二章 国王の受難
第43話 スレインの安息
冬。それは休息の季節であり、耐え忍ぶ季節である。
サレスタキア大陸西部は真冬でも大雪が降るようなことは少ないが、それでも厳寒の中で屋外に居続ければ体力を大きく消耗し、もし長旅でもしようものなら命の危険に晒される。
よって、ほとんどの者は冬の間、活動を縮小させる。晴れた日中以外は屋内で多くの時間を過ごし、内職に勤しんだり、余裕のある者は娯楽に耽ったりする。結果的に、他の季節と比べればのんびり過ごすことになる。
王国暦七十七年の十二月。ハーゼンヴェリア王国はそんな季節を迎えていた。
王都ユーゼルハイムを出入りする者も激減し、周辺地域の巡回に出る兵士や、農地の見回りと手入れに向かう農民くらいしか門を潜る者はいない。後は、稀に近隣の村や都市から、王都に何か急用のある者がやって来る程度だ。
王都内の商店も休業や短縮営業をするところが多くなり、普段通り稼働しているのは、火を扱うので寒さとは無縁の工房くらいだった。
そうして社会の動きが緩やかになると、当然ながらこの社会を維持管理する層も、普段より仕事が少なくなる。法衣貴族や文官はもちろん、兵士でさえいつもより暇になる。
それは国王としてこの国の頂点に立つスレインも同じだ。今年の初めから激動の日々を過ごし、ガレド大帝国の侵攻という壮絶な危機を乗り越えたスレインは、ようやく少し余裕のある日常を得ていた。
スレインの安息の日々は、他の季節よりも遅い起床から始まる。
「……んん」
遅い日の出よりも、さらに少し遅い時間に目を覚ましたスレインは、清潔で心地良いベッドの中で身をよじらせて窓の方を向く。高価な板ガラス越しに部屋に差し込む朝陽を見て、もう朝が来たと知る。
「おはようございます、スレイン様」
そして、すぐ隣から声をかけられる。スレインの副官であり、今やただの副官以上の存在であるモニカ・アドラスヘルムの優しい声だ。彼女はスレインと同じベッドに入っていて、先に目を覚ましてスレインを見つめていた。
「……おはよう、モニカ」
スレインが応えると、モニカは愛に満ちた微笑みを向けてくれた。そしてベッドから上半身だけ抜け出て、脇のテーブルに置かれた水差しの水をカップに注ぎ、スレインに差し出してくれる。
一糸まとわぬモニカの綺麗な身体が、スレインの視界に入る。
「どうぞ、スレイン様」
「ありがとう」
モニカからカップを受け取り、眠っている間に乾いた喉を潤す。
二人だけのときは「国王陛下」ではなく名前で呼んでほしいと、スレインは彼女に頼んでいる。
水を飲み干したスレインは、モニカにカップを返すとすぐにベッドの中に潜り込んだ。寝室では暖房の魔道具が緩やかな温風を生み出しているが、裸ではやはり寒い。
カップをテーブルに戻したモニカもベッドに再び潜り、二人は間近で顔を見合わせる。どちらからともなく微笑み合う。
「……今日もモニカは可愛いね」
「っ、ほ、本当ですか?」
「うん。可愛い。モニカは世界一可愛い」
「……っ」
モニカの顔が見る見るうちに真っ赤になる。
何事においても優秀なモニカは、しかし恋愛においてはスレインとこのような関係になるまでは全くの未経験だったようで、ひどく無防備だ。スレインが面と向かって愛を囁くと、簡単に照れて赤くなる。
他の者は知らない、自分だけが見られる彼女のこんな一面が愛しくて、スレインはいつも愛を言葉にして語る。朝だけでなく、夜も、ときには執務の休憩時間にも。
「……スレイン様」
モニカは瞳を潤ませながら、両手をスレインに向けて広げた。
彼女がどうしたいかは、毎晩一緒に寝ているので分かっている。スレインは彼女の広げた両手の中に収まり、彼女の豊かな胸に顔を圧し抱かれるようにして抱き締められる。
「あぁ、スレイン様……今は私だけのもの……」
心から幸福そうなモニカの声を耳元で聞きながら、スレインもまたこれ以上ないほどの幸福と安心感に包まれる。
・・・・・・・
といったくだりを毎朝挟み、ときには本来「夜の営み」と呼ばれる行為を朝から行った後に、スレインはモニカと共に起床する。
スレインの朝の身支度はいつしか城館のメイドたちではなくモニカの務めとなり、二人で一緒に着替えて顔を洗い、髪を整え、モニカは軽く化粧をして、寝室を出る。
ちなみに、朝の身支度以外にも、就寝時の身支度や入浴時の世話などもモニカの務めとなっている。そのおかげで使用人たちの仕事は少し減り、浴室担当の使用人の職務も、今は浴室の清掃とお湯の用意だけになった。
城館の使用人たちは全面的に主人たるスレインの味方なので、スレインがモニカを毎晩ベッドや浴室に連れ込んでいても何も言わないし、嫌な顔もしない。裏で噂話や妄想話の種にくらいはしているだろうが。
こうして、スレインの冬の朝は遅く始まる。
毎日の執務は真面目にこなしているが、そもそも冬は執務の量が少なくなるので、このような生活リズムでも問題なく国家運営が回る。今もなお知識を増やすための勉強は自主的に行っており、体力維持のための鍛錬もこなしているが、それとて毎日長時間を要するわけではない。
時間に余裕のある穏やかな日々の中、それでも偶には用事もある。この日スレインは、王国宰相セルゲイ・ノルデンフェルト侯爵と顔を合わせていた。定例会議で話すほどでもない、冬の細かな事項についての話し合いだ。
「――よって、向こう数週間は王城外での目立ったご予定はございません。十二月三十一日の正午に王都中央教会で行われる礼拝にご出席いただくのが、陛下の今年最後の公務となります」
「ああ、そうか。王都では毎年の終わりにそういうのがあるらしいね。僕はルトワーレに住んでたから、話でしか聞いたことはなかったけど」
「王と臣民が共に祈ることで一体感を高められるようにと、元々は初代国王陛下が始められた習慣です。礼拝の際は集った民に向けて、簡単にですが陛下がお言葉をかけることとなっています。先代フレードリク陛下が毎年どのようなお言葉を語られていたかは公文書に記録されておりますので、それもご参考にして当日までにお考えください。私が考えてもよろしいですが」
「いや、大切な臣民たちにかける言葉だからね。自分で考えるよ」
「左様ですか。では、先代陛下のお言葉の記録を後日お渡ししましょう」
この件についての話が一段落したところで、スレインはハーブ茶のカップをとった。一口飲もうとして、お茶が残り少ない上にすっかり冷めてしまっていることに気づく。
「陛下。よろしければおかわりのお茶をお持ちしますが」
副官として傍に控えるモニカがそう申し出てきたので、スレインは頷く。
「そうだね。お願いするよ。セルゲイの分も」
「かしこまりました。ただちに」
モニカが退室していくのを見送りながら、スレインはとりあえず冷めたお茶に口をつける。
一方のセルゲイは、モニカが部屋を出て扉を閉めたのを確認した上で口を開く。
「ときに国王陛下。ひとつお尋ねですが」
「ん? 何?」
「モニカ・アドラスヘルムとは避妊をしておられますかな?」
「んぶふっ」
スレインはむせた。咄嗟に机から顔をそむけたので、モニカが書記係として記録していた話し合いのメモは濡らさずに済んだ。
「げほっ、げほっ……し、知ってたの?」
「お言葉ですが、逆に何故私が知らないと思うのですか。モニカが毎晩王城に泊まっていることはワルター・アドラスヘルム男爵からとうの昔に聞いています」
咳き込むスレインに、セルゲイは少し呆れた表情で答えた。
モニカは連日王城に泊まっており、そのことは彼女の父であるワルター・アドラスヘルム男爵にも、その妻である男爵夫人にも黙認されている。
が、年頃の娘が年頃の男のもとに毎晩泊まっていて、二人が男女の関係になっていると考えない親はいない。モニカの現状が両親から黙認されているのも、モニカと男女の関係になった相手がこの国の国王たるスレインだからだ。
そして、王国宰相であるセルゲイは、農務長官であるワルターとは仕事で頻繁に顔を合わせる。モニカとスレインの件を聞いていないはずがない。
「仮にアドラスヘルム卿から聞いていなかったとしても、陛下とモニカの距離感や視線を見ていれば、男女の仲になったと分かります。伊達に六十年以上生きているわけではありません」
「……それもそうだね」
スレインは気まずさを覚えながら返した。スレインも本気でセルゲイに知られていないと思っていたわけではない。王城内では一応公然の秘密のようになっていた自分とモニカの関係について、不意打ちで面と向かって尋ねられて少し戸惑っただけだ。
「話を戻しますが、彼女とはきちんと避妊をしておられますか。これは至って真面目な話です」
セルゲイは真剣そのものの表情で尋ねてくる。
彼の言っている意味はスレインにも理解できる。王族にとって子作りは大切な仕事だが、だからといって正式な婚姻などの過程を経ずに女性と寝て子を生したら、解決不能とは言わないが色々と複雑な問題になる。
スレインが無事に即位して、ハーゼンヴェリア王国の宮廷社会がようやく少し落ち着いたところで、そんな問題が発生したら面倒極まりない。王国宰相であるセルゲイの立場からすれば、スレインが後先考えない行いをしていないか確認するのは道理にかなっている。
「心配しなくても、ちゃんと僕かモニカが『カロメアの蜜』を飲むようにしてるよ。それくらいの分別はあるって」
スレインは苦笑交じりに答えた。
『カロメアの蜜』とは、魔法植物から作られた避妊薬のこと。庶民が気楽に消費できる価格の品ではないが、一国の王ともなればためらいなく使える。愛を交わす男女のどちらかが飲めば女性の妊娠を避けられるという便利な薬で、飲んでから数時間ほど効果がある。
「であれば、よろしゅうございます。娘と男女の仲になった相手が国王陛下ともなれば、アドラスヘルム卿も文句はないでしょうが……それでもモニカと子を生すのは正式な結婚後にしてくださいませ。くれぐれもお願い申し上げます」
その言葉を聞いたスレインは、虚を突かれた表情になった。
「陛下。どうかなさいましたか?」
「……モニカと結婚していいの?」
スレインはモニカと愛し合っており、もちろん彼女を妻にしたいと思っている。
しかし、モニカは男爵家の娘。法衣貴族なので王家との距離はもともと近いが、貴族令嬢としての格は最底辺に近い。
なので、彼女との結婚を周囲に認めさせるのは不可能ではなくても、セルゲイなどは難色を示すだろうし、その説得にはそれなりの労を要すると思っていた。
「おそらく陛下はモニカの家の格を気にしておられるのでしょうが、特に問題はありません。男爵家の娘が王妃になれないという法はありませんし、身も蓋もない言い方にはなりますが、現在の王家においてはむしろ都合が良いとも言えます」
現在、スレインはこの国で生存する唯一の王族。王家と血縁を結ぶための枠が一つしか空いていない以上、妃選びには政治的に慎重なバランス感覚が求められる。
単純に格を考えると、国王の妃ともなれば伯爵以上の貴族家から選ばれるのが一般的。
しかし、東のクロンヘイム伯爵家と西のアガロフ伯爵家のどちらから妃を迎えても、選ばれなかった方の家には不満が残る。かといって、ノルデンフェルト侯爵家やフォーゲル伯爵家、エステルグレーン伯爵家から妻を迎えると、今度は東と西の領主貴族閥それぞれに同時に不満が残る。
ここ数年で先代国王フレードリクが王国軍の増強や鉄と塩の増産による王権強化を成したばかりだ。これで唯一の王族が上位の法衣貴族家と血縁を結べば、領主貴族たちを刺激し過ぎる。国内の結束が急務である今、無用な軋轢は避けたい。
また、他国の王族を妃に迎えるという選択肢も今はない。
最初の侵攻を退けたとはいえ、未だガレド大帝国と戦争状態にあるハーゼンヴェリア王国に、このタイミングで王族を嫁がせたい国はない。ハーゼンヴェリア王国としても、自国に不利な状況で他国の王家と縁戚関係を築き、内政に干渉される余地を作りたくはない。
このような状況下で、アドラスヘルム男爵家のような家は「歴とした王国貴族家ではあるが、無力かつ無害である」という理由で都合がいい。
国家運営において外務以外の長官職はさほど大きな力はなく、当主が農務長官を拝命しているアドラスヘルム男爵家も政治力、資金力共に小さい。そんなアドラスヘルム男爵家が「王妃の実家」になったとしても、それだけで貴族社会のバランスを大きく変えることはない。
スレインがあえて格の低い法衣貴族家から妃を迎えることで、「今は王国貴族社会のバランスを崩すつもりはない」と領主貴族たちに向けて示すこともできる。
政治の世界では「政敵が得をして自分が損をさせられた」という感情が最も大きな禍根を残す。東部の貴族閥。西部の貴族閥。法衣貴族の派閥。三陣営のどこも目立って権勢を増さなければ、結果的にそれが一番バランスを保つことになる。
「なので、陛下がモニカとの結婚後もアドラスヘルム男爵家を露骨に優遇するようなことをせず、東西の貴族閥盟主であるクロンヘイム伯爵家とアガロフ伯爵家を重要視していることを態度で示し続けるのであれば、陛下とモニカの結婚は政治的に良い選択となります」
セルゲイの説明を聞いて、スレインの心の中にあるのは安堵だった。
特に越えるべき障害もなく、モニカと結婚できる。彼女との愛をこのまま守り育んでいける。そう思うと、じわじわと喜びがこみ上げる。セルゲイの前でみっともなくにやけないよう、表情を保つのに少し苦労した。
「ただ、陛下は周辺各国より来賓を迎えて戴冠式を終えたばかりです。東西の貴族閥への説明の時間も要します。結婚式までは少しの時間を空けていただきたい。そして、陛下のお子様の代からは王国貴族家や他国の王家と縁戚を結ぶことが重要になります。最低でも四人、できればそれ以上の子を生していただきたく存じます。王国の安寧のためにも」
それを聞いたスレインは苦笑した。
モニカが多くの子を産むことについては、王妃ともなれば身体的な心配はさほどない。出産時は王家お抱えの医師や治癒魔法使いが付くし、出産の痛みや母体の体力消耗を抑える高価な魔法薬も惜しまず使える。
子育てについても、王家ともなれば優秀な乳母や家庭教師を選び放題だ。
とはいえ、それでも大変な仕事であることに変わりはない。
「分かった。モニカも僕との結婚を望むからには、そのあたりの事情は理解してくれてるはずだし……彼女と結婚した暁には、子沢山の夫婦を目指すよ」
苦笑交じりのスレインがそう答えた直後、ハーブ茶を淹れ直したモニカが戻ってきた。
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