第72話 帝国との対話②

 スレインの返答を聞いたマクシミリアンは、怪訝な表情を見せた。


「何故だ? 貴国の王家の年間収入を上回る額を提示したはずだが。貴殿にとっては申し分ない代価だろう」


「もちろん、要塞一つを明け渡す代価としては、申し分ないどころか破格のものでしょう。ですが……安寧を明け渡す代価としてはあまりにも安すぎます」


 スレインは微笑を浮かべたまま語る。マクシミリアンはスレインを見据える目をスッと細める。


「安寧だと?」


「ええ、安寧です。ハーゼンヴェリア王国の存在する大陸西部と帝国の平穏な関係は、歴史に裏打ちされた信用から成立してきました。帝国は大陸西部に侵攻の意思を示さない。それが実に百年近くも続くことで、大陸西部は帝国との友好を成せると考えてきました。それは間違いでした」


 小国が立て続けに建国されていった時期よりも前から、帝国は大陸西部に牙を剥かなかった。その裏には、帝国の東部や北部に油断ならない敵対国が誕生したという事情があった。

 帝国は二正面の戦いに注力しており、一方で大陸西部とは穏便な関係を構築していくことを選んだ。経済的な繋がりを保ち、何事も起こらない穏やかな関係を維持する道を選んだ。

 だからこそ、大陸西部の国々は信じていた。平穏な結びつきを長年強めてきた帝国とは、もはや大規模な戦いは起こらないと。

 自分たちが生まれる前から、自分たちの国が誕生する前からこの状況なのだ。少なくとも、ある日突然に事態が急変することはない。今はもう、そういう時代なのだ。皆がそう考えていた。

 その期待は昨年、打ち砕かれた。百年近い歴史に裏打ちされた経済的な結びつきは何の担保にもならないと、ハーゼンヴェリア王国は思い知った。他の国も同じだろう。


「だからこそ、どれほどの代価を提示されようと、ザウアーラント要塞を貴国に返すことはできません。貴国は貴国の気分次第で、いつでもこちらに牙を剥くことができると分かった。しかしザウアーラント要塞を確保しておけば、我が国は貴国の牙を今までより遥かに容易に防ぐことができる。この状況で、どうして要塞を貴国に明け渡すことができましょう。私は王として国を、民を守らなければならないのです」


「……では、帝国がザウアーラント要塞を力づくで取り戻すと言ったら?」


「本当に帝国はそのようなことをなさりたいのですか?」


 スレインは首を傾げながら問いを返した。

 帝国の人口は一千万を超える。継続的に動員できる兵力は、常備軍や貴族領軍、徴集兵を合わせて十五万程度。そのほぼ全てが東部国境と北部国境での紛争、そして南部沿岸の防衛や国内の治安維持に回っている。スレインはセルゲイやジークハルト、エレーナからそう聞いている。

 この上でザウアーラント要塞を攻略することに、帝国が兵力を割きたいわけがない。

 ザウアーラント要塞は単純に大軍をぶつければ落とせるものではない。正攻法で戦うのならば、ザウアーラント要塞は今のところ無敗の防衛拠点だ。数百の兵を常駐させ続けることさえできれば、正面から来る如何なる軍勢も退けられる最強の要塞だ。


「確かに、我が国はザウアーラント要塞を奪取しました。しかし此度の戦いは、我が国にとってはあくまでも国家防衛のためのもの。我が国がこの要塞の支配権を維持しようとしているのも、やはり国家防衛のためです。我が国には帝国に逆侵攻をするような国力もなければ、そんな無謀なことをする理由もありません。つまり、我が国がこの要塞を手に入れたとしても、貴国にとっては何らの脅威でもありません。今、あなた方が無理に実力行使をする意味はないかと思いますが」


 スレインはそう語った。帝国はザウアーラント要塞をハーゼンヴェリア王国に奪われたままでも問題ない。無理に取り返そうとする意味はない。そんなことをしてもお互い無駄に血を見るだけになる。だからひとまず現状維持で構わないではないか。そう説いた。

 要塞を巡ってこれ以上武力で争いたくないのは、ハーゼンヴェリア王国とて同じだ。

 スレインに鋭い視線を向けていたマクシミリアンは――また、ため息をひとつついた。


「やはりそう言うか。そうだろうな。私が貴殿の立場でも同じようなことを言う」


 マクシミリアンが呟いた言葉を、スレインは少し意外に思った。


「私がそちらの提案を拒否すると予想しておられたのですか?」


「ああ。ザウアーラント要塞は帝国にとっても極めて重要なものだったのだ。それをハーゼンヴェリア王国が手に入れたとなったら、何を提示されても手放すわけがない。帝国にとっては取るに足らない極小国とて、守るべきものも、それを守るために考える頭もあろう。こんな提案が承諾されるわけがない……皇帝陛下にもそう言ったのだがな」


 頭痛でも覚えているのか、マクシミリアンは指先で眉間を押さえる。


「父は偉大な方だが、歳をとられた。強大な帝国を治めるお立場に長年おられたことで、お考えには偏った部分もある。極小国の王など、金を積めば簡単に言うことを聞くだろうと高を括っておられた。私の危惧した通り、結果は違ったようだがな」


「……」


 身内の愚痴を平然と語る。語っても問題ないと考えている。そのことからも、マクシミリアンがハーゼンヴェリア王国を軽視していることが分かる。

 フロレンツよりはよほど理屈で話し合えそうな人物だが、やはり帝国の皇族だ。小国を軽んじることに慣れている。


「講和による要塞の明け渡しは失敗。それは仕方あるまい。貴国には帝国に逆侵攻を仕掛ける国力も理由もないので、要塞は貴国に奪われたままでも問題ない。確かにその通りだ。まあ、仮に貴国が帝国に攻め入ってきたとしても、こちらとしては別に脅威でもないが」


 鼻で笑いながら語るマクシミリアンに、スレインは何も言い返さない。

 ガレド大帝国の人口は一千万を超える。ハーゼンヴェリア王国と国境を接する西部の皇帝家直轄領だけでも三十万に届くという。

 ハーゼンヴェリア王国は、仮にイグナトフ王国などの周辺国と手を組んで帝国に攻め入ったとしても大した領土は占領できず、その維持もできない。

 ハーゼンヴェリア王国は帝国にとって、マクシミリアンが鼻で笑う程度の存在でしかない。その事実はスレインが何を言っても変わらない。


「とはいえ、私としても貴国が万が一こちらの領土に侵攻してきて、父に撃退を命じられでもしたら面倒だ。私の皇太子の地位とて盤石ではない。東部戦線に専念して成果を示さなければ、第二皇子や第一皇女あたりに帝位継承権を奪われる可能性がないではないからな。くれぐれも妙な真似はしないでくれよ」


「無論です。念を押していただく必要もありませんよ。私は平和を愛しています。本音を言うと戦争は苦手です」


 スレインが答えると、マクシミリアンは微苦笑した。


「フロレンツの侵攻を一度跳ね返し、内乱を無血で収め、ザウアーラント要塞を陥落させるまでを一年で成し遂げた者の言葉とは思えんな……だが、貴殿がそのような考えならば私も助かる。要塞返還は叶わなかったが、ハーゼンヴェリア王に現状維持の確約をもらったので西部国境はひとまず問題ない。父にはそう伝えておこう」


「皇帝陛下への説得はそれで叶いますか?」


「ああ、十分に説明はつく。ザウアーラント要塞を奪われたのは痛手ではあるが、所詮は西部国境のことだ。今すぐに解決できないのならば父もそこまで固執はしない。今の帝国にそのような暇はない」

 この国境地帯に微塵も関心のなさそうな口調で、マクシミリアンは語る。

 皇太子の言葉ならばある程度は信用に値する。ザウアーラント要塞を巡る問題は、金で即座に解決できるならそうするが、できないならば対応の優先順位は低い。後回しにできるのならばそうしておきたい。やはりそれが帝国の本音だ。


「この要塞は……そうだな。貴国に一時的に預けていると思うことにしよう」


「随分と長い『一時的』になりそうですね」


 スレインが皮肉で返すと、マクシミリアンは面白がるような視線を向けてくる。


「ハーゼンヴェリア王。聞いた話では、貴殿は平民上がりだそうだな」


「ええ、その通りです。王家の血を継いで生まれましたが、昨年の初め頃までは、私はしがない平民として生きていました」


「そうか。そのような出自で、帝国皇太子たる私を前にそこまで堂々とものを言えるとは。なかなか面白い男だな……個人的には嫌いではない。立場柄友人にはなれないが、私が帝位を継いでからも良き隣人ではあってほしいものだ」


「ありがとうございます。良き隣人ですか。そうありたいものですね。お互いに」


 お互いに。スレインが最後の言葉を強調して言うと、マクシミリアンは微笑む。


「それでは、私は帰らせてもらう。早く東部国境の戦地に戻らなければならないからな」


「そうですか。良ければ昼食でも共にしたかったところですが、せめて外まで見送りを」


「ああ、感謝する……まったく、このような地で時間を無駄にした」


 マクシミリアンはまた、悪気なく大陸西部を軽んじる言葉を零しながら、十人以上の護衛に囲まれて会議室を後にする。スレインも、同数の護衛に囲まれながらマクシミリアンの後に続く。

 司令部建屋を出たマクシミリアンは、外で待たせてあった残りの護衛に囲まれて馬に乗る。要塞内には敵兵が数百人いる状況で、しかし彼は欠片も緊張を見せない。

 ハーゼンヴェリア王国側が帝国の皇太子に手を出せば、さすがにただでは済まない。帝国は国家の威信にかけて要塞を奪い返し、ハーゼンヴェリア王国を滅ぼすだろう。そう分かっているからスレインがマクシミリアンに手出しをさせないと、マクシミリアンもまた分かっている。


「ハーゼンヴェリア王、くれぐれも壮健でな」


「……これは嬉しい言葉を」


 こちらが元気でいることを願ってくれるとは。意外な言葉にスレインは目を丸くする。


「貴殿は理屈を心得ていて、話も通じる。帝国に対して下手な行動はとらないだろう。隣国の君主はそのような人物であることが望ましい。だから壮健でいてくれ……それではな」


 どこまでも自己中心的な言葉を残し、マクシミリアンは馬の手綱を振るった。近衛の騎士に囲まれながら、ザウアーラント要塞を去っていった。


「マクシミリアン・ガレド皇太子……なるほど、こういう人か」


 その後ろ姿を見送りながら、スレインは呟いた。

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