三章 大陸西部の騒動

第75話 新しい副官

 王国暦七十八年の十月。ハーゼンヴェリア王国の第五代国王スレイン・ハーゼンヴェリアは、アドラスヘルム男爵家の令嬢モニカを妻に迎えた。モニカがスレインの妻となったことで、空白となっていた王妃の席は無事に埋まった。

 この喜ぶべき変化によって、しかし新たに埋めるべき空席も生まれた。スレインの日常的な執務を補佐する、国王付副官の席だった。

 小国の王妃ともなれば優雅に遊んで暮らすわけにはいかず、モニカ自身もそのつもりはない。もともと極めて優秀なモニカは、今後も王族として日々執務に就き、スレインを傍で支えていく。

 とはいえ、副官を置かないわけにはいかない。スレインの仕事の細かな補佐や事務雑務はさすがに王妃にさせられる仕事ではない上に、いかなモニカも世継ぎを出産する前後はさすがに働くことはできない。そのため、副官の専任者は必須だ。

 というわけで、王国宰相セルゲイ・ノルデンフェルト侯爵の選定によって、貴族子弟の中から新たにスレインの副官となる者が選ばれた。


「国王陛下。本日よりブロムダール子爵家の嫡女であるこのパウリーナ・ブロムダールが、陛下の副官の任を務めます」


 執務室で席についているスレインと、この部屋に王妃としての執務机を持ち込んで共に座るモニカの前で、セルゲイがそう説明する。


「パウリーナ・ブロムダールにございます。これより王家の忠実なる臣として、身命を賭して務めを果たしてまいります」


 セルゲイの説明に合わせ、整った所作で礼をしたのは、深緑色の髪を後ろでひとつにまとめ、白磁のような肌に薄く化粧をした、生真面目そうな雰囲気の若い女性だった。

 パウリーナ・ブロムダール。典礼長官を務めるヨアキム・ブロムダール子爵の長女で、いずれブロムダール子爵家の家督を継ぐ予定の人物。年齢はモニカと同じで、今年十九歳。重臣の継嗣なので、スレインも彼女の顔と名前程度は把握している。


「パウリーナ、顔を上げて」


「かしこまりました」


 スレインの許しを受けて、パウリーナは礼の姿勢を解く。


「君の評判は聞いているよ。君のような優秀な文官が僕の副官を務めてくれるのは心強い。これからよろしく」


「身に余る光栄なお言葉です。陛下のご期待にお応えできるよう奮闘してまいります。何卒よろしくお願い申し上げます」


 微笑を浮かべながらパウリーナと言葉を交わしたスレインは、執務机に置かれたお茶のカップに口をつけ、残り半分も入っていなかったお茶を飲み干す。


「陛下、よろしければお茶のお代わりをお持ちします」


「ありがとう。それじゃあ頼むよ。モニカとセルゲイと、後は君の分も淹れてくるといい……副官としての初仕事だね」


「はい。直ちにご用意します」


 スレインが笑いかけると、パウリーナは引き締めていた表情を僅かに崩して頷き、退室する。

 室内が自身とモニカ、そしてセルゲイだけになってから、スレインはセルゲイを向いた。


「セルゲイ」


「はっ。何でございましょうか」


「僕は法衣貴族たちの子弟のことまで詳しく知ってるとは言い難いから、宰相である君に副官人事を一任した。だから君の選定に異議は唱えない。だけど一つ聞かせてほしい」


 微笑を浮かべたまま、しかしそこに若干の困惑の色を込めて、スレインは言葉を続ける。


「どうして新しい副官もまた女性なの?」


 スレインはこの話をするために、わざとカップのお茶を空にしてパウリーナをお茶淹れのために離席させた。おそらくはパウリーナもそれを察してくれている。


「陛下がどのようなことを懸念されているかは私も理解していますが、パウリーナ・ブロムダールについては心配はございません。彼女は真面目で、王国貴族として節度をわきまえています。主君と臣下の一線を越えようとはしません」


「あら、それは私への非難でしょうか? 王国宰相殿」


 セルゲイの言葉を聞いて、モニカが可笑しそうに言った。モニカは副官だった頃にスレインに恋をして、想いを伝えて、スレインと男女の仲になっている。


「とんでもございません、王妃殿下。殿下が陛下と結ばれた当時、陛下は独身でいらっしゃいました。今、陛下には王妃殿下という伴侶がいらっしゃいます。そのような状況で陛下に分不相応な感情を抱くことは、パウリーナはしないと、私はあくまで申し上げているのです」


 モニカの問いかけに、セルゲイは表情を変えないまま首を横に振る。明らかな冗談に真顔で返すセルゲイを見たスレインは、思わず小さく笑う。

 モニカも同じように笑いながら、彼女は今度はスレインの方を向いた。


「陛下。パウリーナさんは私にとって友人の一人でもあります。私は彼女を信頼しています。彼女は私以上に真面目な女性ですから、宰相殿の仰る通り問題ないでしょう……それに、日頃の執務中は私も常にあなたの傍にいます。私がパウリーナさんに妬かなければならない場面は全くと言っていいほどないと思いますよ」


「……確かに、モニカの言う通りだね」


 城館には王妃用の執務室もあるが、モニカはスレインの執務室に自分の机を持ち込み、今まで通りスレインと顔を合わせながら仕事をすることを選んだ。今後はスレインとモニカ、そしてパウリーナが三人で同じ部屋に座り、仕事をすることになる。

 そして、一日が終わればパウリーナは城館に与えられた自室か貴族街にあるブロムダール子爵家の屋敷に帰り、スレインとモニカは二人で夫婦水入らずの時間を過ごす。

 仕事中も私的な時間も朝から晩まで一緒にいるのだから、モニカがスレインの浮気を心配する必要はない。少なくともモニカが執務を続ける当面は。


「それに、例えば私が陛下との子供を産むために仕事を休んでいる間に、陛下がパウリーナさんを魅力的に感じてどうしても我慢できなければ……パウリーナさんが嫌がらないのであれば、私は構いませんよ? 英雄は色を好むといいますから」


「いや、それはないよ。僕は生涯モニカだけを愛すると決めてるから。君だけを愛して、君だけと子供を作る。君以外の女性とは愛し合わない」


 いたずらっぽく笑うモニカに、スレインは苦笑しながらも真摯な声で即答する。


「……そう、ですか。嬉しいです、スレイン様」


 モニカは喜びに満ちた甘い笑顔を浮かべ、頬を少し赤くして言った。


「陛下におかれましても、やはり心配する必要はなさそうですな。何よりです」


 そのとき。軽い咳ばらいの後にセルゲイが言った。少しばかり呆れ気味な声色で。

 スレインとモニカはやや慌てながら表情を戻す。セルゲイは信頼のおける重臣だが、彼の目前で夫婦の甘いやり取りを見せるのはさすがに恥ずかしい。


「パウリーナ・ブロムダールを新たな副官に選んだのは、純粋に立場と能力を見た結果です。今のハーゼンヴェリア王国において、国王陛下を副官として補佐する上で最適な人材が彼女であると、私が責任をもって判断いたしました」


 ブロムダール子爵家は二代続けて典礼長官を輩出しており、パウリーナもこのまま父親の典礼長官職を継ぐ予定。その前提で官僚として経験を重ねている彼女は、次期典礼長官として国家運営の裏方を担う調整業務に秀でており、十分以上に有能。

 ザウアーラント要塞を奪取してガレド大帝国との対立が一段落したとはいえ、まだまだ微妙な情勢の只中に置かれているハーゼンヴェリア王国で、これからも内政から外交まで忙しいであろう国王を補佐するのにパウリーナは申し分ない人材である。セルゲイはそう語った。


「そうか。まあ、セルゲイがそう言うのなら間違いないんだろうね……分かった。パウリーナが適任者として副官を務めると納得したよ」


 スレインがそう答えてから間もなく、お茶の載ったお盆を手にパウリーナが帰ってきた。


・・・・・・・


 セルゲイやモニカの言葉通り、パウリーナは国王付副官という役職に適した能力を持つ、有能な人材だった。

 いつも生真面目な態度で職務に臨み、かといって冷たさは感じさせず、雑談を振ればそれに応じてもくれる。モニカとも、副官としての職務中は一臣下としての態度で、しかし堅苦しくなりすぎない程度の上手な距離感で言葉を交わしている。

 仕事ぶりも全くもって問題ない。予定の管理、各方面からの報告の伝達、書類整理、執務に必要な資料の用意、休憩時のお茶淹れ。どれも迅速に、スレインが仕事をする上でストレスのないようにこなしてくれる。文官としての能力は、副官時代のモニカと比較しても遜色ない。

 パウリーナが副官となって数週間が経った頃には、スレインとモニカと彼女で王家の仕事をスムーズに回す体制が形作られていた。


「陛下。明日のご予定ですが、午前中にユルギス・ヴァインライヒ男爵との会議が入っております。議題は冬明け以降のヴァインライヒ男爵領の開拓について。会議には宰相閣下とアドラスヘルム男爵閣下も参加されます」


 ある日の夕方。一日の執務を終えようとしていたスレインに、パウリーナが翌日の執務予定をそう説明する。


「ああ、そうだったね。ユルギスももう王城に到着してる頃合いか」


 秋のザウアーラント要塞攻略戦の後、ユルギスは旧『ウルヴヘズナル』団員を率いてそのまま要塞に駐留している。領主貴族になったとはいえ、肝心の領地がまだ村ひとつない地であるため、ユルギスは自身の領民となった部下たちと共に要塞の防衛戦力として冬を越す。

 しかし冬が明ければ、王家の援助のもとですぐにヴァインライヒ男爵領の開拓が始まる。開拓に向けた話し合いのため、冬に入って帝国が要塞奪還に動く可能性が皆無となったこのタイミングでユルギスは王城に召喚された。


「客室は今日の午前中のうちには用意されているはずなので、ヴァインライヒ卿も今頃は休息をとられているかと思います……彼はグルキア人ですが、王国貴族として適切に遇するよう厳命していますので、使用人たちの対応も問題ないはずです」


「そうか、ありがとう。いくら精強な傭兵だったとはいえ、彼も冬の移動で疲れただろうからね。快適に過ごしてもらえてるならよかった」


 パウリーナが語った後半――使用人たちへの厳命については、スレインのもともとの指示ではない。彼女の配慮にスレインは感謝を伝えた。


「……そうだ。今日の王家の夕食に彼を招待することはできないかな? 仕事の話をするわけじゃなくて、純粋に彼を労うために」


 要塞攻略を終えてから、スレインはユルギス個人とあまりゆっくり話せていなかった。これから主従として付き合っていく上で、食事を共にしながら気楽に語らう機会は重要だ。

 しかし既に夕刻なので、今から準備するとなると時間的に厳しいだろうか。スレインはそう思いながら駄目元で言ったが、パウリーナはすぐに頷いた。


「城館の厨房は急な会食にも対応できるよう毎食多めに作っているはずなので、問題ないかと。ヴァインライヒ卿にもこれからすぐにお伝えします」


「よかった。それじゃあ頼むよ」


「かしこまりました。直ちに」


 パウリーナは一礼し、執務室を出ていく。

 その後ろ姿を見送り、スレインはモニカと顔を見合わせた。


「……彼女、やっぱり優秀だね」


「そうでしょう? 私の自慢の友人ですから」


 モニカが誇らしげに笑い、それを見てスレインも微苦笑する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る