第71話 帝国との対話①
ザウアーラント要塞奪取から数週間が経過した、十月の上旬。
要塞攻略軍は既に解散し、要塞内には王国軍と貴族領軍、グルキア人兵士、臣民からの徴集兵、そしてイグナトフ王国からの援軍、総勢およそ五百人が駐留していた。集団で敵側に買収されかねない傭兵は、要塞防衛には用いられていない。
要塞の指揮に就くのは王国軍将軍ジークハルト・フォーゲル伯爵。ガレド大帝国が要塞奪還に動くような気配もなく、防衛部隊は悪く言えば退屈な、良く言えば平穏な待機の日々を送っていた。
一方で、ザウアーラント要塞奪取という偉業を成し遂げたスレインは、予定より一か月遅れての結婚式の準備を進めていた。
結婚式をいよいよ二週間後に控え、高揚感と共に少しの緊張も覚えていたスレインのもとへ、しかしまたもや急報が入った。
「話し合いを求める帝国側の使者……ようやくか」
執務室へと報告を運んできたモニカの話を聞き、スレインはそう独り言ちる。
ザウアーラント要塞を奪われたとなれば、ただの敗北とはわけが違う。今のフロレンツには要塞奪還に動く軍事力がないとしても、何かしらの反応は示すと思っていた。こちらが要塞を奪ってから数週間も経ってようやく使者を送ってきたというのは、遅すぎるとも言える。
「それで、フロレンツ皇子の使者は何て?」
「いえ、陛下。帝国側の使者は、フロレンツ皇子ではなく当代皇帝の勅命を受けて参上したとのことです」
モニカの言葉を聞いて、スレインは片眉を上げる。
「皇帝の勅命か。それなら使者が来るまで数週間程度かかったのも納得だね。その使者自身もそれなりの立場の人物なのかな?」
「……それが実は、報告によると……」
超大国たるガレド大帝国、その頂点に立つ皇帝が直々に送り込んできた使者。
それが誰かを聞いたスレインは、この日のうちに大急ぎで王都ユーゼルハイムを発ち、自らザウアーラント要塞へと向かう羽目になった。
・・・・・・・
ザウアーラント要塞の司令部建屋。
その中にある会議室で、スレインは帝国側の使者と対面した。
「ガレド大帝国皇太子、マクシミリアン・ガレドである」
椅子に深々と座り、やや尊大な態度で言ったのは、口髭をたくわえた精悍な顔つきの男。
スレインの知識では、現在のガレド大帝国皇太子は三十四歳という話だった。目の前の男は見た目からして、丁度その程度の年齢に見えた。
スレインは自身の補佐役として同席してくれている外務長官エレーナ・エステルグレーン伯爵に視線を送る。かつて帝都を訪問した際、一度だけ皇太子と会ったことがあるというエレーナは、スレインに向けて無言で頷いた。
目の前の男が皇太子マクシミリアンで間違いない。それを確認したスレインは、微笑を作って口を開く。
「ハーゼンヴェリア王国第五代国王、スレイン・ハーゼンヴェリアです」
「スレイン・ハーゼンヴェリア王、よろしく頼む。貴国の王都よりわざわざ我が国の要塞まで参上してくれたことに感謝する」
大陸西部の小国の王と、強大な帝国の皇太子では、儀礼上の立場はほぼ同等。しかし現実的な権力は後者の方が遥かに強い。おまけにスレインはまだ十代の若造。そのためか、マクシミリアンは尊大な態度を崩そうとしない。
「いえ。我が国は小さく、王都から国境までは三日ほどで着きます。超大国たる帝国の皇太子殿が我が国の要塞へ直々に来訪したとなれば、私自ら出迎えるのは当然のことです」
スレインは微笑を作って答えた。この期に及んでザウアーラント要塞を「我が国の要塞」と言ったマクシミリアンを牽制するのも忘れない。
「それで、マクシミリアン・ガレド皇太子殿。何やら話し合いたいとのことでしたが?」
要塞に到着したマクシミリアンは、王であるスレインと会ってからでなければ用件を話さないと宣言したという。なのでスレインは、こうして要塞を訪れ、マクシミリアンと顔を合わせたこのときまで、皇太子の彼が直々に使者を務めているということ以外はまだ何も知らない。
「その通りだ。私は父である皇帝陛下の命を受け、陛下の名代として貴国と話し合うためにここへ来た……とはいえ、何から話したものか」
話すべきことが多いのか、その内容が複雑なのか、マクシミリアンは少し悩むような素振りを見せる。
「ハーゼンヴェリア王。貴殿は何から聞きたい?」
「……それでは。帝国西部の皇帝家直轄領を治め、大陸西部との外交を担っていたのは第三皇子のフロレンツ殿であったはずです。彼はこのザウアーラント要塞を放棄して逃走しましたが、その後どうなったのですか? それに、貴殿は帝国の東部国境において、東の隣国との戦いを指揮していると聞いていました。どうして真逆の位置にあるこの場所に?」
尋ねられたスレインは、帝国との話し合いを本題に進める前に、素朴な疑問を口にした。
「ああ、そうだな。それから話すことにしよう……端的に言うと、我が異母弟である第三皇子フロレンツは、もう帝国西部にはいない。あ奴は西部直轄領の統治と大陸西部における外交の任を解かれ、帝都へと護送された……今はまだ、帝都への移動の途上だろうがな」
マクシミリアンの答えを聞いたスレインは、小さく目を見開いて驚きを示す。
「事の始まりは、二か月ほど前だ。フロレンツが皇帝陛下に無断で皇帝家の名を使い、帝国西部のいくつかの貴族家から大金を借りたという情報が、父のもとに届けられた」
その言葉で、フロレンツの今回の募兵における軍資金の出所が、概ねこちらの推測通りだったとスレインは知った。
「大陸西部から帝都まで、普通に移動すれば片道一か月ほどかかる。おそらくフロレンツは、ハーゼンヴェリア王国への侵攻を完遂するまで父に借金の件を知られずに済むと思っていたのだろう……確かに、本来であればそのはずだったが、今回のあ奴は運が悪かった」
フロレンツがハーゼンヴェリア王国再侵攻のために傭兵を集めている頃、彼に大金を貸した帝国西部貴族の一人が、帝都の宮廷貴族家に嫁いだ身内の訃報を受けて、その身内を弔うために帝都に急遽参上した。
その身内が嫁いだ家は皇帝家の傍系の大貴族家とも繋がりがあったため、弔いの場でその大貴族家の人間と顔を合わせた貴族は、フロレンツが皇帝家のお墨付きを受けて貴族から金を集めていた件を、世間話の一環で語った。
皇帝の子の中では立場の弱いフロレンツが、皇帝家の名を使って複数の貴族から大金を借りた。それは珍しい話として宮廷内に広まり、すぐに皇帝の耳にも入った。
フロレンツがいかに皇帝の寵愛を受ける愛息であったとしても、勝手に皇帝家の名を使ったというのはさすがにいただけない。皇帝はフロレンツの責任を問うことにした。
その少し後。宮廷魔導士として西部直轄領に置かれている、使役魔法使いの操る鷹が、ザウアーラント要塞陥落の急報を告げる書簡を帝都に運んできた。
勝手に皇帝家の名を使って大借金をし、それを軍資金とした再侵攻に失敗するどころか、帝国西部における国境防衛の要である要塞を隣国に奪われたとなれば、状況は尋常ではない。事態を重く見た皇帝は、直轄の近衛兵にフロレンツを拘束して帝都へと連行するよう命じた。
それと並行して、自身の遣いをザウアーラント要塞へと送り込み、要塞を奪った隣国――ハーゼンヴェリア王国と対話することを決めた。
そして丁度このとき、帝国東部国境で東の隣国との大規模な会戦に勝利し、敵を大きく後退させた上で戦線を膠着させた皇太子マクシミリアンは、帝都へと一時帰還していた。
これほどの重大事態で皇帝の使者を西部国境に送るとなれば、確かな立場があり、皇帝家の利益をよく心得ている有能な者を充てるのが望ましい。そう考えた皇帝の勅命を受け、皇太子であるマクシミリアンは直々に帝国西部へと発った。
宮廷魔導士の使役魔法使いが操る、俗にガレド鷲と呼ばれる巨大な鷲の魔物に乗ることで移動時間を大幅に短縮したマクシミリアンは、陸路ならば一か月かかる道のりを一週間で駆け、西部直轄領の中心都市アーベルハウゼンに到着。そこから馬に乗り換え、数日前にザウアーラント要塞へとたどり着いたという。
「それはまた……貴殿も遠路はるばる大変でしたね」
「まったくだ。膠着状態とはいえ、極めて重要な東部戦線の指揮を配下に預けたまま、西部国境まで足を運ばなければならなかったこの事実には正直まいっている。皇太子である私が、何故このような辺境の地に……これも不肖の異母弟のせいだ」
マクシミリアンは深いため息を零しながら、疲れた様子で言った。
大陸西部を「辺境」と言い放って当たり前のように下に見るのは、超大国の継嗣という立場を考えれば致し方ないことか。
「そちらの状況は理解しました。それで、貴殿は皇帝陛下の使者としてここへ来たということですが、具体的にはどのような命を受けて?」
「ああ、そのことだが……これも端的に言おう。現在、貴国が実効支配しているこのザウアーラント要塞。我が国にとって要衝であるここを返してほしい。私はそのための講和の使者だ」
スレインの問いかけに、マクシミリアンはずばり答えた。
「もちろん、ただ返せとは言わない。フロレンツの失態の結果とはいえ、貴国は戦いの末にこの要塞を奪取したのだからな。それを返してほしい帝国としては、然るべき代価を支払う必要があるだろう。だから私は『講和』の使者なのだ……二億メルク。一括でも分割でも、貨幣でも金銀でも他のものでもいい。貴国の好きなかたちで支払おう。それでザウアーラント要塞を明け渡してくれるよう、我が父は求めている」
提示された額を聞いて、スレインは片眉を上げた。
二億メルク。スローナに換算して二億五千万から二億七千万ほどか。ハーゼンヴェリア王家の年間総予算を優に上回る大金だ。
一つの要塞に対して支払う額としては、まさに破格。それほどの額をぽんと提示できる帝国は、つくづく強大だと思い知らされる。
スレインは上げていた片眉を下ろし、微笑を浮かべて口を開く。
「申し訳ないが、承諾できかねます」
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