第60話 平和な夏
国王の務めは幅広い。国を守るために最高指揮官として軍を統率し、国内社会を維持運営するために為政者として執務に励み、各種の儀式や行事にも出席し、周辺国との外交も行う。
そして、文明的かつ文化的な社会を維持するために、文化芸術を守ることも国王の重要な務めのひとつとされている。だからこそハーゼンヴェリア王家にも、国王に直接仕える文化芸術長官の役職が定められている。
王国暦七十八年。七月の初頭。現在の文化芸術長官であるエルネスタ・ラント女爵と共に、スレインは謁見の間にいた。玉座にスレインが座り、その傍らにエルネスタが立つ。スレインの周囲には、他に副官のモニカや護衛のヴィクトルもいる。
「それではこれより、王国暦七十八年における文化芸術披露の儀を始める。皆、国王陛下の御前にふさわしい芸や作品を示すよう励め」
エルネスタが宣言すると、彼女の言葉に従って、スレインの前に居並ぶ吟遊詩人や旅役者、作家、画家らが礼をした。
芸人や芸術家のうち優秀で実績のある者は、王家や貴族の後ろ盾を得て、パトロンのために詩や演劇、文学、絵などを作る。
一方で、大多数の者は国内各地やときには周辺国まで放浪しながら、芸や作品を披露して日銭を稼ぎ、暮らしている。そうした者たちの中でも優秀な者を保護するために、毎年夏頃にこの文化芸術披露の儀が開かれている。
根無し草の芸人や芸術家は国民としては数えられないが、ハーゼンヴェリア王国に百人から二百人ほどいると推定されている。その中から選定されたおよそ三十人ほどが、今この場に並び、これから芸や作品を披露する。その出来に応じて、国王であるスレインから褒賞が与えられる。
「それじゃあ、最初の者。始めてくれ」
スレインが命じると、居並ぶ芸人や芸術家のうち最前列の左端にいた者が、スレインの目の前まで進み出る。
少々派手な装いと、手にしたリュート。誰が見ても吟遊詩人だと分かる。中年の吟遊詩人は一礼し、名を名乗り、リュートを構えると、豊かなバリトンで詩を奏で始める。
「なかなか上手いものだね」
「この者は過去に二度、文化芸術披露の儀で先代国王陛下の御前にて歌っております」
「そうか、父の前でも……父もこうして彼の詩を聴いたのか」
スレインはリラックスした表情で、吟遊詩人の詩に聴き入る。
子供時代、スレインは母アルマの仕事を手伝いながら、少なくない数の物語本や詩集を読んできた。王城に迎えられてからも、教養として多くの芸や作品に触れた。図らずも今ではすっかり戦争で名を馳せてしまっているが、本来のスレインは戦いよりも文化芸術に明るい人間である。
そんなスレインにとって、この公務は気楽で楽しいものだった。多くの文化芸術に触れることができ、戦いと違って人が死ぬ心配もない。
吟遊詩人が歌い終わる。スレインは彼の詩を高く評し、一万五千スローナの褒賞を与えることを宣言した。彼らのような市井の歌い手にとってはおよそ一年分の生活費にあたる大金だ。
その後も、吟遊詩人や画家、作家、数人一組の旅役者などがそれぞれの芸や作品を披露する。数倍の倍率を乗り越え、文化芸術長官に選ばれてこの場に立っているだけあって、どの芸や作品も一定以上の完成度を誇っている。
しかし、スレインにはどうしても引っかかる点があった。
「……やっぱり、僕の活躍を讃える内容ばかりなんだね」
傍に立つ臣下たちにのみ聞こえる小声で、スレインは呟く。
昨年のガレド大帝国との戦いで、大勝を収めたスレインを称える詩。
数倍の敵を前にしても怯まず、兵士たちを鼓舞して指揮を成し遂げたスレインの活躍を描く劇。
騎乗して指揮をとる軍装のスレインを描いた絵画。作中のスレインは実物より頭一つ分は背が高く、実物より数段逞しく凛々しい。
披露される芸や作品は、どれもそのようにスレインをひたすら賛美するものだった。昨年の大戦や今年春の戦いに関するものが多く、変わり種でも、ユリアス・ウォレンハイト公爵を貴族として死なせてやったスレインの寛大さを称える詩などがせいぜいだ。
「帝国やウォレンハイト公爵に対する陛下の勝利は、王国の歴史に残る偉大なものでした。芸術家や芸人たちが表現の題材として陛下のご功績を選ぶのは、至極当然のことです」
スレインの傍らで、エルネスタがそう語る。
国王の御前で芸や作品を披露し、その出来に応じて褒賞を受け取るとなれば、芸術家や芸人たちは当然のように国王を讃えるものを作る。彼らはそうして王から金を受け取り、その芸や作品を各地で広める。
この文化芸術披露の儀には、芸術家や芸人に褒賞を与えることで、王家の名声を美化した上で国内外に響かせる意図もあった。文化芸術と政治はときに切り離せない。
「あはは、そういうものか。まあ、楽しいから構わないけど」
スレインは微苦笑交じりに言って、目の前で披露される芸に意識を戻す。
どこか照れくさくもあるが、称えられて悪い気はしない。かつて平民として楽しみ、心躍らせた物語や詩の裏にも、このような歴史や意図があったのかと思うと興味深い。
文化芸術の題材になるとはこういうものか。そんな感慨を抱きながら、スレインはこの公務を大いに楽しんだ。
・・・・・・・
七月の中旬。モニカの王家への輿入れ準備は、順調に進んでいた。
王妃の使う基本的な家具については代々受け継がれてきた高級品の一式が残っており、モニカ個人が元々持っている私物も、多くは既にスレインの寝室に置かれている。九月の結婚に向けて、彼女が居を移す準備に今から忙しくすることはない。
しかしそれでも、進めるべきことはある。
例えば服の類。貴人、特に女性の儀礼用ドレスなどは基本的に一点ものであり、男爵令嬢から王妃となるモニカは自身の体型と格にあったものを新しく用意しなければならない。王家御用達の仕立て屋によって、数着のドレスが作られる。
採寸自体はモニカの輿入れが正式に決まった直後に行われているが、細部の調整や装飾の選定などについては、確認のために仕立て屋がまめに王城を訪れる。その度にスレインとモニカが立ち会い、話し合いが進められている。
また、王妃が日常的に使う化粧道具などの小物類も、新たに用意される。先代王妃であるカタリーナのそうした持ち物は遺灰と共に埋葬されるか、遺品として彼女の実家であるアガロフ伯爵家に返されているので、モニカの使うものは一から作られる。
モニカの好みなども取り入れながら、一式が木工細工や金細工の工房に依頼され、それらは輿入れの日までに王城に届けられる予定となっている。
こうしてスレインとモニカの結婚に向けた諸々の準備が進む中で、スレインは自身から彼女に一つ、贈り物をすることにした。
「これを私に、ですか……?」
「うん。君に贈りたい」
城館の保管庫で、モニカは目を小さく見開いて目の前に置かれた化粧台を見る。スレインの母アルマの形見である、黒樫の化粧台だ。
城館にはカタリーナの遺した化粧台もあったが、それは彼女が輿入れの際にアガロフ伯爵家から持ち込んだもの。伯爵家の先祖から受け継がれた化粧台だったこともあり、小物などと共に遺品として伯爵家に返還されている。
モニカはアドラスヘルム男爵家の自室で使っている化粧台を王城に持ち込む予定だが、その化粧台は元々中古で買われたもので、殊更に思い入れがあるわけでもない。そのことを事前に確認しているからこそ、スレインはこの話を切り出した。
「ですが……本当によろしいのですか? こんなに大切なものを?」
やや戸惑い交じりに尋ねるモニカに、スレインは微笑む。
「これは母さんの大切な形見だけど、だからこそ、ずっと保管されるよりもちゃんと
化粧台として使われる方が、母さんもこれを贈った父さんも喜ぶと思って」
セルゲイやジークハルトに聞き、この化粧台は母アルマが王城を去った際に、父フレードリクが贈ったものだと確認がとれていた。
化粧台の見た目は華美ではないが、一国の王が愛する女性に贈った品ということもあり、上質に仕上げられている。王妃となるモニカが使うのに不足はない。
「多分だけど、母さんは僕の結婚相手や、父さんの血を継ぐ僕の子孫に、父さんから贈られたこの化粧台を受け継がせるつもりだったんだと思う……だから、まずはモニカに受け取ってほしい。僕と結婚して、僕の子供を産んでくれるモニカに」
スレインの言葉を噛みしめるように聞いていたモニカは、自身の胸にそっと手を当てると、スレインに微笑み返しながら頷いた。
「分かりました。それでは、スレイン様の妻となる私が、アルマ様の後を継いでこの化粧台を大切に使わせていただきます」
「……ありがとう。モニカ、愛してる」
「私も心からお慕いしています、スレイン様」
モニカはスレインをそっと抱き締める。スレインもモニカの背に手を回す。二人で軽くキスを交わす。
「……それじゃあ、今夜からでも化粧台を使う? メイドたちのおかげで、いつでも使えるくらい綺麗にしてあるし。今からでも寝室に運ばせようか」
モニカを見上げながらスレインが提案すると、彼女は少し考えて首を横に振った。
「いえ、この化粧台を使うのは、スレイン様との結婚後にさせていただきます……アルマ様への礼儀として、正式にスレイン様の妻となってからこの化粧台を使うべきだと思いました」
義理の母への礼儀。モニカの気持ちは、スレインにも理解できた。
「分かった。君が言うならそうしよう」
「ありがとうございます……この化粧台を使う日が来るのが楽しみです」
モニカは愛しそうな表情で、そっと化粧台に触れた。
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