第45話 冬の日々②
将来は馬を育てる仕事をしたい。
ベーレンドルフ子爵家の当主ヴィクトルは、子供の頃は密かにそんなことを考えていた。
しかし、ヴィクトルは武門の貴族家の嫡子として生まれた身。馬の世話や騎乗練習ばかりしているわけにもいかず、武芸全般から学問までを広く学び、当たり前のように軍人になった。
二十八歳のとき、王国軍で史上最年少の大隊長となった。前団長である先代ルーストレーム子爵の引退を機に、三十代前半で近衛兵団長となった。先代当主である父の隠居によって、ベーレンドルフ子爵家の当主となった。
この立場と身分のまま人生を歩んでいくことは既に決まっている。子供の頃の密かな夢はもう叶うことはない。
とはいえ、ヴィクトルはそのことに不満や後悔があるわけではない。近衛兵団長として王家を守り、子爵家当主として家を守る日々は充実しているし、そもそも別に、何が何でも馬を育てる仕事をしたかったわけではない。
ただ、実際と違う人生を空想するのは今でも小さな楽しみになっているし、生きて軍を退く日が来たら、溜めた給金で小さな牧場でも持ってみるのもいいかもしれないとは考えている。
そんな理想の老後を、今のうちから雰囲気だけでも体感できるのが、この冬という季節だ。
「ああ、ベーレンドルフ閣下。今日もいらしたんですね」
軍装を汚さないよう、私服に剣のみ帯びた姿で王城の厩を訪れたヴィクトルを、厩番を務める使用人がそう言って迎える。
「昨日に続いて今日も非番だからな。また邪魔して悪いが、少し手伝わせてくれ」
国王の外出時はつきっきりで、そうでないときも大半の日は警護責任者として軍務に就くヴィクトルは、社会の休眠期間とも言うべき冬にまとめて休暇をとる。休暇と言っても、いざというときはすぐに警護任務に就けるよう、非番というかたちで常に帯剣はしているが。
この休暇中、ヴィクトルは家で家族と過ごすとき以外は、専ら馬の世話をして過ごす。
「構いませんよ。俺としちゃあ、むしろありがたいし楽しいですがね。子爵閣下にあれこれ仕事を頼める貴重な季節だ」
冬が来るたびにこうしてヴィクトルの休暇に付き合わされる厩番は、そう言って笑った。彼の言い方にヴィクトルも苦笑を返す。
「それじゃあとりあえず、奥の奴から順にブラシをかけてやってください」
「分かった、任せてくれ」
厩での仕事の勝手は、毎年手伝っているヴィクトルも既に知っている。いつもの場所からブラシを取り、厩の奥に向かう。
奥にいたのは国王スレインの愛馬フリージアだ。利口で大人しいこの雌馬に歩み寄り、鼻先と首を軽く撫でてやってから、その身体にブラシをかけてやる。フリージアはリラックスした様子で、気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「……」
馬たちが時おり足踏みをしたり、鼻を鳴らしたりする以外は静かな厩の中で、ヴィクトルは落ち着きを覚える。
のどかなものだ。やはり馬はいい。
・・・・・・・
筆頭王宮魔導士を務める名誉女爵ブランカも、冬はあまり仕事をせず、貴族街の外れにある自宅で多くの時間を過ごす。
ブランカは使役魔法使いだ。使役するツノヒグマのアックスは寒さに弱く、鷹のヴェロニカもアックスほどではないがあまり寒さに強くないため、冬には活躍の機会がほとんどない。
どちらにしろ、冬は戦いが起こる可能性もほぼなく、緊急の偵察などを行う場面もあまりないため、ブランカたちにとっては完全な休みの時期となる。
「おはよう、あんたたち。いい子にしてたかい?」
筆頭王宮魔導士へと貸与される家には、今はアックスとヴェロニカのための小屋が併設されている。王家の資金援助を受けて作られたここは「小屋」と呼ばれてはいるが、巨体のアックスでも狭くないよう広々としていて、鷹のヴェロニカが息苦しくないよう天井も高い。
母屋からこの小屋に入ったブランカは、藁を積んだねぐらからのそのそと起き上がってきたアックスを撫で、天井近くの止まり木から降りてきたヴェロニカを肩に乗せ、彼らに朝食を与える。
ヴェロニカには生きたネズミ。アックスには秋のうちに採集されていたドングリと、茹でた鶏肉を少量。アックスの生態は動物の熊に近いため、彼は冬の間あまり食べないし、一日の大半を寝て過ごしている。
暖房の魔道具によってほどよく暖まった小屋の中で、ヴェロニカは元気に、アックスはもそもそと食事をとる。小屋内を適温に保つために魔道具が消費する魔石代も馬鹿にならないので、ブランカの能力の特性を考慮して王家からは特別手当が支給されている。
「ブランカ、こっちにいたのね」
後ろから声をかけられ、ブランカが振り向くと、そこにいたのはブランカの伴侶だった。
「ダリヤ。起きてたのか」
「ついさっきね……ああ、こっちはいつも暖かくていいわね」
彼女はそう言いながら、母屋と小屋を繋ぐ扉を潜る。朝食をとるアックスとヴェロニカを彼女が撫でると、彼らは挨拶をするように一瞬だけ鼻先を向け、また食事に戻る。
アックスもヴェロニカも、彼女をブランカの伴侶として、彼らの言い方だと「群れの仲間」として認めている。
「おはよう、ブランカ」
「おはよう、ダリヤ」
ブランカは伴侶である彼女とキスを交わす。この国の法では結婚は男女にのみ適用される概念だが、二人の意識としては、互いを伴侶だと考えている。
ブランカが彼女と出会ったのは四年前。同性を恋愛対象とし、かつブランカにとって魅力的に写り、なおかつアックスやヴェロニカの存在を受け入れてくれる女性と巡り合えたのは、本当に幸運なことだった。
出会って間もなく愛し合う関係となり、共に暮らすようになってもう三年になる。ブランカは彼女を妻とし、アックスやヴェロニカを子供とし、幸福な家庭を築いている。
魔法の才は遺伝しない。なので爵位は一代限りの名誉女爵。ブランカには子に継がせるべき家も身分もないので、人間の養子をとる必要はない。
「私たちも朝食にしましょうか。買い置きのパンと、昨晩の残りのスープでいいかしら?」
「ああ、いいよ。それと、今朝は卵も食べたいね」
「うふふ、分かったわ」
ブランカは彼女の肩を抱きながら、彼女と共に母屋の方に戻る。
その後ろでは食事を終えたアックスがあくびをしながらねぐらに戻り、同じく食事を終えたヴェロニカが羽を伸ばして適当な止まり木へと飛んだ。
・・・・・・・
冬の時間は穏やかに流れ、王暦七十八年の一月中旬。
ハーゼンヴェリア王国の国教であるエインシオン教における「新年の祝祭」の日が、この年もやってきた。
これは祝祭とはいっても、毎年秋に行われる生誕祭――エインシオン教の預言者が誕生したことを祝う、一年で最も大きな祭り――や、夏に農村部で行われる収穫祭とは違い、決して賑やかな祭りというわけではない。
正午には各教会で祈りの集会が行われ、国王が王都の広場に立って新たな一年の幸福を祈願する演説を行い、夜は各自が家で家族とともに祈りを捧げながら夕食をとる。そんな、やや宗教的な色合いの強い文化として根づいている。
スレインはその慣習に従って王都中央教会で集会に参加し、広場でこの国と民のさらなる幸福を願う言葉を語り、そして今は夜。城館の祈りの部屋で、これから神への感謝を捧げつつ夕食をとることになる。
一信徒として祭服に身を包み、祈りの部屋に入る準備を終えたスレインは――王国宰相セルゲイから詰め寄られるようにして注意事項を語られていた。
「よいですか、陛下。くれぐれも祭服の袖や裾にはお気をつけください。扉は完全には締めず鍵も開けておき、万が一何かございましたら、すぐに大声で近衛兵や使用人をお呼びください」
「分かってるよ、ちゃんと気をつけるから大丈夫……去年みたいなことには絶対にならないから」
スレインはさすがに苦笑しながら答えた。
昨年、ハーゼンヴェリア王国の王族はこの祝祭の夜に、祈りの部屋の火事で尽く死亡した。セルゲイがこれほど心配するのも無理のないことだ。
しかし、今年は昨年とは違う。スレインは特別に信心深いわけではないので、部屋に飾られる藁束の飾りも昨年までと比べたら随分と少ない。室内の灯りも一部は照明の魔道具を用いて、蠟燭は祭服の袖や裾が触れないよう高い位置に置かれる。
そして、それまでは出入り口が一つだった祈りの部屋は、隣の部屋と繋がるように、非常口となる扉が増設されている。窓も以前より大きく作り直されたので、すぐに換気もできる。
できる限りの措置が取られ、昨年までと比べたら安全性は格段に高まった。祈りの在り方としては必ずしも厳密に教義に則っているとは言えないが、今ばかりは安全第一だ。
「だから、君はノルデンフェルト侯爵家の屋敷に帰って、自分の家族と祈りの夕食を過ごしていいんだよ? こっちが無事に終わったら、侯爵家の屋敷まで報告の兵を送るから」
「……いえ。私は陛下が祈りの夕食を終えられるまでは、王城で待機させていただきます。弟一家を待たせることにはなりますが、彼らも理解してくれるでしょう」
スレインの無事を見届けるまでは帰る気がないらしいセルゲイの様子に、スレインは苦笑を大きくした。
「分かった。それじゃあまたすぐ後でね」
「はい。陛下、何卒お気をつけください」
セルゲイから見送られ、スレインは祈りの部屋に入る。その後ろにモニカも続いた。
本来は家族と共に祈りの夕食を過ごすのが一般的だが、スレインに家族はいない。一人では昨年のような事態があった場合に助けを呼べない可能性があることと、スレインが個人的に寂しいということもあり、モニカが世話係の名目で夕食を共にする。
スレインは室内を見回す。藁束の飾りは扉からある程度離れた位置に置かれ、それぞれの飾りの間隔も広く取られている。蝋燭はテーブルの上に数本あるのみで、垂れた蝋の受け皿は広く、燭台の背は高い。
「……これで火事になるってことはないよね」
「はい、スレイン様。万が一何かあっても、私が必ずお助けします」
モニカとそう話しながらテーブルにつき、夕食を前にする。
黒パン。キャベツの酢漬け。豆と塩のスープ。薄いワイン。清貧の象徴とされるメニューだ。
「それじゃあ、モニカ」
「はい、陛下」
向かい合わせではなく、隣合わせで置かれた椅子に並んで座るスレインとモニカは、手を繋いで目を瞑る。
「……神は我らの父、そして我らの母。神の恵みに感謝し、我らの新たなる一年にその愛と祝福を賜らんことを願う。我らは神の子なり」
スレインの唱えた祈りの聖句をモニカも復唱し、そして食事を始める。
祈りの夕食とは言っても、別に私語が禁じられているわけでもない。いつもより神への敬虔の念を持って食事に臨めばいいわけで、大声で騒ぐのでもなければごく普通に会話を楽しんでいい。
「なんだか不思議な感覚だな……去年はここで、父さんたちが食事をとっていたんだよね」
なので、スレインはパンをちぎりながら呟く。決して悲しげに言ったつもりはなかったが、モニカから心配そうな視線を向けられて、慌てて笑う。
「ああ、大丈夫。ただ何となく言っただけだよ。父さんたちのことも、母さんのことも、気持ちの上ではもう乗り越えてるから。もうすぐ一年が経つわけだし」
スレインとしては、父と同じ日に旅立った母は、今も父と一緒に神の御許から自分を見守ってくれていると思っている。なので、あまり寂しさは感じていない。
「そう、ですか……スレイン様。私はこれからもずっと、スレイン様のお傍におります」
テーブルの上でスレインの手にそっと自分の手を重ねてくれた彼女に、スレインは微笑む。
「ありがとう。モニカは僕の心の支えだよ……愛してる」
「……私もです。心からお慕いしています。愛しています」
モニカは普段の落ち着いた微笑ではなく、どこか初心な少女のような笑みで答える。
幸福だ、とスレインは思う。
昨年はスレインにとって、そしてこの国にとっても激動の一年だった。苦悩し、疲れ、困難にも直面した。
それら全てを乗り越え、自分は今、確かに幸福を得ている。国王としてこの幸福を享受するにふさわしい程度の貢献を、今この国にできているかはまだ分からないが。
「父さんと母さんが今の僕を見たら、良い息子だと言ってくれるかな」
スレインの声は、自分でもひどく幼く聞こえた。
「もちろんです。先代国王陛下も、お母様も、スレイン様を誇りに思ってくださるはずです」
「……そうか。よかった」
モニカの言葉にスレインは小さく笑い、またパンを千切る。
当然、この後に火事が起こることなどもなく、この年の新年の祝祭は無事に終わった。
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