第83話 平穏な狭間

 三月の末。王城に隣接した王国軍本部では、新兵の訓練が行われていた。

 新兵のほとんどは、定期訓練を一度受けたことがあるだけの素人同然の者たち。中には法衣貴族や騎士の子弟も数人いるが、そうした者も武器を振るって戦う技術は多少あっても、長く軍務を遂行するための体力がまだない。

 なので、入隊して最初の数か月、新兵の訓練は体力づくりを中心に行われる。今年の新規入隊者は合計二十人。その全員が今、本部の訓練場で走り込みに励んでいる。

 それを指導しているのは、王国軍将軍たるジークハルトだった。


「足を止めるなよ、見習いども! 走ることさえできない者は王国軍には要らん! 国王陛下と王妃殿下の御前で潰れるような不敬な馬鹿がいたら、この俺が直々に軍から叩き出してやる! それが嫌なら気合いを入れろ! ……返事はどうしたぁ!」


「「「はっ!」」」


 ジークハルトが吠えると、新兵たちは苦しげな表情で一斉に応える。

 訓練場を走る新兵の群れの中に、今日は国王であるスレインと、王妃であるモニカもいた。

 先代国王である父がそうであったように、スレインは国王となってからも定期的に王国軍の走り込みに参加して兵士たちとの絆を深めている。王妃となったモニカは、自らの意思でそれに付き合っている。

 二年前から定期的に走り込みに参加し、モニカとの武芸の訓練も続けているスレインは、身体の線こそ相変わらず細いものの、王太子時代とは見違えて体力がついた。未熟な新兵と共に走れば、全体の中でも速い方になる。


「あと一周! 最後まで気を抜くなよ! 共に走る国王陛下と王妃殿下を、今まさに貴様らが護衛しているものと思え!」


 ジークハルトに檄を飛ばされながら、新兵たちは次々に走り終えていく。

 最初に規定の距離を走り終えたのは、騎士ヘンリクの息子ルーカス。その後には元荷運び労働者や狩人の息子など体力自慢の者が続き、スレインとモニカも十番以内の順位で走り終える。


「国王陛下、お疲れさまでございました」


「ありがとう。こうして兵士たちと汗を流すのは、やっぱり良いものだね」


 ジークハルトの労いの言葉に、スレインはパウリーナから受け取ったタオルで汗を拭きながら答える。

 スレインは多少息を切らしているが、その隣に立つモニカはまったく呼吸を乱していない。スレインにペースを合わせて走るのは、騎士資格を持つモニカにとって軽い運動に過ぎない。


「ルーカスは、やっぱり新兵の中でも優秀みたいだね」


「はい。さすがは騎士の息子というべきでしょうか。既に一兵士としては申し分ない実力を持っています……性格も実直で、他の新兵たちとも上手くやっています」


 スレインとジークハルトはそう話しながら、ルーカスに視線を向ける。

 ほとんどの新兵が疲れて座り込む中で、ルーカスは足をふらつかせることもなくしっかりと立っている。他の新兵たちを励ます余裕さえ見せている。

 謀反に加わった騎士の息子ということで、入隊当初はやはり微妙な扱いを受けていたものの、その真面目さをもって今では評価と居場所を得つつある。ジークハルトはルーカスについて、そのように語った。


「よかった。出自による呪いは乗り越えられる。そういう世の中であってほしいからね」


 王の息子。その出自を自らの意思で呪いから運命へと変えてみせたスレインが言うと、モニカが無言のまま、スレインに優しい笑みを向けた。


「……ところで、西部貴族たちとの連携強化の進捗はどうかな?」


「まったくもって問題ございません。いざという事態にも対処できるよう、西部貴族たちの領軍が即応し、王国軍が迅速に応援に向かう計画を立てております」


「そうか、なら大丈夫だね……もしかしたら、本当にその計画に頼ることになるかもしれない」


 スレインの言葉に、ジークハルトは表情を僅かに硬くする。


「今、大陸西部の国々は揺れているからね。この揺れが収まって新たな安定のかたちが見つかる前に、一波乱あるんじゃないかとも思ってる。あくまで勘だけどね。もちろんそれを避けて、平和的な外交での事態解決を目指すのが王である僕の役目だけど、政治に絶対はない」


「……お任せください。国を守るために武力が必要なとき、その武力となり、身命を賭して戦うのが我々の使命です。いかなる御命令にも即座にお応えできるよう、兵士たちを鍛えながら万全の体制を整えましょう」


 ジークハルトが力強い声で答えると、スレインは微笑を浮かべる。


「ありがとう。頼りにしているよ、将軍」


 そう言って離れていくスレインの背を見ながら、ジークハルトが思い出すのは亡きフレードリクだった。


「……」


 大陸西部は数十年にわたって平和を享受した。しかしそこには、誰もが無根拠にこの平和の継続を期待し、情勢を楽観視することによる歪みもあった。

 妥協的な平穏が終わりを告げ、大陸西部が変革していくときが、そうしなければならないときが遂に訪れたのかもしれない。

 フレードリクが王国軍を増強し、王権の強化を成そうとしたのには、このようなときの到来を見据える意味もあった。ジークハルトは臣下として、友として、フレードリクの口からそう聞いたことがあった。

 その遺志を、スレインは継いでいる。避けられない変革の只中を、この国と共に生き抜こうとしている。王として国を守ろうとしている。

 そんなスレインの臣下として、剣として、彼に使われることにジークハルトは喜びを覚える。


「フレードリク殿。彼はやはり、あなたの息子だ」


 亡き友を思い、ジークハルトはそう呟いた。


・・・・・・・


 ヴォルフガング・ヴァイセンベルクの提唱する「連合」、あるいはガブリエラ・オルセンの提唱する「同盟」。そのどちらに付くべきかで大陸西部全体が揺れる中でも、社会の営みは続く。社会を構成する大多数の民にとっては、為政者たちの悩みなど自分には関係ない。

 なので国王であるスレインは、「連合」か「同盟」か、という大きな問題に向き合いつつも、王国社会を維持するための地道な治世も平常通りこなす。

 三月の末。この日は国王スレインと王妃モニカ、そして重臣たちが集う国家運営定例報告会議――通称、定例会議が開かれていた。

 会議の中盤、報告のために立ち上がったのは、農務長官ワルター・アドラスヘルム男爵と文化芸術長官エルネスタ・ラント女爵だった。

 報告内容は、ハーゼンヴェリア王国におけるジャガイモの普及について。


「まずは私から、王領の市井におけるジャガイモ食普及のための情報操作に関するご報告を……結論から申し上げると、想定以上の成功を見せております。やはり、ザウアーラント要塞攻略という歴史的偉業を達成された陛下のご活躍が、大きな影響をもたらしている模様です」


 最初に語り始めたのはエルネスタだった。文化芸術長官として国内の芸人や芸術家を管理する彼女は、吟遊詩人や旅役者などを使って王家に都合の良い情報を広める実務も担っている。

 王都の民との対話や、度重なる戦勝によって、王領民のスレインへの支持は厚い。その支持を活かし、ジャガイモという未知の食物を彼らに知らしめ、祭りの場などで一度口にさせるところまでは成功した。

 次に目指すのは、王領民の日常的な食事の中にジャガイモという選択肢を加えること。彼らが自ら進んでジャガイモを口にしたがるようにするため、スレインはエルネスタに命じて、情報操作をさせていた。

 具体的には、王領の吟遊詩人や旅役者がスレインのザウアーラント要塞攻略を武勇伝として伝え広める際に、スレインがジャガイモを食す描写を挟むことを奨励した。


「歴史に残る英雄であらせられる陛下が日常的に食されているのがジャガイモ。すなわちジャガイモとは、英雄の食事である……ジャガイモを食すのは、とても格好いいことである。王領の民は、皆そのように考え始めているようです」


「あはは、面白いくらいに狙い通りだね」


 スレインが苦笑すると、エルネスタもそれに微苦笑で答えた。

 民の娯楽は少ない。そんな彼らにとって吟遊詩人の詩や旅役者の演劇は、最新の話題を楽しく提供してくれる貴重な娯楽。その中で語られた物事は、ときに民の間に流行を巻き起こす。

 そこを突いた王家の狙いは無事に成功し、ジャガイモ食は王領民の新たな流行となった。一度こうして広まれば、一過性の流行が収束した後もジャガイモは主食のひとつとして民の生活の中に残ると期待できる。


「これに伴い、食用あるいは栽培用として、王領におけるジャガイモの需要が急増しております……そのため、市場において価格の高騰が見られます。昨年までの平均価格と比較すると、二倍程度になっているようです」


 エルネスタから説明役を引き継いだワルターが、そのように語った。


「それはよくないね……本末転倒だ」


 麦より安価で大量栽培も容易で、貧困層も安く腹を満たせる主食。スレインはジャガイモをそのような作物として普及させたいと考えている。民がジャガイモを進んで口にするのは喜ばしいことだが、それでジャガイモが高級食材と化していたら意味がない。


「陛下のご懸念はご尤もです。そのため、王家所有農地で現在栽培している春作のジャガイモを収穫した後、当初の予定より多くの量を食用として市場に卸すことを提案いたします。それによって秋作のための種芋が不足する点は、ジャガイモが普及している南の島国スタリアよりまとまった量を輸入することで補えるかと存じます」


 そう言って、ワルターは種芋を追加で輸入するための費用の概算を提示した。


「セルゲイ、どうかな?」


「十分に許容範囲内かと存じます。ジャガイモの普及は早く進むに越したことはありません。市井へのジャガイモ食の定着を進めるための費用と考えればよろしいかと……それに、王家所有農地で収穫されたジャガイモを市場に卸せば、その売上は王家の収入となります。種芋の輸入費用もある程度は埋められるでしょう」


 ワルターの示した概算についてスレインが意見を求めると、セルゲイは宰相の立場からそのように答える。


「そうか。セルゲイがそう言うなら問題ないだろうね。ワルターの案で進めてほしい」


「御意」


 ワルターは一礼し、報告を終えたことでエルネスタと揃って着席する。


「それでは、次の者、報告を」


 そして、セルゲイの進行に従って定例会議は続く。

 その後の報告は平穏なものばかりで、特に対策が急ぎ必要なことはない。王領は平和であり、帝国に動きはないのでザウアーラント要塞も平和を保っており、領主貴族たちと王家の関係も良好。ヴァインライヒ男爵領の開拓も上々の滑り出しを見せている。

 ジャガイモ食の普及という、今の内政において最重要の事項も、こうして多少の調整は必要としつつも順調に進展している。

 問題は王国の外にある。今このときも、大陸西部の情勢は少しずつ動いており、その情報収集がなされているだろう。

 その証拠に、外務長官エレーナは今日は不在だった。彼女は今頃、部下たちと共に国外で情報をかき集めている。


「……」


 ため息をつきたくなる衝動を堪え、スレインは努めて平静に臣下たちの報告に耳を傾ける。

 悩みは尽きないが、これが国王の人生だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る