第55話 結婚準備

 季節がすっかり春へと移り変わった四月のある日。スレインはアドラスヘルム男爵家の屋敷を訪れた。

 伝統ある貴族家とはいえ、領地を持たない法衣貴族の男爵家では、屋敷といっても小ぢんまりとしたもの。アドラスヘルム男爵家の屋敷もその例に漏れず、下手な豪商の家よりも小さい。

 王家の紋章を記された馬車が、小さな屋敷の小さな門を潜り、さして広くもない前庭に停められる。馬車を一人降り立ったスレインを、当主であるワルター・アドラスヘルム男爵とその妻、彼らの継嗣である長男、そしてモニカが出迎える。


「国王陛下。本日はようこそ我が屋敷へお越しくださいました。大したおもてなしをすることも叶いませんが」


「出迎えありがとう。今日は国王としてではなく、私人として訪問したんだ。どうか気を遣わずにいてもらいたい」


 スレインはワルターと言葉を交わしながら、モニカと一瞬目が合った。

 その後は屋敷の応接室へと案内され、ワルターと二人、テーブルを挟んで向かい合う。


「……ワルター・アドラスヘルム殿。一人の男として、あなたにお願い申し上げます」


 スレインは最初に本題を切り出した。場の空気的にも、スレインの心情的にも、今日ばかりは雑談などを挟む気になれなかった。


「あなたの娘、モニカ・アドラスヘルム嬢と結婚させていただきたい。生涯をかけて彼女を守り、幸福にすると誓います。彼女に、そしてあなた方アドラスヘルム男爵家に、決して後悔はさせません。どうか」


 スレインはワルターに頭を下げた。

 王侯貴族の婚姻ともなれば、こうした過程を経ずに親同士の政治的な話し合いだけで全てが決定し、行政手続きのように結婚式まで事が進められる場合も少なくない。

 しかし、スレインはけじめをつけたかった。単なる自己満足の通過儀礼に過ぎないとしても、一人の男として愛する女性の父のもとを訪れ、結婚の許しを得るという過程を経たかった。


「スレイン・ハーゼンヴェリア殿。顔を上げてください」


 ワルターに促され、スレインは顔を上げる。その挙動はやや硬い。


「あなたの願いを受け入れます。我が娘モニカを、どうか大切にしてやってください」


「……心から感謝します」


 穏やかな声でそう言われ、スレインは安堵を覚えながら答えた。

 今日の訪問の目的はモニカからワルターへと事前に伝えられており、この申し出を断られるわけがないと分かってはいたが、それでも愛する女性の父親への挨拶で緊張しない者はいない。


「とはいえ、実際に結婚を成すまでには少々時間もかかりますし、諸々の準備も必要でしょう。王妃の実家になる貴族家として、我々にできることがございましたら協力いたします。何なりとお申し付けください。国王陛下」


「ありがとう。政治的な準備はセルゲイの主導で進めてもらうから、アドラスヘルム男爵家はモニカの輿入れの準備を頼むよ。資金は王家が全面的に支援するから、モニカが王城に居を移すにあたって必要なものを揃えて、快適に暮らせるようにしてあげてほしい……まあ、今の時点で彼女はほとんど王城に住んでるようなものだけど」


 スレインがやや気まずさを感じながら言うと、ワルターは苦笑する。

 モニカはほぼ毎晩スレインの寝室に泊まり、今では自身の着替えや化粧道具なども置いているが、王妃として本格的に輿入れするとなれば相応の準備が要る。女性が嫁ぐときには、用意すべきものは多い。


「後は、東西の領主貴族から何か言われたり探りを入れられたりするかもしれないけど、今までと変わらない態度で接してくれれば大丈夫だから」


「かしこまりました。それでは我がアドラスヘルム男爵家はモニカの輿入れの準備を進めつつ、引き続き王家の忠実なる臣として務めを果たしてまいります」


 その後は部屋を移り、ワルターの妻や長男、モニカも交えてしばらく歓談し、スレインはアドラスヘルム男爵家の屋敷を後にした。


・・・・・・・

 

 国王スレイン・ハーゼンヴェリアと、アドラスヘルム男爵家の令嬢モニカ・アドラスヘルムの結婚。その実現を成すために事前に根回しをすべき相手は、東西の領主貴族閥を盟主としてまとめる二伯爵家だ。

 アドラスヘルム男爵家を選んだ王家の政治的な意図を、二伯爵家に理解してもらうのは難しくない。しかし、理解を得るためには説明が欠かせない。「説明した」という事実そのものが。

 王家は自分たちの存在を重要視しているからこそ、こうした重要な事項を、直接丁寧に説明してくれる。二伯爵家にそう思ってもらえなければ、王家と領主貴族閥の信頼関係は崩れる。

 なので、国王スレイン・ハーゼンヴェリアの使者としてエレーナ・エステルグレーン伯爵が二伯爵家に送り込まれた。外務長官として交渉事に長け、貴族としての格も高い彼女こそが、説明役として最適任者だと判断された。


「……なるほど。モニカ・アドラスヘルム嬢が次期王妃に」


 屋敷の応接室でエレーナの説明を聞き、腕を組みながら呟いたのは、王国西部の貴族閥をまとめるトバイアス・アガロフ伯爵。東西の貴族閥は等しく重要だが、当主の年齢を考慮し、エレーナはまずは年長者である彼の方を訪ねていた。


「確か、彼女は国王陛下の副官を、陛下が王太子であった頃より務めていましたな」


「ええ。モニカ嬢から誠実に支えられたからこそ、陛下は彼女の献身に感銘を受け、彼女に求婚なさったそうです」


 国王スレインは既にモニカに求婚した。すなわち、これは基本的には決定した事項である。エレーナは遠回しにそう伝える。


「少々現金な表現にはなりますが、王妃の御実家になるということであれば、アドラスヘルム男爵家は大躍進ですな。かの家としては喜ばしい限りでしょう」


 王家はこの結婚を機に、アドラスヘルム男爵家を優遇していくつもりなのか。法衣貴族を贔屓するのか。トバイアスは言外にそう問いかける。


「いえ、モニカ嬢は生家であるアドラスヘルム男爵家について、今までと変わらぬ扱いを国王陛下に求めたそうです。国王陛下の義父となられるワルター・アドラスヘルム男爵も、引き続き一貴族として王家と王国に仕えることを望んでいます。国王陛下も、二人の考えを尊重し、アドラスヘルム男爵家に特別の配慮はしないと明言しておられました」


 エレーナはそう言って、トバイアスの懸念を払拭する。

 スレインには世継ぎを産んでくれる妃が必要だが、王家は国王の結婚に際して政治的な混乱を発生させたくない。だから格も影響力も低いアドラスヘルム男爵家が選ばれた。かの家が王妃の実家になるからといって、優遇されることもない。

 よって、この結婚で王国貴族社会のバランスは何も変わらない。そうした裏の事情を、トバイアスもこの会話で理解した。


「……左様ですか。まさに王国貴族たるにふさわしい姿勢。王妃の御実家となるアドラスヘルム男爵家に、我々も然るべき敬意を表したく思います」


 そして、自身の立場から今、返すべき答えを返した。

 エレーナの説明を言葉通り受け取って、今まで通りアドラスヘルム男爵家を格下と見て接するわけにはいかない。王妃の実家ともなれば、たとえ格の低い貴族家であっても儀礼上は相応の礼を払われなければならない。それが貴族社会の秩序を守ることに繋がる。

 アドラスヘルム男爵家への礼節はわきまえる。トバイアスはそう答えることで次期王妃の実家への敬意を表し、同時にこの結婚を西部貴族閥の盟主として容認する姿勢を示した。


「アガロフ卿と西部貴族の皆さんの姿勢に、陛下もお喜びになることと思います……そして、陛下は王国貴族社会のさらなる安寧のため、既に未来を見据えておられます」


 トバイアスの容認の姿勢を確認し、エレーナは話題を次へ移す。


「未来というと、国王陛下の次代の話ですかな?」


「ええ。王族の多くが逝去し、王家の状況が大きく変わってもなお、東西の領主貴族の皆さんは王家への変わらぬ忠誠を示しました。陛下はあなた方の忠誠に、血の繋がりをもって応えたいとお考えです」


「なるほど。具体的なことを伺っても?」


「公にはしないとお約束いただけるのであれば」


 エレーナは微笑を浮かべながら、釘を刺すように言った。


「もちろん、それは心得ております」


「ご理解に感謝します。では……陛下はいずれ生まれるご自身の子女のうち一人を、アガロフ伯爵家に嫁あるいは婿として入らせることを考えておられます」


 それを聞いたトバイアスは大きな反応を見せない。エレーナが語った王家の提案は極めて妥当な線であり、トバイアスも当然、可能性のひとつとして予想していた。


「それは我が家としても、非常に光栄なお話ですな」


 そして、トバイアスはそう答えた。

 王家の人間をアガロフ伯爵家に迎える。それは単に光栄な話というだけでなく、王家が血縁者を人質としてアガロフ伯爵家に、延いては王国西部の貴族閥に差し出すということだ。

 王家はアガロフ伯爵家を、王国西部を軽んじない。その強い保証のひとつとして、トバイアスとしても文句のない提案だった。


「では、ひとまず内定ということでご納得いただけたと陛下にお伝えします」


「何卒よろしく。ちなみに、東のクロンヘイム伯爵家には王家よりどのようなお話がされるのでしょうかな?」


 トバイアスの問いかけに、エレーナは微笑を浮かべる。


「先代陛下の頃からの予定通り、とだけ今はお伝えしておきます」


「……理解しました。国王陛下のご決断とあらば、アガロフ伯爵家としては何も申し上げることはございません」


 このような情勢下で、今さら波風を立てる意味はない。トバイアスは穏やかに答えた。


・・・・・・・


「……なるほど。我がクロンヘイム伯爵家に、いずれ国王陛下のお子様が輿入れを」


 屋敷の応接室でエレーナの説明を聞いたリヒャルト・クロンヘイム伯爵は、膝の上で手を軽く組みながら呟いた。

 先代である父の戦死を受けて家督を継いだ彼は、まだ二十代半ばという若さではあるが、昨年の過酷な戦いを乗り越えたこともあり、伯爵家当主としての貫禄を見せ始めている。


「ええ。先代陛下の妃であらせられたカタリーナ殿下は、とても不幸なかたちで世を去られました。この上でアガロフ伯爵家より再び妃を迎えても、あるいはクロンヘイム伯爵家より妃を迎えても、選ばれなかった方の家とその派閥とは禍根が残ります。なればこそ、陛下は両家にこのようなご提案をなされています」


 本来は、フレードリクがアガロフ伯爵家から妃を迎え、その息子であるミカエルがクロンヘイム伯爵家から次代の妃を迎える予定であった。

 しかし、王家が極めて複雑な状況にある以上、唯一の王族であるスレインの妃には貴族社会の力関係に影響をほとんど与えない家の令嬢がつき、その次代では東西の貴族閥にバランスをとった采配をするのが無難な選択。それは、誰からも理解されることだった。


「……理解しました。陛下のご配慮に、クロンヘイム伯爵家の現当主として心より感謝いたします。ちなみにですが、陛下のご嫡子の伴侶に関しては?」


「それはまだ未定……というよりは、未知数です。陛下の継嗣となられる御子様の性別も現時点では分かりませんし、場合によっては他国の王族などを伴侶に迎えることもあるでしょうから」


「なるほど。それは仰る通りです」


気の早い質問をしてしまった。そう思いながら、リヒャルトは苦笑して頷く。


「この件についてはアガロフ伯爵も納得を?」


「ええ。理解をいただいています。彼も同意を示しました」


「それは何よりですね。東部貴族閥と西部貴族閥、双方へご配慮くださる陛下のご厚意にあらためて感謝を」


 リヒャルトは表情は変えずに、内心で安堵した。

 今のクロンヘイム伯爵領は復興の只中にあり、東にはガレド大帝国に対する防衛線を抱えている。貴族社会のバランス取りで西部貴族閥と揉める余裕はない。


「とはいえ、これは少なくとも二十年ほど先の未来を見据えた話です。この件はひとまず内定というかたちとなります」


 決定ではなく内定。よほどのことがなければ履行されるが、絶対の契約ではない。例えば、クロンヘイム伯爵家の忠誠が疑われるようなことがあれば、どうなるか分からない。エレーナの言葉は念押しであり警告でもあった。


「心得ています。未来においてもクロンヘイム伯爵家の王家への忠誠が変わらないことを、これから行動をもって示してまいりましょう」


 エレーナの言葉は当然のことなので、リヒャルトはそう答える。


「クロンヘイム卿のお心構えを、陛下も喜ばれることでしょう……では、詳しい期日はまた追ってお伝えしますが、陛下とモニカ・アドラスヘルム嬢の結婚は秋頃――現状では九月頃を予定しています。クロンヘイム卿におかれては、東部貴族の皆様へ、この件の周知をお願いできればと」


「承りました。東部貴族閥の盟主として、責任をもって派閥内の貴族たちに説明いたします。どうかお任せください」


 王家はエレーナを通して、二伯爵家への説明を果たした。その他の領主貴族たちへの説明は、派閥盟主たる二伯爵家の務めとなる。

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