第88話 エウフォリア②
お食事中にお読みになるのはちょっと要注意な描写があります。
★★★★★★★
床に落ちた皿の割れる音が小さく響く。それは決して大きな音ではないが、広間に集った人々の話し声とは明らかに異質な音であったために、皆の注目を集めた。
そして、音の聴こえた方に視線を向けた一同は、見た。ヴォルフガングの背が――より正確にはズボンの後ろ側、尻の部分が、スレインの取り落とした肉料理のソースで汚れているのを。
その肉料理は、丁寧にローストした牛肉に、肉汁や果実を使ったソースをたっぷりと絡めたものだった。そんな料理をぶつけられたヴォルフガングのズボンの尻部分には、焦げ茶色のソースがべったりとこびりついてしまっている。
そんな光景を見た諸王の頭の中に、「エウフォリアの惨劇」という言葉が浮かんだ。
それは現在より三十年近くも前のこと。この場所と同じ、オルセン王国の王都エウフォリアの王城広間にて、ある日の夜に大陸西部の多くの国の王族が集う晩餐会が開かれていた。
その中には、当時まだ十代で、ヴァイセンベルク王国の王太子だったヴォルフガングもいた。彼は父である当時のヴァイセンベルク王の名代として出席していた。現在は尊大で気ままな王として知られるヴォルフガングは、当時は生意気で我儘な王太子として名が知られていた。
自分は大陸西部最大の国であるヴァイセンベルク王国の次期国王。おまけにヴァロメア皇帝家の血を継いでいる。その自負が、ヴォルフガングを愚か者へと育てた。
この日もヴォルフガングは生意気な振る舞いを随所で見せ、他の晩餐会出席者たちはそれを面倒に思いつつも、力の大きいヴァイセンベルク王国と揉めたくないために適当に受け流していた。
そして夜も更け、晩餐会も終わりが近づいた頃。節操なく酒を飲んですっかり酔っていたヴォルフガングは、あろうことか主催者に――ガブリエラの祖父にあたる当時のオルセン王に絡んだ。乱暴に肩を組み、生意気という言葉では済まされないことを言った。
具体的には、当時王女であったガブリエラの叔母のことを、極めて失礼な目で見るような言動を吐いた。ちなみにこの日の晩餐会は、政治的な社交の場という意味合いも強いが、名目としては彼女と他国の王族の婚約を祝うものだった。
愛娘の祝いの場を台無しにする、ヴォルフガングの無礼極まる言動。普段は温厚な人物として知られていた当時のオルセン王だが、これにはさすがに激怒した。肩に置かれた手を振り払うと、広間が震えるほどの声でヴォルフガングを一喝した。
周囲でその声を聞いていた者たちが、「自分が怒鳴られたわけではないのに、思わず冷や汗が出て血の気が引いた」と後に語ったほどの怒号であった。
オルセン王のあまりの剣幕に、ヴォルフガングは腰を抜かした。そして四つん這いで逃げようとした。オルセン王は歩いて彼を追いかけながら、尚も凄まじい怒声を浴びせた。
とうとうヴォルフガングは、恐怖のあまり泣きじゃくりながら、漏らした。後ろの方から。
これが例えば、単なる急な体調不良による失敗であったなら、誰にでも起こりうる致し方ないものとして扱われただろう。
また、初陣での緊張や恐怖のあまりの失敗だったとしても、当人は恥と思うかもしれないが、周囲の者はさして気にせず、記憶もしなかっただろう。
しかし、今回の場合は誰がどう見ても自業自得だった。ヴォルフガングは、オルセン王家への侮辱としてその場で斬り捨てられても文句は言えないほどに無礼な振る舞いをしたのだから。
当時のオルセン王がそれでもヴォルフガングを叱るだけに留めたのは、ヴォルフガングが当時のヴァイセンベルク王にとって大切な一人息子であることを考慮したからだった。
ヴァイセンベルク王もその点を分かっていたので、オルセン王の慈悲に感謝し、後日に我が子の非礼と自身の教育不足を丁寧に詫び、それでこの一件は手打ちとなった。
オルセン王とヴァイセンベルク王が一線をわきまえた大人であり、ヴォルフガングが大勢の前で大恥をかいて罰を受けたからこそ、事はこれで済んだ。
これは「エウフォリアの惨劇」という冗談交じりの名で、大陸西部の王族の間に記憶された。
それから年月が流れ、一人息子として王位を継いだヴォルフガングは、さすがに当時ほどの常識知らずではなくなった。彼のかいた恥も風化し、各国の王族がヴォルフガングを見て真っ先に「エウフォリアの惨劇」を思い出すようなことはなくなった。
しかしそれでも、ヴォルフガングに接するときは、誰もが言葉選びに気をつける。ヴォルフガングのいる場では、文脈にかかわらず「漏らす」などの言葉を使うことを避けている。そうした言葉を使えば、ヴォルフガングの機嫌が微妙に悪くなるためだ。大陸西部の雄であるヴァイセンベルク王国の君主を前に、その機嫌を積極的に損ねたいとは誰も思わない。
そんな、大陸西部の王族ならば誰もが知る話が存在する中で、スレインはヴォルフガングのズボンの後ろを、よりにもよって焦げ茶色のソースで汚した。過失だとしても間が悪すぎる。この場にいる誰もが顔を強張らせて事態を見ていた。
「な、な、なんと……」
「申し訳ございません、ヴァイセンベルク王! 大変な迷惑を……」
空気が凍りつき、自身のズボンの後ろを見たヴォルフガングが戦慄く中で、スレインは単に失敗を詫びる声色で言った。
「私の不注意でした、本当に申し訳ない。心からお詫びを。御召し物については弁償を……」
「……ふはっ、『エウフォリアの惨劇』みたいだな」
スレインが狼狽えて見せる一方で、事態を見守っていた諸王の中から呟きが聞こえる。小さな呟きだったが、場が静かなせいでその声はよく通った。
皆が呟きの主――ステファン・エルトシュタイン国王を見ると、自分が空気の読めない発言をしたと気づいたらしい彼は「おっと、失礼」と軽い調子で言って数歩下がった。
「くっ、くそがっ! ふざけるな!」
今や大陸西部でも最大の権勢を誇る為政者となったヴォルフガングにとって、若き日の失態をこの場の全員に思い起こさせるこの出来事は、まさに屈辱の極み。理性を感情が上回ったのか、ヴォルフガングは激高してスレインを向いた。
「貴様、わざとか!? わざとこのようなことをしでかしたのか!?」
「そ、そんなまさか。何故私が、わざとヴァイセンベルク王のズボンの尻を汚すような――」
「ええい! 尻という言葉を使うな! この場で叩き殺されたいのかこの小僧めがあっ!」
ヴォルフガングは叫び、スレインに向かって拳を振りかざす。
その拳が振り下ろされる直前、スレインの前に護衛のヴィクトルが立ちはだかり、そのまま最小限の動きでヴォルフガングの拳を横に受け流した。
周囲から見ても防衛のみを目的としていることが分かる動きで、ヴォルフガングを直接傷つけることは決してせず、しかしその攻撃は逸らす。社交の場における王の護衛として、文句なしの働きだった。
とはいえ、勢いよく振った拳を逸らされたヴォルフガングはそのままの体勢とはいかず、バランスを崩して床に両手を突く。よりにもよって、「エウフォリアの惨劇」をより一層連想させる、四つん這いの姿勢になってしまう。
「畏れながらヴァイセンベルク陛下。どうかご容赦を。これ以上は我が主君の護衛として反撃しなければなりません」
そう言って、ヴィクトルは腰の剣に軽く手を触れる。
その行動を受けて、少し離れた位置に控えていたヴォルフガングの護衛の貴族――ヴォルフガングが社交の場で護衛に貼りつかれる息苦しさを嫌い、いつも自身の護衛に距離を置かせていることは誰もが知っている――が、駆け寄ってきてヴィクトルの前に立ちはだかる。
しかし、立ち上がったヴォルフガングは自身の護衛を横に押しのける。
「剣を抜くだと!? やれるものならやってみろ! 貴様を斬り伏せ、ハーゼンヴェリア王のか細い首をこの手で刎ねてくれる!」
そう言って腰の剣を握り、鞘から抜こうとしたヴォルフガングの手を――ガブリエラが押さえて止めた。
「よせ、ヴァイセンベルク王! ただ皿を落としただけの事故をどれほどの大事にする気だ! ハーゼンヴェリア王の言動を見れば分かるだろう! 彼は知らないのだ!」
彼は知らない。そう言われて、ヴォルフガングはハッとした表情になった。
「ハーゼンヴェリア王は数年前に平民から王になった身だ。三十年近くも前の『エウフォリアの惨劇』など、知らなくても不思議ではないだろう。いや、むしろ知らなくて当然だ。それを貴殿は……まったく、頭を冷やせ。ハーゼンヴェリア王の戸惑いぶりを見ろ」
スレインは困惑しきった表情を作りながら、ヴォルフガングとガブリエラを交互に見る。
「あ、あの……浅学で申し訳ない。『エウフォリアの惨劇』とは一体……?」
「……ちっ! 不愉快極まりない! 私は帰るぞ!」
ヴォルフガングはスレインの問いには答えず、気色ばみながらも再び激高することはなく、踵を返して広間から立ち去っていく。
ヴォルフガングの護衛が後を追い、広間の隅に控えていたヴォルフガングの従者も、主君に駆け寄ると手に抱えていた外套で彼の背を隠しながら後ろに続く。
「大丈夫か、ハーゼンヴェリア王? 驚いただろう」
「……はい。とても驚きました。私はヴァイセンベルク王にどのような失礼をはたらいてしまったのでしょうか?」
ひとまず、最初の段階は上手くいった。
皆が見ている手前、無知を装ってガブリエラに尋ねながら、スレインは内心でそう考えた。
★★★★★★★
本作とは別件になりますが、作者の別作品『ひねくれ領主の幸福譚』のコミカライズが、本日よりコミックガルド様にて連載開始となりました。
藤屋いずこ先生に漫画を手がけていただいています。
よろしければ是非ご覧ください。
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