第62話 フロレンツの再挑戦
「――それでは、フロレンツ第三皇子殿下。こうして皇帝家との契約を交わせましたこと、我が伯爵家にとって大きな喜びにございます」
「ああ、私こそ嬉しいよ。これが双方にとって良い取引となるよう、これから最善を尽くすと約束しよう」
帝国暦二八三年の夏。ガレド大帝国西部の皇帝家直轄領。その中心都市であるアーベルハウゼンの皇帝家宮殿で、フロレンツ・マイヒェルベック・ガレドは帝国西部の大貴族の一人と握手を交わした。
「お約束の貸付金は来週までには確実にお送りしますので、今しばらくお待ちください」
「そうか、来週には送ってくれるか。それはありがたい」
「他ならぬ皇帝家の御為ですので、できる限り迅速に契約を果たすのは当然のことにございます」
「素晴らしい。卿こそは模範的な帝国貴族だ」
「恐縮です。それでは、私は急ぎ領地に帰って貸付金の準備をいたしますので、これにて失礼いたします」
退室する貴族をフロレンツは上機嫌で見送り、応接室のソファにどかりと腰を下ろす。
「ああ、素晴らしい。万事順調だ。これで再侵攻のための金の心配はなくなった」
フロレンツはこの一週間ほどで、帝国西部のいくつかの大貴族家から、ハーゼンヴェリア王国再侵攻の軍資金を借りる契約を立て続けに締結した。
その額は実に五千万メルクに及ぶ。単純計算で、傭兵や徴集兵を合計一万人、数か月にわたって動員できる金額だ。
一度は再侵攻に失敗したフロレンツに、貴族たちがこれほどの大金を貸してくれたのは、フロレンツが皇帝である父の名を出したため。
父からは許可を得ていると嘘をついた上で、皇子として父より預かっている皇帝家の印を使い、皇帝家の名において金を借りる契約を成した。貴族たちも金が利子付きで返ってくるのであれば文句はなく、相手が皇帝家となれば貸倒れの心配もないので、喜んで話に乗ってくれた。
再侵攻さえ成功させれば、皇帝家の名で貴族たちから金を借りたことは事後報告になっても問題ない。自分は父から溺愛されているし、サレスタキア大陸西部へと帝国の勢力圏を伸ばすことによる利益は、借りた金よりもはるかに大きくなるのだから。
それが、フロレンツの考えだった。ハーゼンヴェリア王国のウォレンハイト公爵を利用した策が失敗してしばらく後、フロレンツはこのような考えのもとに帝国西部の大貴族たちと接触し、交渉し、これだけの資金調達を成した。
「さて、金はできた。いよいよこの金を兵に変える段だ。兵を集める準備はできているな?」
「はっ。御命令をいただければ、傭兵の募集と民兵の徴集準備を直ちに開始いたします」
フロレンツが傍らの文官に尋ねると、そう答えが返ってくる。
この初老の上級文官は、フロレンツの側近としてこの皇帝家直轄領の運営実務を担っている。極めて有能ではあるが、同時に極めて欲深い。既にフロレンツによって金で飼い慣らされているので、今ではすっかりフロレンツの言うことを何でも聞く犬と化している。
フロレンツが父の許可を得ずに大貴族たちから金を借りたことは、フロレンツ以外ではこの文官しか知らない。他の者たちは、当然に皇帝の許可があった上でのことと信じている。
「よし、それではすぐに始めてくれ。あまりぐずぐずしていると、貴族たちから借金をしたことが父上の耳に入ってしまう。父上にはあまり心配をおかけしたくないからな。借金の話より先に、ハーゼンヴェリア王国占領の報せを届けて差し上げよう」
最初の侵攻では、侵攻軍の数こそそれなりに多かったが、その質が悪かった。モルガン・デュボワ伯爵の率いる騎兵部隊に精鋭が偏り過ぎていたために、その騎兵部隊が撃破されると残りの徴集兵たちが烏合の衆と化してしまった。
なので今回は、まずは潤沢な資金によって大量の傭兵を集める。そこに前回と同じ規模の徴集兵を併せ、しっかりと質、量ともに強大な軍勢を組織する。その軍勢をもってハーゼンヴェリア王国を飲み込む。
その指揮をとるのは自分だ。もちろん実務は配下の武官に任せるが、大将として号令をかける役割は自ら務める。自ら大将となり、ハーゼンヴェリア王国に勝利し、そして名誉を挽回する。
・・・・・・・
不穏な情報を掴み、緊急の報告としてスレインのもとに届けたのは、外務長官のエレーナ・エステルグレーン伯爵だった。
「フロレンツ・マイヒェルベック・ガレド第三皇子が、サレスタキア大陸西部にて傭兵を大々的に募集しているようです。私の部下が情報を掴みました」
城館の会議室で、エレーナは淡々と語る。その報告を、スレインはモニカ、セルゲイ、ジークハルトと共に聞く。
「情報によると、フロレンツ第三皇子は相場より多い報酬――一人当たり三千帝国メルクの月給と略奪品の完全な所有権を提示し、傭兵を募っているようです。任務はハーゼンヴェリア王国への侵攻。定員は二千人で、集結期限は十月初頭。予定する雇用期間は本格的な冬が来るまでの二か月ほど。集結地点はザウアーラント要塞……そのような募兵内容でした」
ザウアーラント要塞は、エルデシオ山脈の切れ目であるロイシュナー街道のガレド大帝国側、谷を塞ぐように鎮座する、帝国の防衛拠点。
石材を積み上げた強固な城壁と深い空堀、見張り塔や跳ね橋を備え、城壁上には強力なバリスタを複数設置。内部には最大で千人以上が常駐できる兵舎や倉庫を持っている。エルデシオ山脈の谷間に立つという地理的有利も活かし、難攻不落の異名を誇る。
「……また戦争になるのか」
エレーナの報告を聞き終えたスレインが項垂れながら最初に零したのは、そんな呟きと、深いため息だった。
スレインはこれまで二度の戦争を経験し、その両方で大勝を果たしたが、それでも慣れるものではない。臣下も民も危険に晒す戦争を、スレインは嫌悪している。
しかし、いくらスレインが戦争を嫌っていても、戦争の方からやって来るのであれば対処するしかない。今はひとまず気持ちを切り替えて顔を上げ、臣下たちを見回す。
「フロレンツ皇子の帝国内での立場は弱い。資金力の面でも、彼個人の後ろ盾になるような貴族はほぼいないんだよね?」
「仰る通りです。帝国の宮廷社会の勢力図が、この一年弱でそう大きく変わったという話も聞こえていません。フロレンツ皇子の力を考えると、これだけの短期間で大した軍資金は集められないはずです」
サレスタキア大陸西部への侵攻はフロレンツが第三皇子としての権力の範囲内で進めていることであり、帝国におけるフロレンツの立場の弱さを考えると、当面は前回と同規模の軍事行動さえ起こせないはず。
また、帝国の意思決定者である皇帝が本格的に大陸西部への侵攻を決意するとも考えられない。帝国は未だ東や北の隣国と衝突しており、三正面で戦争をする余裕はいかな帝国と言えども持っていない。
なので、少数の部隊による急襲などを防げる体制を作っておけば、ひとまず危険はない。フロレンツが力を蓄えて再侵攻を試みるか、帝国をとりまく状況が変わるとしても、年単位の時間がかかる。その兆候がないか注視しながら、周辺諸国とも連携を進めてじっくりと備えていけばいい。
ハーゼンヴェリア王国としては、そのような考えを前提に防衛計画が立てられていた。その前提が、今回のフロレンツの行動で崩れ去った。
「提示されてる条件から考えると、フロレンツは帝国メルクで一千万単位の軍資金を確保したことになるけど、一体どこからそれだけの大金を……」
「順当に考えると、借金でしょうか」
「しかし、フロレンツ皇子の立場の弱さでそのような大借金ができるものなのか?」
スレインに対してエレーナが答えた言葉に、ジークハルトがそう疑問を呈する。
「フロレンツ皇子個人の信用では難しいでしょうが、彼は皇帝の息子ですから。皇帝家の名を出せば不可能ではないと思いますわ」
「しかし、フロレンツ皇子はあくまで第三皇子で、それも愛妾の子だと聞いている。独断で皇帝家の名を自由に使う権限は与えられていないだろう」
「……フロレンツ皇子は愛妾の子だからこそ、世継ぎの問題の絡まない息子として皇帝から溺愛されていると言われています。自分ならばそれだけの勝手をしても父親から許されると踏んで、皇帝に無断で使ったのかもしれません」
「そんなことをしても、すぐに皇帝に……いや、帝国領土は広大で、西部の直轄領から東部の帝都まではかなりの距離がある。勝手に借金をしたことも、しばらくは隠しておけるか」
「普通ならこんな危ない橋は渡らないと思うけど、フロレンツ皇子は色々と普通とは言い難い人物だからね。父親に無断で皇帝家の信用を借金の担保にしたというのはあり得るかも」
二人の会話を聞いて、スレインはそう呟いた。
「陛下。敵側の軍資金の出所は確かに気になる点ですが、今は何とも情報不足です。ひとまずはフロレンツ皇子の行動への対処に注力べきかと」
「……そうだね。セルゲイの言う通りだ。前回と同じように、敵側の事情は勝てば見えてくるだろうし」
セルゲイの言葉にスレインも頷き、話は本題に戻る。
「フロレンツ皇子が掲げた条件だと、応じる傭兵も多くなりそうかな?」
スレインが尋ねると、ジークハルトが頷いた。
「月給が三千メルクで、略奪品の利益の一部を雇い主に納める必要もないとなると、サレスタキア大陸西部の傭兵たちにとっては破格の条件です。ほぼ確実に定員を超える傭兵が集まります」
代えの利く人材は消耗品として見られるので、その人件費は総じて安い。国民として数えられない根無し草の傭兵たちも、よほどの精鋭でもなければその報酬は月給二千から三千スローナほど。大陸西部の他の国々でも、ハーゼンヴェリア王国と大差はない。
傭兵たちはどこかに定住しない限り納税の義務がないので、その社会的立場を考えると、これでも十分に高給取りな方だ。
それに対して、フロレンツが提示している月給は三千メルク。ハーゼンヴェリア王国と帝国の物価の差を考えると、およそ四千スローナに相当する。加えて略奪品が全て自分のものになるとすれば、サレスタキア大陸西部の傭兵たちはおそらく嬉々としてフロレンツの募兵に応じる。
「そうか……それにしても、フロレンツ皇子はどうしてわざわざサレスタキア大陸西部で傭兵を集めてるんだろう?」
「帝国領土では傭兵を集められない何らかの理由があるのか、大陸西部の傭兵を自軍に集めることでこちらが傭兵による戦力増強を成せなくする狙いなのか、あるいはその両方か……これから探れば、ある程度は掴めるかと存じます」
スレインの疑問に、今度はセルゲイが答える。
「募集に応じた傭兵たちは、ロイシュナー街道を通ってザウアーラント要塞に集まるんだよね?」
「はっ。中には街道脇の山を抜けて要塞に向かう者もいるかもしれませんが、多くは街道上、こちらの砦を通過していくものと思われます」
「国境を封鎖して、彼らの移動を止めることはできないのかな? そうすれば戦いを未然に防ぐことも……」
尋ねられたジークハルトは、残念そうに首を横に振る。
「難しいでしょう。傭兵たちは王国の民でもなく、王家が雇用しない限りは王国軍にも命令権はありません。かといって砦を閉じ、傭兵たちを力ずくで足止めすれば、報酬の良い仕事に向かうことを妨害された傭兵たちから間違いなく恨まれます。こちらを恨みながら国境で立ち往生させられる傭兵が数百人も集まれば、そこで大規模な戦闘が起きかねません。最悪の場合、こちらの国境防衛部隊は帝国と戦う前に、怒り狂った傭兵たちから砦の後背を突かれて崩壊します」
「……やっぱりそう簡単にはいかないか」
スレインは顎に手を当て、渋い表情で考える。
傭兵たちは好きに通行させるしかない。戦いは避けられない。それはほぼ確定だ。
「陛下。現状では分からない点も多い以上、ひとまずは情報収集をしつつこちらも戦いに備えるべきかと存じます。フロレンツ皇子による募兵の内容を見るに、敵が動き出すのは十月上旬以降。幸いにも時間的猶予はあります」
「……そうだね。セルゲイの言う通りだ。時間があればまた何か策を思いつくかもしれないし、とりあえず今からできることをしておこう。エレーナはフロレンツ皇子が動員する見込み兵力や、傭兵たちの動きについて情報収集を。ジークハルトは防衛戦の準備を進めてほしい。セルゲイは全体の統括を頼むよ」
今は目先の指示を出すに留め、スレインはこの場を締めた。
・・・・・・・
「……スレイン様。大丈夫ですか? ご無理はなされていませんか?」
話し合いを終えてひとまず執務室へと戻ったスレインに、同行するモニカが心配そうに言葉をかける。
また戦争になるのか。先ほどの話し合いの最中、そう呟いたスレインの心境をおそらく気にしての問いかけだ。
「大丈夫。嬉しい報せとは言えないけど、さすがに三度目ともなると強く衝撃を受けることはなくなったよ」
スレインが微苦笑で答えると、モニカは心配と安堵が混ざり合ったような複雑な表情で、しかし彼女も笑みを見せてくれた。
「やることは変わらない。兵や民の犠牲を最小限にしながら、危機を乗り越える方法を考えて実践する。それだけだ。今はまだ情報収集の段階だけど、状況が見えてきたらきっと対処法も考えつくはず。いや、必ず考えてみせる……それにしても、」
表情を引き締めて決意を語ったスレインは、そこで声色を変える。
「フロレンツ皇子もつくづく嫌な男だね。去年は僕の戴冠式が迫ってるときに、今年は僕とモニカの結婚式が迫ってる時期に侵攻を企てるなんて」
「……そうですね。ですがご安心ください。たとえ結婚式の日取りが先に延びても、私がスレイン様の妻となることは変わりません。この危機を乗り越えてスレイン様と夫婦になるため、私も全力をもってお支えします」
少し重くなった場の空気を変えようと、スレインがあえて力を抜いて語った冗談に、モニカはクスッと笑って応じる。
「ありがとう……あの黒樫の化粧台を早くモニカに使ってほしいからね。頑張るよ」
スレインはモニカと顔を寄せ合い、軽く口づけを交わした。
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