、諸王は自然と疑念を抱く。先日の一件の後、ヴォルフガングは裏でスレインを脅したのではないかと。

 そして自問する。個人的に不快なことがあっただけで、自分を不快にさせた相手方の王だけでなく、その王の国そのものへの加害を仄めかすような人物を、相互防衛の枠組みの盟主としていいのかと。そのような人物に大きな権限を委ねていいのかと。

 ヴォルフガングが本当に裏でスレインを脅したのだとしたら、それは一線を大きく超えている。王族、貴族、そして民への加害。他国の存続を揺るがすような加害を示唆するというのは、ただ社交の場で互いの名誉を巡って争うのとはわけが違う。

 今後、もし自分がヴォルフガングの機嫌を損ねてしまったら。自分が個人的に嫌われるだけならともかく、そんなことでいちいち自分の国そのものの存続が脅かされるのだとしたら。やっていられない。とてもそんな相手とは付き合っていられない。自分の一族や臣下、民、国のためにも、そんな相手に国の命運を委ねることなどできない。

 大陸西部諸国の王たちは、間違いなくそう考える。

 ヴォルフガングの人格的評価を地に落とし、諸王の気持ちを「連合」から大きく引き離す。スレインのそんな試みは、こうして見事に成功した。

 諸王がヴォルフガングに対して抱いた疑念は、どう頑張っても払われることはない。

 スレインを脅してなどいないとヴォルフガングが言えば言うほど疑念は深まるであろうし、スレインが「自分は脅されていない」と言ったところで、ヴォルフガングからさらに脅されて口止めされたのではないかと思われるだけだ。

 脅すような言葉を、ヴォルフガングが実際にスレインにぶつけたのかどうか。それを調べる術はこの世に存在しない。ヴォルフガングが確定的に無罪である証拠がない以上、疑念は永遠に残る。この時点でヴォルフガングに勝ち目はない。

 後は、ガブリエラがどう立ち回るか。そして追い詰められたヴォルフガングがどう動くか。それによって決着のかたちは多少変わるが、それは今は考えなくていい。少なくとも今日やるべきことはやり遂げた。

 単純だが重要な一仕事を終え、達成感を覚えていたスレインは――向かい側の座席に座り、自分に視線を向けるパウリーナを見る。

 いつも通り生真面目な彼女の視線には、しかしスレインを心配するような感情がうかがえた。


「がっかりしたかな? 相手を陥れるためとはいえ、大勢の人間が見ている前で他国の王に平伏するような主君で」


「いえ、まさか。そのようなことは……ただ、恐れながら陛下の御心を心配しております。お辛くはございませんか?」


 普通は、大勢の前で平伏して謝るというのは酷く屈辱的な行いで、高貴な身分の人間にとっては耐えがたいこと。スレインが無理をして気丈に振る舞っていると思ったのか、パウリーナは気づかうような口調で尋ねてきた。


「まあ、平伏しているときは多少不愉快な気分になったけど……それだけだよ。たかが感情だ」


 やはり涼しい顔で、スレインは答えた。

 ハーゼンヴェリア王国は、東部国境についてはザウアーラント要塞という最強の防衛拠点を擁しているが、西部国境については大陸西部の他の小国と何ら変わらない防衛力しか持たない。国力差を考えると、ヴァイセンベルク王国は一対一で戦うには厳しい脅威であり、スレインがヴォルフガングの逆恨みによる復讐を恐れるのは何も恥ずかしいことではない。

 スレインは帝国の侵攻を二度退け、ザウアーラント要塞を落とした英雄。今回の一件で情けない振る舞いをした王として多少評価が落ちたとしても、致命的なものではない。これまでに高まった評価と相殺してお釣りがくる。


「今回の一件で、諸王はヴァイセンベルク王から距離を置く。『連合』を実現するという彼の試みは大きく後退して、おそらく再び前進することはない。『同盟』にとっては大きな好機だ……ハーゼンヴェリア王国により良い未来をもたらす可能性。それを掴む好機をこうして得られたのだから、僕一人が一時的に感情を害することなんて損害のうちにも入らないさ」


 平然と言ったスレインを前に、パウリーナは黙り込む。

 そして、表情を引き締めて口を開く。


「国を守る陛下のお覚悟、あらためて敬服いたしました」


「ありがとう。これからも君たちに敬われる君主であれるように、覚悟を示し続けないとね」


 スレインは微笑を浮かべ、君主の証であるルチルクォーツの首飾りにそっと触れながら答えた。


・・・・・・・


 ひどく気落ちしている――正確には気落ちしたふりをしているスレインを大広間から連れ出し、そのまま帰路につく彼を見送ったガブリエラは、次の行動に移る。


「諸卿、少しいいか」


 それぞれの馬車に乗り込むため、ヴァイセンベルク王家の城の前庭に出てきた大陸西部各国の諸王は、ガブリエラに呼びかけられて彼女を向く。


「せっかくの社交はこのようなかたちで早々に終わってしまったが、もしもまだ話し合いたいことがあるという者が……特に大陸西部の今後について意見を交換したい者がいれば、このまま我が王都エウフォリアに来てくれて構わない。いや、どうか来てくれ」


 自身の主導で「同盟」の結成を目指すガブリエラが、この場で、このような提案をする。それはすなわち、「同盟」への――少なくとも反「連合」への誘いであることは明らかだった。

 しばし黙り込み、それぞれ頭の中で思案を巡らせたらしい諸王は、そのうち何人かがガブリエラの提案を受け入れ、エウフォリアに赴く意思を示した。


・・・・・・・


 それからまた数週間が経過し、事態は変化した。


「――よって、最新の情勢は明らかに『同盟』有利に傾いたと言えます」


「そうか。僕たちとしては、何よりの結果だね……以前までの『連合』ほど圧倒的な優勢じゃないのは残念だけど、そこまで贅沢は言えないか」


 執務室でエレーナの報告を受け、スレインは言った。

 スレインがゴルトシュタットで第二の策を実行するまでは、「連合」寄りが十二か国、「同盟」寄りが三か国、中立が七か国という状況だった。

 それが現在は、「同盟」を選ぶ意思を示しているのがオルセン王国とハーゼンヴェリア王国も含めて六か国、「連合」を選んでいるのがヴァイセンベルク王国を含めて三か国、中立が十三か国。少なくとも、大半の国を「連合」から引き離すことには成功した。それらの国々の全てが直ちに「同盟」の側についてくれたわけではないが。

 ヴァイセンベルク王国以外で未だ「連合」の側についている二か国は、姻戚関係や債務を理由にヴォルフガングとの縁を切ることができないものと考えられる。その二か国の片方は、ハーゼンヴェリア王国のすぐ西に位置するルマノ王国だった。これも想定通りのことだった。


「オルセン女王も上手く立ち回ってくれたようですし、もはや『連合』の実現を心配する必要はなさそうですね」


 スレインと共に報告を聞きながら、モニカが安堵した様子で言った。妊娠中の彼女の腹部は、今では服の上から見ても分かる程度に膨らんでいる。

 ゴルトシュタットでの晩餐会が早々に解散となった後のガブリエラの動きについては、オルセン王国から彼女の直筆の書簡が届き、明らかになっている。

 それによると、ガブリエラは事前の計画通り、「連合」から――ヴォルフガングから距離を置きたいと考えた諸王に接触したという。

 表向きはスレインと共謀していないことになっている彼女は、諸王と直接会って、あるいは書簡を送って、彼らに問いかけた。ヴォルフガングがスレインを裏で脅したという証拠はないが、あの男ならやりかねない。このままあのような男のもとにつき、永遠に不安を抱えて自国を統治していくことになってもいいのかと。

 ガブリエラはあくまで「疑惑」として語ったが、諸王にとってはもはや疑惑で十分だった。決定的な証拠は不要だった。ヴォルフガングの人格への信用のなさが決め手となった。

 諸王は決断した。その結果が今だ。

 ヴォルフガングの支持が急落したことで、ガブリエラの存在感は相対的に高まった。諸王がヴォルフガングに疑念を抱いた後の、反「連合」の流れを作る中心を担ったことが功を奏した。これもやはり、スレインとガブリエラの計画通りだった。


「そうだね。この状態からヴァイセンベルク王が大陸西部の社会で信用を取り戻そうとするなら、長い時間がかかる。彼にそんな地道な努力をする忍耐力があるとはとても思えない……追い詰められた彼は、ほぼ確実に賭けに出てくる」


 このままヴォルフガングが何も行動を起こさず、諸王の誰からも支持されない存在として、大陸西部の中で針の筵に座るように生きるのなら、別にそれでもいい。

 しかし、彼はそのような大人しい人間ではない。最後に残された力――すなわち周辺国を上回る武力に頼るだろう。対抗勢力である「同盟」実現の芽をいち早く潰すために、その中心であるオルセン王国を狙うか、あるいは先に恨みを晴らすべくハーゼンヴェリア王国を狙うか。どちらかの行動に出る可能性が極めて高い。

 スレインとしては、どちらを攻めてくれても構わない。どちらの場合でも対処できるように考えてある。策を練り、備えをしてある。王家の剣たる王国軍の長、ジークハルトが。そして西における王家の防壁たる西部貴族たちが。もう何か月も前から準備を進めてくれている。


「ヴァイセンベルク王がどのようなかたちで賭けに出るか、外務長官として引き続き注視してまいります」


「頼りにしているよ、エレーナ」


 スレインが言うと、エレーナは艶のある深青の髪を揺らしながら微笑んだ。

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