第74話 愛②

 ガレド大帝国の帝都ザンクト・エルフリーデンは、帝国領土の中央南部、巨大な河川に面して存在する。

 建国の母たる女帝の名を戴いたこの都市の人口は六十万とも七十万とも言われ、正確なところは把握されていない。ここだけで軍事力、経済力ともに中規模の国家に匹敵する力を持った巨大都市として、超大国たる帝国の心臓として、その名は大陸中に轟いている。

 そのザンクト・エルフリーデンの西側、市街地を正面に、大河を背にする位置に、皇帝家の皇宮は広大な敷地をもって存在する。

 この皇宮の謁見の間に、皇宮の主であり、帝国それ自体の主である第十九代皇帝アウグスト・ガレド三世はいた。

 豪奢な玉座に座り、こちらを見下ろしているアウグストの視線を感じながら、その三男であるフロレンツ・マイヒェルベック・ガレドは跪いていた。


「……顔を上げよ、フロレンツ」


「はい、父上」


 帝国の頂点に立つ父親の許しを得て、フロレンツは顔を上げ、アウグストと顔を合わせる。

 父も歳を取った、とフロレンツは思う。

 既に齢六十を超えたアウグストは、自ら剣をとって東部国境や北部国境で兵を鼓舞し、戦った若き日の面影を、もうあまり残してはいない。決して良い意味で老成したわけではなく、ただ単にくたびれた老人となり、覇気も薄いまま惰性的に治世をこなすようになって久しい。

 そのアウグストは、今は呆れたような表情でフロレンツを見ていた。


「フロレンツよ。西部国境の直轄領を任せていたお前を、この帝都まで呼び寄せた理由は分かっているな?」


「もちろんです。貴族たちからの借金の件、そしてザウアーラント要塞での敗戦の件。昨年の侵攻失敗も合わせると、三度も立て続けに失態を重ねることとなってしまいました。本当にお恥ずかしい限りです」


 問われたフロレンツは、そう答えながら苦笑した。

 フロレンツは皇妃の産んだ息子ではない。アウグストの愛妾であったマイヒェルベック男爵家出身の令嬢が、アウグストの子を欲した結果、産まれた子だ。

 その令嬢はフロレンツを出産して間もなく、事故で急逝した。だからこそアウグストは、突然この世を去った愛妾によく似ている、帝位継承権争いの枠の外にいるフロレンツを父親としてただ溺愛した。

 自分は父に愛されている。その絶対の自信があるからこそ、フロレンツはこの場においても苦笑することができた。

 しかし、今までなら困ったように笑い返してくれた父は、未だ呆れた表情をフロレンツに向けていた。


「……父上?」


 いや、違う。

 フロレンツは父の目をよく見て、気づいた。そこにあるのは呆れではない。失望の色だった。

 目に浮かべていた失望の色を、アウグストは今度はため息に乗せて吐き出す。


「フロレンツ、お前は何か勘違いをしているようだ。確かに私は昨年、お前が独力でハーゼンヴェリア王国侵攻を成したいと言ったとき、皇帝としてそれを許した。お前の野心と、その野心を満たすための努力を認めた。だが、どうやらお前はこのことの意味をはき違えている……いいか、フロレンツ。自らの意思で兵を動かす。それは皇族として大人になるということだ。昨年に侵攻へと踏み切った時点で、お前はマクシミリアンたちと同じ場に立ったということだ」


 今までと違う父の表情に、声色に、フロレンツは驚き固まる。


「フロレンツ。私はお前が大人になろうとしていることを、嬉しく思ったのだ。だからこそ、本当はまだ諍いを起こさないに越したことはない状況で、大陸西部の小国にお前が侵攻することを許したのだ。お前が真に大人になるためだから許しを与えたのだ。全てはお前のためだ」


 そこまで言って、アウグストの視線が鋭くなる。枯れた皇帝の中に幾ばくか残っている、超大国の支配者としての気迫が、その目から放たれてフロレンツに刺さる。


「それなのに、お前のその様は何なのだ。お前がしでかしたこの結果は何なのだ。一度敗けるのはまあよい。そのようなこともある。しかし二度敗けるどころか、勝手な借金をした上によりにもよってザウアーラント要塞を奪われるなど。全く……全くもって、情けない。情けないこと極まりない。これが私の息子とは」


 老いた父親の冷たい叱責がくり広げられるこの謁見の間には、宮廷貴族も居並んでいる。

 そしてアウグストに近い位置には、皇太子であるマクシミリアンも立っている。本当は早く東部戦線に帰りたいと思いながら、しかし父に命じられて、異母弟フロレンツに下される沙汰を見届けるためにこの場に同席している。

 そして、目の前でくり広げられる茶番を不愉快に思いながら見守っている。

 確かにフロレンツは無能であり、ザウアーラント要塞を隣国に奪われたことは歴史に残る大失態と言える。しかし、そもそもの原因はフロレンツにハーゼンヴェリア王国侵攻を許したあなただろうと、マクシミリアンは父を横目に見ながら思う。

 ガレド大帝国から見て大陸西部の小国群は、無益かつ無害……よりもやや有益寄りの存在。平穏に付き合っておけば、貿易などである程度の利益を得ることができる。争わずにおけば、西部国境にまとまった数の兵を割かずに済む。

 それなのにアウグストは、愛妾の遺児であるフロレンツを可愛がるあまり、彼が大陸西部へとちょっかいを出すことを許した。大失態とまでは言わないが、国益を損なうことは違いない決断だ。老い枯れる前のアウグストであれば、このような決断は絶対にしなかっただろう。

 マクシミリアンに言わせれば、フロレンツを名代として西部国境に送り込み、直轄領の統治と大陸西部との外交を任せたこと自体が間違いだ。

 フロレンツはその出自から宮廷社会で苦労したため、表面上は馬鹿ではない善人として振る舞うことができる。しかし、その本質はひどく歪んでいる。責任ある立場を務められる器ではない。

 だからこそ、目の届かない辺境などに送らず帝都に置き、文化芸術でも覚えさせ、遊ばせておけばよかったのだ。

 マクシミリアンは泣きべそをかき始めた異母弟を見ていられず、視線を逸らす。と、この場を囲む宮廷貴族たちがフロレンツに侮蔑の視線を向けているのが目に入る。彼らの視線を見て、マクシミリアンの不快感は大きくなる。

 大国の宮廷社会が腐るのは世の常。それでもアウグストが若く活力のあった頃には、彼の手によって宮廷に蔓延る腐敗の多くが貴族の血と共に一掃された。しかし、それから三十年も経てば新たな腐敗が蔓延り、今では宮廷貴族の多くが既得権益のぬるま湯に浸かっている。

 だから帝都に長くいるのは嫌なのだ。

 早く東部戦線に帰り、自分が三十代のうちには大勝を収めて東部の隣国との戦いを一段落させ、その成果をもって帝位を継ぎたい。そして帝都に舞い戻り、腐敗した宮廷貴族どもを粛清したい。清く強い帝国を取り戻したい。

 フロレンツのために西部国境などという辺境に足を運んだり、このような茶番で時間を浪費したりする暇は自分にはないのだ。


「……まあいい。お前が勝手に抱えた借金は、国庫から貴族たちに返せばそれで済む。ザウアーラント要塞を失ったのは痛手だが、奪ったのは虫のような小国だ。これで我が国の西部国境が直ちに危機に陥るというわけでもない。いくらお前を責めても、今さら仕方あるまい」


 この場にいたくないというマクシミリアンの思いが通じたのか、アウグストはフロレンツへの小言のような説教を終える。


「話は変わるが、お前とこうして直に会うのはほぼ二年ぶりだったか。お前に侵攻の許しを与えたのは手紙でのことだったからな……前に会ったときよりも、顔立ちが男らしくなったか」


「……っ! ち、父上!」


 半泣きになっていたフロレンツは、父のそんな言葉に希望を見る。父がまた、優しい表情を自分に向けてくれるのではないかと期待する。

 しかしその期待は、次の瞬間には打ち砕かれる。


「こうしてよく見ると、随分と男らしくなった。男らしくなって……エメリーヌの面影が全くなくなってしまったな」


 アウグストはそう言って、フロレンツから視線を外した。


「……あぁ」


 父がたった今、自分に対して欠片の興味も失ったのだと、フロレンツには分かった。

 同時に、何故今まで自分が父から溺愛されていたのかも理解した。

 フロレンツの母エメリーヌは、皇帝の愛妾になるだけあって非常に美しい女性だった。自分が赤ん坊の頃に早逝した母の顔をフロレンツは肖像画でしか知らないが、確かに美しかった。

 そして、フロレンツは母によく似ていた。中性的で端整な顔立ちをしていた。フロレンツのこの容姿を、父もよく褒めてくれた。お前は母親にそっくりだと、エメリーヌに本当によく似ていると、慈愛に満ちた笑顔で語ってくれた。

 母に似たこの顔立ちは、フロレンツにとって誇りだった。しかし齢二十を超えた頃からは、努力をしなければこの顔立ちを保てなくなった。

 そして、二十代半ばに入ってからのこの二年ほどで、また目に見えて体質が変わった。たとえ努力をしても、中性的な美青年ではいられなくなってきた。肌のきめ細かさは失われ始め、剃っても青い跡が残る程度に髭が濃くなり、髪も硬くごわつくようになってきた。

 決して顔立ちが醜くなっているわけではない。あと五年もすれば中年にさしかかる男として考えると、むしろ年相応の魅力が出てきたと言える。 

 しかし、それは父に愛される魅力ではないのだと、今思い知った。父がフロレンツに求めていたのは母エメリーヌの面影だったのだ。父が愛していたのはフロレンツ自身ではなく、フロレンツの顔が呼び起こすエメリーヌの記憶だったのだ。

 それはもはや、フロレンツの中から失われた。だから父はこれほど冷たく自分を叱責したのだ。そして、父が再び自分に甘く接してくれることは二度とない。

 父はもう、自分を愛してはくれない。

 そのとき、フロレンツの中で何かが切れた。


「あぁ、ああぁ、ああああぁぁぁぁああああーーーーっ!!」


 頭を抱えて天井を見上げ、その場に膝をつき、絶叫する。フロレンツのその行動に、アウグストも宮廷貴族たちもぎょっとした表情を見せる。

 マクシミリアンも、面食らって唖然としながらフロレンツを見る。


「ああああーーっ!! 父上! 父上父うえちちうええええぇぇぇぇーーーーっ!!」


「な、何なのだ一体」


 倒れ込むように両手を床につき、そのまま四つん這いで玉座へと近づくフロレンツに、アウグストは不気味な魔物でも見るような顔を向ける。嫌悪の感を顔に浮かべながら、思わずといった様子で玉座から腰を浮かせる。

 いかな皇子と言えど、これほどまでに尋常でない様相を浮かべながら皇帝に近づけば、皇帝の安全を脅かす対象と見なされる。アウグストの傍に控えていた近衛兵たちが動き、フロレンツを押さえにかかる。


「第三皇子殿下!」


「どうか落ち着かれてください!」


「ああぁぁっ嫌だ! 嫌だああああぁぁっ! 父上! 父上ええぇぇーーっ!」


 皇帝の子であるフロレンツを、近衛兵たちはできるだけ無傷で取り押さえようとする。フロレンツは肉体的に屈強なわけではないはずだが、四つん這いという異様な体勢のためか、精鋭の近衛兵たちでも彼を拘束することにやや難儀する。

 それでも数人がかりでフロレンツを羽交い締めにし、無理やり立ち上がらせると、ひとまず謁見の間から退室させようと引きずっていく。


「うわああああぁぁぁぁ父上ええぇぇちちうえええええぇぇぇぇ……」


 フロレンツの不気味な絶叫は、大きく分厚い扉の向こうに消えていった。


「まったく、大失態の責を問われる場で乱心とは……皇帝の息子が何たる様だ。マクシミリアン、お前も驚いただろう」


「……ええ、まあそれなりに」


 アウグストは額の汗を拭いながら言った。マクシミリアンはそれに無機質な声で答える。

 かつては大胆かつ精強な為政者だったアウグストは、もともと人の心の機微を読み取ることとは無縁。フロレンツの乱心の原因が自分の言動にあると微塵も理解していない様子の父に、マクシミリアンは内心で呆れる。


「本当であれば、此度の失態の責をとらせて当面は城内で謹慎させておくつもりだったが……気が触れたとなってはな。とりあえず治癒魔法使いと医者に見せればいいのか?」


「畏れながら父上、フロレンツの心は完全に壊れきったと見えます。治癒魔法使いや医者は身体の病を治すことには長けていますが、心の病となっては対処しようもありますまい」


「ではどうすればいい?」


 良くも悪くも神経が太く、心の病などとは無縁のアウグストは、心底面倒そうに尋ねる。


「……心を癒す上で、最良の薬は時間だと聞きます。フロレンツをどこか穏やかな地に送り、静養させるのが良いでしょう。そうして時間が経てば、あ奴も良くなるかもしれません」


「そうか。お前がそう言うなら、そうすることにしよう……あ奴がこのまま正気に戻らないとしても、どこか帝都から遠い保養地にでも閉じ込めておけばもう面倒は起こすまい。これ以上、あ奴には悩まされたくないものだな」


「……ええ、仰る通りです」


 父はあれほど愛していたフロレンツに、もう欠片も愛情や興味がないのだと、マクシミリアンも思い知りながら返す。

 愚かで憐れな異母弟を気の毒には思うが、そう思うだけだ。マクシミリアンもこれ以上、フロレンツのことを考えているわけにはいかない。早く東部国境に戻らなければ。


 フロレンツ・マイヒェルベック・ガレド第三皇子が心を病み、帝都から遥か遠くにある保養地に軟禁されたという話は、彼が謁見の間で見せた異様な言動と併せて、帝国の宮廷社会をしばらく賑わせた。

 しかしその話題も、数週間もすれば飽きられ始め、数か月もすれば滅多に語られなくなる。

 フロレンツは社会から忘れ去られていき、そのまま思い出されることもなくなっていく。


 彼が新たに何かをしでかさない限り。



★★★★★★★


ここまでが第二章となります。お読みいただきありがとうございます。


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明後日の更新から第三章スタートです。

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