第90話 ゴルトシュタット

 七月の初頭。ヴァイセンベルク王国の王都であり、大陸西部において極めて重要な価値を持つ古都であるゴルトシュタットの王城にて、ヴォルフガング・ヴァイセンベルクの主催による晩餐会が開かれていた。

 ヴァイセンベルクの王城は、ヴァロメア皇国時代の皇宮が戦乱によって破壊された後、同じ土地に建造されたもの。皇宮を多分に意識した城は細部に至るまで伝統的な造りがなされており、ヴァイセンベルク王家のルーツを誇示している。

 晩餐会の会場である大広間も、床から壁、天井に至るまで、伝統的なデザインが施されている。荘厳な空間の中、招かれた諸王は酒や料理を手に歩き、語らう。現段階で到着しているのは、二十人弱。


「それで、今日はハーゼンヴェリア王は来るのでしょうか?」


 王とその護衛、壁際に控える従者、給仕係。総勢数十人がいる大広間に、ステファン・エルトシュタインの声は無駄に良く通った。ヴォルフガングの居所であるこの場においてはデリケートな話題に、空気を読まず触れたステファンに、一瞬だけ皆の視線が集まる。


「……知らん。私に聞くな」


「そうなのですか。イグナトフ王はハーゼンヴェリア王と仲がよろしいと聞いていたので、てっきり何か知っているのかと思いましたよ」


 ステファンの巻き添えで注目を集めてしまったオスヴァルドが嫌そうな顔で答えると、ステファンは周囲の視線もオスヴァルドの表情も気にすることなく言った。あまり空気は読めず、しかし気のいい人物ではあるのであまり憎まれない。それがステファンという男だった。


「対帝国の防衛においては、利害が一致しているのでハーゼンヴェリア王国と協力している。だからといって、私個人がハーゼンヴェリア王と仲良くつるんでいるわけではない。勘違いするな」


「ははは、これは失礼」


 ステファンとオスヴァルドが話す一方で、他の王たちもそれぞれ数人ずつで語らう。時おり周囲を伺って声を潜めるのは、ヴォルフガングの存在を気にしつつスレインのことを話題に出しているためだった。

 その中で、主催者であるヴォルフガングは表向きいつも通りの尊大な態度を見せる。文字通り我が物顔で大広間を歩き、招待客たちに堂々と挨拶する。まるで、自分はもう前回のことなどまったく気にしていないと言わんばかりに。

 そのとき。大広間の入り口に控えるヴァイセンベルク王家の近衛兵が、高らかに声を張る。


「ハーゼンヴェリア王国国王、スレイン・ハーゼンヴェリア陛下のご入場!」


 瞬間、大広間に緊張感が張りつめる。全員の視線が一瞬だけヴォルフガングに注がれ、そして大広間の入り口を潜るスレインに移る。


「おお、噂をすれば」


 ステファンが呟き、その隣ではオスヴァルドが表情を険しくする。

 オスヴァルドが視線を向けた先にいたのは、ガブリエラだった。今までは離れた位置で他の王たちに声をかけて回っていた彼女は、協力者であるオスヴァルドと一瞬だけ視線を合わせると、無表情のままスレインを向く。

 今日ここで策の第二段階を展開する予定のガブリエラが、それを知った上で協力するオスヴァルドが、特に何も知らないステファンが、そしてその他の諸王が注目し、ぼそぼそと話し声も聞こえる中で、スレインは大広間を真っすぐにヴォルフガング目がけて歩く。

 一方のヴォルフガングは、近づいてくるスレインを見て一瞬だけ表情を硬くした後、すぐにそれを取り繕う。努めて親しげな笑顔を作り、自身もスレインに歩み寄る。


「おお、ハーゼンヴェリア王! 来たか!」


 大仰に手を広げ、まるで親しい友人を迎えるような声色で呼びかけるヴォルフガング。しかしスレインは硬い表情を保ち、ヴォルフガングと数歩離れた距離まで来ると――その場で平伏した。


「なっ……」


「お、おい」


「どういうことだ?」


 まるで全面的な服従を示すように、床に両手両膝をつき、額までこすりつけるスレイン。一国の王が、諸王の前で見せるにはあまりにも屈辱的なその姿に、一同はざわめく。

 驚きを表したのは、平伏を受けたヴォルフガングも同じだった。スレインの行動を受けて、ヴォルフガングは目を見開いて固まる。

 この場にいるほぼ全員が困惑する中で、自身に付き従うヴィクトルとパウリーナが沈痛な面持ちを作って後ろに控える中で、スレインは平伏したまま口を開く。


「……ヴォルフガング・ヴァイセンベルク王。申し訳ございませんでした」


 少年のようにも聞こえるその高い声は、ざわめきが起こる大広間の中によく通った。


「先日のエウフォリアでの、私の失態。この場にてあらためて、心よりお詫び申し上げます。この通り平伏して謝罪申し上げます。なので、なのでどうか……どうかご容赦ください」


 ただならぬ様相と声色で赦しを請うスレインの言葉に、事態を見守る一同のざわめきが一層大きくなる。


「あの失態は、私一人が犯したもの。我が臣下や、我が民には何の罪もございません。私の家族――我が妻モニカと、その腹の中にいる我が子にも、罪はございません。全ての罪は私が負います。我が身はどうなってもかまいません。なのでどうか……」


「な、なな、な何を言っているのだハーゼンヴェリア王! 馬鹿は真似はよせ! ほら、顔を上げるのだ!」


 そこで、ようやくヴォルフガングも動いた。あからさまに焦った表情で額に汗を流し、身を屈めてスレインに声をかける。


「お願いします。どうか、愛する妻と子、庇護すべき臣下と民だけは……」


「いやいやいや! だから一体何の話をしているのだ! はっはっは! まったく変な奴だ! 冗談は止めて早く立ってくれ!」


 ヴォルフガングはますます焦った声で、挙動不審になりながらスレインに答える。周囲の視線を気にしながら、無理に笑顔を作ってまくしたてるその反応は――まるで何か後ろめたいことでも抱えているかのような、非常に誤解を招くものだった。


「……人前でこれほどなりふり構わずに謝るとは。裏で一体何を言われたのやら」


 オスヴァルドが呟くと、それがきっかけとなって諸王は互いに言葉を交わす。この異様な状況について、小声でそれぞれの感想や考えを語り出す。

 一国の王が、公の場で平伏してまで謝り、家族や臣下、民を庇おうとする。その裏には、よほど物騒なやり取りがあったのではないか。エウフォリアでの一件の後、ヴォルフガングがスレインに何かを――何か、脅すようなことを言ったのではないか。

 もしそうだとしたら、とんでもないことだ。諸王はそう考える。

 単なる不注意による事故で、服を汚されただけ。それだけのことを国家間の問題に発展させ、相手側の家族や臣下や民への――すなわち相手の国そのものへの加害を示唆する。それはただ社交の場で喧嘩をして暴言を吐くのとはわけが違う、度を越した暴挙と言える。

 そんなことをする王が治める国とは、まともな関係を築くことなどできない。そう思わざるを得ないほどの暴挙だ。

 不信。恐れ。嫌悪。そうした負の感情が諸王の間に伝播し、それらの感情を含んだ視線がヴォルフガングを四方から刺す。

 当然、ヴォルフガングも不穏な空気と視線に気づいている。このままでは非常にまずいと、彼も理解する。


「しょ、諸卿! これは誤解だ!」


 ヴォルフガングの訴えは、しかし事態を悪化させるだけだった。一同の視線に込められた負の感情が、より勢いを増す。

 これがヴォルフガングではなく他の王であれば、事態を見守っている諸王の中に「誤解だ」という言葉を信じる者もいたかもしれない。スレインが何か極端な勘違いをしていて、大げさに謝罪してしまっただけなのではないか。何人かはそう考えたかもしれない。

 しかし、ヴォルフガングには、彼の人格には、諸王をそう思わせるだけの信用がなかった。このヴォルフガングなら、裏でスレインを脅し、ハーゼンヴェリア王国そのものへの加害を示唆したとしてもおかしくない。誰もがそう考えた。

 ヴォルフガングの、これまでの振る舞いの積み重ねが、揺るぎない柱となって諸王の疑念を支えている。


「ち、違うのだ。私は――」


「もうよせ! ハーゼンヴェリア王!」


 ヴォルフガングを遮って発言し、スレインに歩み寄ったのはガブリエラだった。


「そこまでする必要はない。いくらなんでも、貴殿がそこまでして謝ることはあるまい」


「で、ですが……私はヴァイセンベルク王より許しをいただかなければ……」


「分かった許す! 許すぞハーゼンヴェリア王! だから……」


 咄嗟に叫んだヴォルフガングは、しかし次の瞬間には顔を強張らせる。周囲を見回し、諸王の視線がますます鋭くなったことを感じ、自ら墓穴を掘ったことを察する。

 許すということは、ハーゼンヴェリア王がこのような謝罪を必要とすることを、やはり裏で言ったということか。本当にそのようなことを言ったのか。

 そもそも、服を汚されただけで「首を刎ねる」とまで言ったお前の方こそ、ハーゼンヴェリア王に謝るべきではないのか。

 そう問いかけるような視線を、ヴォルフガングは四方から受ける。失言をしたと後悔しても、今さらもう遅かった。もともと自分の方から謝るつもりだったと言っても、今さら信じてもらえる空気ではなかった。

 一方のガブリエラは、スレインの腕を引っ張って立ち上がらせる。


「ハーゼンヴェリア王。ひとまずここを出ろ。今日のところは帰った方がいい……ヴァイセンベルク王。来て早々で悪いが、私も帰らせてもらう。とてもではないが、もはや社交を楽しめる状況ではないだろうからな」


 やや戸惑うそぶりを見せるスレインと、この状況への不快感を表すように険しい顔をしたガブリエラは、それぞれの護衛と従者を引き連れて大広間の扉へと向かう。


「社交を楽しめる状況ではない、か。確かにその通りだ。ヴァイセンベルク王、私も帰るぞ」


 オスヴァルドがそう言って、ガブリエラとスレインの後に続く。

 さらに一人、また一人と、王たちがヴォルフガングに暇を告げて去っていく。その流れはもう止まらない。


「……ははは、私も去り時かな」


 微苦笑しながら一人呟いたステファンが、テーブルの上の菓子をひとつ口に放り込んで高級なワインで流し込むと、諸王の退場の流れに続く。


「……っ」


 ヴォルフガングは口を開こうとして、すぐに閉じた。

 近衛兵に命じて、誰も出られないよう王城を封鎖することを一瞬考えたが、その考えはすぐに内心で却下する。自ら招待状を出して集めた諸王を、武力を用いて拘束すれば、それこそ終わりだ。この場の全ての王とその国への敵対行為と見なされても文句は言えない。

 そもそも、近衛兵をけしかけて諸王をこの場に留めさせ、そうしてまた自分には後ろめたいことなどないと訴えたところで、信じてもらえるはずがない。

 ほとんどの王が帰っていくのを、ヴォルフガングは立ち尽くして見送るしかなかった。

 最終的に大広間に残った王は、ヴォルフガングとわずかに数人だった。

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