第84話 希望

 数週間が経過し、四月も下旬に入った頃には、ヴァイセンベルク王国とオルセン王国を除く大陸西部各国の姿勢もある程度明らかになった。

 情報収集に努めてくれたエレーナの報告によると、二十二か国のうち、「連合」への参加に前向きな姿勢を示しているのがヴァイセンベルク王国を含めて八か国。それに対して、「同盟」に前向きな姿勢を示しているのがオルセン王国を含め三か国。中立の姿勢を示しているのが十一か国。

 中立の十一か国は、ハーゼンヴェリア王国のようにどちらにつくべきか判断しかねて静観している国の他に、こうした相互防衛の枠組みそのものに反対あるいは懐疑的な姿勢の国も含む。

 スレインたちの予想通り、情勢は「連合」に――すなわちヴォルフガングに有利に傾いていた。

 そしてこの日、エレーナが新たな報告をもってスレインとモニカの執務室を訪れた。


「……一週間ほど前、ヴァイセンベルク王国が、南西に位置するサロワ王国との国境に千の兵を集結させたそうです。その二日後、それまで中立の姿勢を示していたサロワ王が『連合』へ参加する意向を明言し、ヴァイセンベルク王国は兵を退きました」


 スレインの執務室に入ったエレーナが、そう報告した。


「それは、つまり……ヴァイセンベルク王国が武力で他国を屈服させたってこと?」


「そのようなことをすれば、ヴァイセンベルク王国にとってむしろ悪手なのでは? 各国から見れば、とても印象が悪い行動だと思うのですが」


 スレインとモニカが尋ねると、エレーナは微妙な表情になる。


「何とも言えません。ヴァイセンベルク王国が兵を集結させた地域はもともとサロワ王国との係争地帯で、たびたび睨み合いや小競り合いが起こっていました。直接的に武力を行使することなく撤退したというのは、むしろ普段と比べれば穏やかな対応と言えます」


 今回の一件が、ヴァイセンベルク王国に不利な影響を及ぼすことはないだろう。エレーナはそう解説した。


「おそらくヴァイセンベルク王も、この点を利用して今回の行動が問題視されることを上手く避けたのだと思います。そうして批判を躱しつつ、各国が『連合』につく流れを加速させようと考えているのでしょう……実際に、サロワ王国とは別で、新たに中立の一国が『連合』寄りの姿勢を示しました」


「……なるほど。我が国としては、またひとつ懸念事項が増えたね」


 ヴォルフガングは、「連合」に参加する国を増やすためならば武力をもちらつかせる。批判を躱せるとなれば強硬な手段も平然と選び取る。

 そのような人物が盟主となり、各国で係争が起これば裁定権を握り、いざハーゼンヴェリア王国の領土を戦場に帝国と戦う日が来たら問答無用で総指揮権を握る。スレインの国を、民を、どのように扱うか分からない。


「とりあえず、今回の一件を受けて情勢がどう動くか、引き続き情報収集を頼むよ……情勢の変化次第では、僕たちもそろそろどちらを選ぶか決めないと」


 スレインの願いとは裏腹に、情勢はヴォルフガングに有利に動いている。ここまで来ると、ハーゼンヴェリア王国もいつまでも静観を維持できなくなる。

 ロイシュナー街道とザウアーラント要塞を擁するハーゼンヴェリア王国は、このまま永遠に中立を決め込むわけにはいかない。それは周囲が許さないだろう。

 不本意だが多数派となれる道を選びつつ、その選択をできるだけましなものにする次善策をとるか。あるいは覚悟を決めて、不利と知りながら最善の道を選ぶか。決断を迫られる日は近い。


「かしこまりました。陛下がご決断を成せるよう、心して情報収集に努めます」


 エレーナは優美な所作で一礼し、退室していった。

 スレインは椅子の背に身体をもたれかけ、ため息をひとつ吐く。


「……世の中はままならないものだね。オルセン女王の掲げた理想は素晴らしいものだけど、その理想だけを頼ってこの国を導くわけにはいかない。ヴァイセンベルク王の側につけば当面は穏やかでいられるけど、真に危機が迫ったときにどうなるか分からない」


 スレインはこの国の王家と、歴史と、土地と、共に歩む臣下や領主貴族たちと、そして五万人の民を守らなければならない。

 これら全ての運命を、自分の選択が左右する。今までのように、ただ目の前に迫り来る物理的脅威を打破すればいいというわけではない。長きにわたってこの国に影響を及ぼす、重大かつ繊細な政治的決断を迫られる。だからこそスレインの心は重い。


「そうですね。ですが、どちらにしても私は陛下のご決断を……っ」


 急に言葉を途切れさせたモニカをスレインが見ると、彼女の様子がおかしかった。真っ青な顔をして、具合悪そうに口元を押さえていた。


「っ!? モニカっ!」


「王妃殿下!」


 スレインと、副官として控えていたパウリーナが駆け寄ると、モニカはおそらくは無理をして笑顔を作ろうとする。


「大丈夫です、ただ、少し吐き気が……」


「待ってて、すぐに誰か呼んでくるから……パウリーナ」


「王妃殿下を寝室にお運びするために使用人を呼んでまいります。医師と鑑定魔法使いも」


 パウリーナはそう言って、執務室を飛び出して行った。


・・・・・・・


 スレインと、パウリーナに呼ばれてすぐに駆けつけたメイドの支えを受けながら、モニカは寝室に移動した。多少ふらつきながらも、自分の足で歩くことができた。

 それから間もなく、パウリーナに連れられて王家専属の医師と王宮魔導士である鑑定魔法使いが駆けつけた。

 優れた治癒魔法の使い手で、自身も王宮魔導士の一人である初老の女性医師は、ひとまずの対処療法としてモニカに魔法をかける。そうしてモニカの吐き気が落ち着いたところで、ここ最近の体調変化などをモニカに尋ねる。

 それと並行して、鑑定魔法使いがモニカの全身を魔法で調べていく。その結果、特に明確な病気などは見られないことが分かった。


「鑑定魔法に反応する病変がないことと、問診の結果から考えると……ご懐妊で間違いないかと思われます。貧血と吐き気はつわりによるもので、現在はおそらくご懐妊から二か月ほどでしょう。国王陛下、王妃殿下、おめでとうございます」


 医師がそう言って礼をすると、鑑定魔法使いも、スレインと共にモニカを運んだメイドも、パウリーナもそれに倣った。


「……そうか、良かった」


 数瞬遅れて、スレインは答えた。今はまだ喜びよりも、モニカが何かの病気ではないと分かったことによる安堵の方が勝っていた。


「とりあえず……このことは、正式に公表されるまで他言無用で頼むよ」


「もちろんです、陛下」


 スレインの言葉に、代表して医師が答える。

 王妃の妊娠というのはただ喜ばしいだけでなく、政治的にも重要な意味を持つ。まだスレイン以外の直系王族がいないハーゼンヴェリア王国では特に。発表するとしても機を計って準備をする必要があり、場合によっては当分秘匿することになる。

 そのことは、王家に仕えて働く者であれば全員がわきまえている。


「ありがとう。それじゃあ、君たち三人はご苦労だった。また何かあったら呼ぶから」


 スレインはそう言って、医師と鑑定魔法使いとメイドを下がらせる。


「……パウリーナ。この件をひとまずセルゲイに報告してきてほしい」


「かしこまりました。直ちにお伝えしてまいります」


 王妃の妊娠という重要事項を、いつどのように公表するべきか。最も適切な判断を下せるのは王国宰相のセルゲイである。だからこそ、彼には真っ先に報せておかなければならない。

 今はしばらくの間、モニカと二人になりたいというのもある。スレインのそんな心情をおそらくはパウリーナも察して、すぐに退室していった。

 二人きりになったスレインとモニカは、互いに見つめ合う。そして、どちらからともなく笑みを浮かべる。

 モニカの中に、自分との子供がいる。その実感が徐々に湧き起こる。


「……ありがとう、モニカ」


 スレインの口から最初に出たのは、感謝の言葉だった。感謝を伝えるべきだと思った。


「……嬉しいです。今、ここにスレイン様との子がいるのですね」


 モニカは少し頬を赤くしてはにかみながら、自身の腹部を優しく撫でた。モニカの目から、喜びの涙が一筋流れた。

 王として世継ぎを得たことへの喜びだけではない。愛する伴侶との間に、二人の愛の結晶を、新しい命を授かった喜び。この世に生きる人間としての、これ以上ないほど根元的な喜びを覚えながら、スレインはモニカに微笑む。モニカに寄り添い、抱き締め合い、口づけを交わす。

 そして――スレインの中でひとつ、決意が固まった。


「……オルセン女王の提唱する『同盟』の実現を目指したい」


 ふと、スレインは呟く。


「僕たちの子供に、これからこの国で生まれ育っていく全ての子供たちに、この子たちの世代が受け継ぐハーゼンヴェリア王国に、『連合』のような不安は残せない。残すのなら『同盟』のような希望がいい。希望を残すための挑戦をしたい」


 もし「連合」を選べば、一時的には平穏を保てるだろう。

 しかし、それでは今までと変わらない。歪で不安定な平穏で妥協しては意味がない。そんなものと引き換えに将来の真の安寧を失い、この国を、この国の民を顧みない相手に隷属する可能性を残しては駄目だ。子供たちにそんな未来を残してしまっては駄目だ。

 そんなことをしては、フロレンツの侵攻から決死の覚悟で国を守ってきた意味がない。付いてきてくれる臣下や民に、戦って死んでいった者たちに顔向けできない。

 だからこそ、自分は王として、より良き未来の可能性を選びたい。

 何らかの手段でヴォルフガングの影響力を極限まで削ぎ、その上でガブリエラの主導による「同盟」の結成を実現する。一人の王の野心から始まる枠組みではなく、一人の女王の理想から始まる枠組みに大陸西部とハーゼンヴェリア王国の未来を託す。そんな道を選びたい。

 そんな希望を、スレインは自分でも無意識のうちに語っていた。子の宿る腹部を優しく撫でるモニカを見て、この希望を実現しなければならないと強く思った。

 語ってからモニカと目が合い、ふと我に返って気まずさを覚えた。


「ごめん。こんなときに急にこんな話……」


「いえ、構いません。むしろ心から嬉しく思います」


 謝るスレインに、モニカはしかし優しい笑顔を向ける。


「この子が生きる未来のために、勇気をもって決意したあなたを誇りに思います。どうか、あなた自身の意思に従ってください……誰が何と言おうと、どう思おうと、あなたの決断は正しい。絶対に正しい。私はそう信じています」

 揺るぎない信頼を感じさせる表情で、一瞬も迷いを見せることなくモニカは言った。


「……分かった。やってみるよ。この子のためにも」


 腹部に置かれたモニカの手に自身の手を重ね、彼女の中にいる我が子を思いながら、スレインは答えた。

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