第44話 冬の日々①
「七っ! 八っ! 九っ! 二百! 一っ! 二っ!」
年が明けた一月上旬。王国軍将軍であるジークハルト・フォーゲル伯爵は、屋外で一人、鍛錬のために剣を振るっていた。真冬の風が吹いている中で、しかしジークハルトは上半身裸。その筋骨隆々の身体からは汗が噴き出している。
武門の貴族家であるフォーゲル伯爵家に生まれ、祖父と父の後を継いで軍人となり、二十余年。ハーゼンヴェリア王国において軍事の実務最高責任者となった今でも、ジークハルトは屈強な肉体を維持し、強き騎士であり続けている。
ハーゼンヴェリア王国は小さな国。王国軍も総勢三百人と、全員の顔と名前を憶えられる規模の組織。こうした組織では将としての能力だけでなく、個人としての強さもまた兵士たちの上に立つ説得力を生む。
王国軍が王家の剣であり続けるためには、まず自分が強く鋭い剣先であらねばならない。それがジークハルトの、祖父や父から受け継いだ考えだった。
ジークハルトが鍛錬をしている場所は、指揮官用の天幕の裏手。ここはハーゼンヴェリア王国領土の東端、かつてはガレド大帝国を刺激しないための緩衝地帯とされ、今は国境防衛のために王家直轄の野戦陣地が置かれている地だ。
ジークハルトは王都ユーゼルハイムで主君たるスレインの戴冠式を見届けた後、国境防衛を指揮するイェスタフ・ルーストレーム子爵と交代するためにこの野戦陣地に来た。
どの国も軍を大きく動かせない冬の間は、ジークハルトがスレインの助言役として付いておく必要はない。また、イェスタフを秋から冬明けまで国境に貼りつけておくのはさすがに気の毒だという、上官としての配慮もあった。
「将軍閣下、鍛錬中に失礼いたします。朝の定例報告にまいりました」
「構わん。ちょうど一段落したところだ」
歩み寄ってきて敬礼した騎士に、ジークハルトは汗を拭きながら答える。
騎士による定例報告は、いつもと変わりない。ロイシュナー街道沿いの山を斥候が進み、ガレド大帝国側の様子を確認したが、目立った軍事行動の予兆はなし……という内容だった。
いかな帝国と言えど、冬に軍事行動をとることはできない。そんなことをしても多くの兵を無駄に死なせるだけ。そもそもフロレンツ第三皇子には、すぐに再侵攻を行う力はないという話も聞こえている。
「報告ご苦労。敵が行動を起こす可能性は万が一にもないとは思うが、それでも警戒はしっかり頼んだぞ」
「はっ」
敬礼して去っていく騎士を見送り、ジークハルトは野戦陣地を見回す。
季節は冬で、敵が動く予兆もない。それもあって、国境に張り付けた五百の兵の半数以上は、先の戦いで廃村となったクロンヘイム伯爵領の農村跡地に駐留させている。援軍であるイグナトフ王国の兵も、多くはそうしている。
そして、山の麓、谷間の入り口に築かれたこの野戦陣地では、急ごしらえの堀や柵を増強するかたちで砦の建造が進められている。
他にやることもない兵士たちは、身体を動かせばとりあえず温まるので穴掘りや木材運搬などの作業に意欲的に従事している。
「……」
平穏なものだ、とジークハルトは思う。
国境防衛とは言っても、実際はこんなもの。やることといえば土木作業か見回り、定期的な戦闘訓練、あとはひたすら待機をしての時間潰し。
しかし、この平穏の中に自分たちの使命がある。自分たちが国境に張り付いて平穏な軍務をこなし続けることで、国そのものの平穏が保たれる。
ジークハルトはシャツを羽織り、装備を身につけ、表に出る。
「よく晴れたいい朝だ! お前ら、今日もしっかり励めよ!」
「「「はっ!」」」
声を張るジークハルトに、兵士たちも威勢よく答えた。
・・・・・・・
およそ五千の人口を抱える王都ユーゼルハイムは、北側に王城の敷地を、南側に臣民の暮らす市街地を抱える造りとなっている。
王城と市街地の間には法衣貴族たちの屋敷が集中しており、その一角にエステルグレーン伯爵家の屋敷もあった。
伯爵家とはいえ領地を持たない法衣貴族。その屋敷は二階建ての小ぢんまりとした造りで、雇っているのも警備要員たる私兵と身の回りの世話を任せる使用人が、総勢で十数人。
この屋敷で、当主であるエレーナは冬の余暇時間を過ごす。
病で早逝した父に代わり、嫡女としてエステルグレーン伯爵家を継いで数年。普段は外務長官として周辺諸国を飛び回っているエレーナにとって、王都に留まることを余儀なくされる冬は、逆に言えば、あまり仕事に追われず家でゆっくり過ごせる貴重な時期だった。
「またここにいたのかい? エレーナ」
屋敷の一室にいたエレーナにそう声をかけてきたのは、十年前に王国西部の領主貴族家から婿として来た夫だ。
穏やかな気質の彼は、家を留守にすることの多いエレーナに代わって、この王都で家を守ってくれている。
夫婦仲は極めて良好。仕事では作り笑顔を貼り付けているエレーナが、心から笑顔を向けられる数少ない存在だ。
「ええ。今年のうちにこの絵を仕上げておきたくて」
エレーナは向き合っていた一枚の絵から、夫の方へと顔を向ける。
王国を出て様々な場所を巡ることの多いエレーナは、記憶に残った光景を絵に残すことを、いつしか自分のささやかな趣味としていた。
「……相変わらず上手いものだなぁ。これも、帝国との戦いの絵かい? これでもう何枚目?」
「ふふふ、四枚目よ。これはハーゼンヴェリア王国とイグナトフ王国の騎兵部隊が突撃していくところの絵。あの戦争に関する絵は、これで最後かしらね」
「同じ題材で四枚なんて、君の今までの絵の中でも渾身の大作だね。国王陛下に献上しても……」
身内の贔屓目が過分に含まれた夫の言葉に、エレーナは苦笑して首を横に振った。
「そんなことできないわよ。この程度じゃ戦争画にはならないわ」
趣味にしてはなかなかの腕だと絵師からも称賛されたことがあるが、所詮はスケッチに軽く色を乗せた程度のお遊びの作品。
先の大戦を戦争画として記録に残す仕事は、軍に随行していた王都の高名な絵師が務めてくれるので、エレーナの絵は必要ない。これはやはり、あくまでも趣味だ。
「そうか、そういうものか……難しいな」
「ところで、何か用があって呼びに来たんじゃないの?」
「ああ、そうだった。君の好きな胡桃のケーキを焼いたんだ。だからお茶にしないか? 子供たちも一緒に」
エレーナは窓から差し込む陽の高さを見て、少し驚く。絵を描くことに集中しているうちに、意外と時間が経っていたらしい。
「そうね、そうしましょう」
立ち上がり、軽く伸びをして夫と部屋を出る。
家でゆっくり過ごせるということは、家族と長く一緒にいられるということ。これもまた、冬の良いところだ。
・・・・・・・
まだ年が明けて間もない日から、セルゲイは王国宰相として執務に励んでいた。冬場なのでいつもよりは暇だが、それでも立場上、他の者よりは仕事が多い。
今日は農務長官ワルター・アドラスヘルム男爵と顔を合わせ、今年の農業計画を確認している。
「……なるほど。確かに、このような手法であれば農民たちにジャガイモ栽培を受け入れてもらうことも早く叶いそうですな」
「これも陛下のご発案だ。ご本人曰く『まだ思いつきの段階』だそうで、具体的にどう農民たちに話すかなどは、これから考えをまとめるとのこと。内容が固まったら、卿も同席させて陛下よりご説明いただく場を設けよう」
「かしこまりました」
その後もしばらく細かな事項について確認し合い、そう時間もかからず仕事の話は終わる。
「ところで、陛下と卿の娘の件だが……」
「ええ、先日娘が屋敷に帰って来た際に、意思を確認しました。さりげなく聞いたつもりがこちらの意図をすぐに察したようで、陛下のもとへ嫁ぐ意思があると明言していました。王家に嫁ぐ上での義務や、わきまえるべき諸々の事項も、私が説明するまでもなく理解していたようです」
セルゲイが尋ねると、ワルターは苦笑交じりに答えた。
「そうか。彼女の意思がはっきりしているのならば良い。あれだけ聡明で有能な娘であれば、確かに諸々の説明も不要だろうな。話が早くて助かると思うことにしよう……とはいえ、政治的な事情もある。正式な結婚は今年の後半といったところか」
スレインはその育ちも、即位の経緯も異例尽くしだった。事態急変に晒された領主貴族たちの感情的な面を考慮しても、王族一同の国葬からスレインの戴冠式、さらに結婚式までをあまり短期間に詰めて行うことはできない。
モニカが王妃となるの背景の事情や法衣貴族側の意図、スレインの子供の世代では東西の領主貴族家と血縁を結ぶつもりであることなどを説明し、それを東西の貴族閥の中で共有してもらい、受け入れてもらうだけの時間も要る。
また、国王の結婚式ともなれば、国葬や戴冠式ほど政治的に重要ではないとしても、せめて近隣諸国からは代表者を招くことになる。そうなると、相手方の事情も考えるとあまり短期間に何度も来訪を強いることはできない……という外交的な事情もある。
とはいえ、王家のさらなる安定のためにも、そう長期間を空けずにスレインに妃を迎えさせ、子作りを始めてもらわなければならない。
それらの事情を勘案して、スレインとモニカの結婚式を執り行うのならば、今年の後半頃というのがセルゲイの考えだった。
「では、アドラスヘルム男爵家としてもそのつもりで心の準備をしておきましょう」
「頼んだ。そのうち陛下からも、モニカとの結婚に許諾を求める話が卿になされるだろう。おそらく直接にな」
「ははは、陛下ご自身からですか」
「ああ。陛下はそういうお方だ……そしてもう一つ。モニカが陛下の妻となれば、アドラスヘルム男爵家は王妃の実家となるわけだが」
「ええ、もちろん心得ております。私が陛下の義理の父となるからと言って、その立場を利用するようなことはしないと肝に銘じます。陛下の義兄となる我が息子についても同じく」
ワルターはセルゲイの言いたいことを察し、即答した。
「そうか。まあ、卿であれば大丈夫だとは最初から思っている。私も立場上、このような話をしないわけにはいかないのでな。理解してくれ」
「承知しております。どうかお気になさらず」
それで今日の話は終わりとし、セルゲイはワルターより先に退室する。
「宰相閣下。お疲れさまでした」
「ああ。今日はもう、人と会う用事はなかったな?」
「はい。正午のご休憩の後は、財務関係の事務処理の予定となっています。この後の昼食は執務室の方で?」
「それで頼む。お前は午後はもう上がっていいぞ」
「いえ、閣下が執務をなされるのであれば、私もお供させていただきたく思います」
「……そうか。好きにするといい」
自身の補佐官であり、甥であり、次期侯爵かつ次期宰相である文官と言葉を交わしながら、セルゲイは城館の廊下を足早に進む。
今年で六十六歳の老齢であるセルゲイは、しかし精力的に執務に励んでいる。冬だからと言ってのんびり余暇を楽しむという考えはない。宰相である自分にそんな時間はないと思っている。
自分の身体が執務に耐えうるのはおそらくあと五年程度か、あるいはもっと短いかもしれない。であれば、残された時間はこの国と王家、新国王たるスレインのために使うべき。
そんな信念を抱きながら、セルゲイは今日も自分にできる仕事をする。
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