幕間 モニカ・アドラスヘルムの回顧②

今日は2話更新しています。


★★★★★★★



 ガレド大帝国の侵攻。その報を受けて、モニカも皆と同じように衝撃を受けた。

 王国宰相セルゲイ・ノルデンフェルト侯爵の話をスレインと共に聞きながら、モニカは自分の幸福な日々が終わったのだと思った。

 絶望的な戦いか、同じく絶望的な亡命。残酷な選択肢を前にしたスレインの動揺ぶりは、見ていて心が苦しくなるほどだった。怯えきった彼を、できることなら今すぐに抱き締めてあげたいと思いながら、モニカの立場ではふらつく彼の肩を支えることしかできなかった。

 真っ青な顔で謁見の間を飛び出し、不安定な足取りで城館を出る彼の後を追いながら、彼の背中を見ながら、モニカは考えた。せめて最期まで彼の傍にいようと。

 スレインはモニカに輝かしい夢を見せてくれた。人生は、世界はより良いものになり得るのだという希望を見せてくれた。

 たとえ一時だけのものでも、スレインは紛れもなくモニカの救世主だった。それは決して変わらない。世界がこの国に滅びの運命を突きつけるのだとしても。スレインと自分の幸福な日々がここで終わるのだとしても。

 彼が戦うのなら、自分も彼と戦おう。共に侵略者の刃に身体を刺し貫かれて最期を迎えよう。

 彼が亡命するのなら、自分も共に旅立とう。待っているのが行き場もなく朽ち果てる最期だとしても、その最期の一歩まで共にあろう。

 王城の門の前、臣民たちに縋られるスレインの後ろに立ちながら、モニカはそんな悲愴な決意を抱えていた。


「……大丈夫だよ」


 しかし、そんなモニカの目の前で、スレインは言った。先ほどまでの動揺を欠片も見せない、驚くほど落ち着いた声だった。


「大丈夫。僕は君たちの王太子だ。これから君たちの王になる人間だ。この僕が君たちを必ず守る。守ってみせる。何も心配はいらない。ただ、僕を信じてほしい。僕に協力してほしい。僕と共に戦ってくれる者は、僕についてきてほしい。僕が……この国を勝利に導く」


 穏やかに、優しく、しかし力強く。スレインは臣民たちに語っていた。

 彼の言葉は、後ろに立つモニカにもまた響いた。彼の言葉を傍で聞いていると、何の根拠もないのに、彼が自分たちを、この国を、勝利に導いてくれると確信できた。

 モニカは先ほどの自分の決意を恥じた。自分は彼の副官だ。彼に惚れ、彼を支えると決めた身だ。それが何を勝手に、後ろ向きで悲愴な決意を固めていたのか。

 スレインはモニカが考えているよりもずっと偉大だった。モニカが思っているよりもずっと強かった。心の内に秘めていた偉大さを、強さを、彼は今ここで発露させた。自分に見せてくれた。

 臣民たちに語り終えたスレインが、モニカに振り向く。


「戻ろう。戦いの用意をしないと」


 照れくさそうな苦笑を浮かべながら、スレインは言った。

 嗚呼。

 誰にも聞こえないほど小さく、モニカは声を漏らした。

 彼はやはり救世主だ。


・・・・・・・


 その後のスレインの活躍は凄まじかった。彼は常に自信に満ちた態度で、王国の旗頭として振る舞い、臣下と兵士、民を安心させた。自ら決断を下すべきところでは下し、臣下に任せるべき部分は任せ、瞬く間に戦いの準備を進めていった。

 敵将の戦術を踏まえ、圧倒的に不利な状況を覆す奇策をも素早く考え出し、その実行に向けて迅速に動いた。

 それまで王城内において「聡明で温厚だが力強さには欠ける王太子」という評価だった彼は、帝国の侵攻という危機を前に覚醒した。大声を出して勇ましさを示すのではなく、落ち着いた口調で冷静に立ち回るというかたちで、強く賢き君主として才を開花させた。

 モニカは副官として彼の傍で補佐に努めながら、彼の放つ存在感に圧倒された。彼と、臣下と、兵と民。その全体が一致団結して勝利に邁進していく様を、その流れの中心で目の当たりにしながら、高揚を覚えていた。

 彼の横顔を見ているだけで、息を呑んだ。彼の背中を追って歩くだけで、胸が高鳴った。

 野営の夜に彼と同じ天幕の中で眠るとき、軍務中だというのに、まるで少女のように緊張した。彼もモニカが同じ天幕内にいることで、まるで少年のように緊張を見せていて、自分が彼から女として見られていることが嬉しくなった。

 先に眠りについた彼の寝顔を見ながら、その顔に口づけしたい欲求を堪えるのには苦労した。

 彼の率いるハーゼンヴェリア王国の軍勢は、その後も士気高く進軍を続け、帝国の軍勢と対峙。彼の奇策は見事に成功し、三倍を超える敵を相手に王国は完全勝利を収めた。

 まさに王国の歴史に残る大勝。これで危機は去った。彼と王城に帰れる。また幸福な日々を送れる。そう安堵した。


 しかし、彼にとって最後の試練が、意外なかたちで現れた。

 戦死した兵と民との対面。庇護すべき存在が、言葉さえ交わしたことのある者が、自身の指揮下で死ぬという冷酷な現実との対峙。

 それは指揮をとる者にとって避けては通れない試練だと、モニカは王国軍時代にジークハルトから聞いたことがある。幸いモニカは士官としてその試練に直面することはなかったが、臨む戦いでは必ず大将となることを強いられるスレインは違う。

 王とはあらゆる権力を得るとともに、あらゆる義務を、あらゆる責任を負う存在だ。戦いの中で死にゆく者たちのその犠牲が、全て彼の肩にのしかかるのだ。

 青ざめ、震え、冷酷な現実を必死に受け入れようとする彼を見て、モニカは胸が締め付けられる思いがした。

 王になるというのは、こういうことなのだ。

 彼がどれほどの重圧を背負って生きていくのかを、モニカもまた今まで真に理解はしておらず、無邪気に彼を救世主と仰ぎ、彼にあらゆる期待を抱いた。自分の人生を、この世界を、より良い方向へと変えてほしいなどと願った。

 そのために彼がどれほど苦悩し、傷ついていくかを考えもせずに。

 モニカはまた羞恥を抱いた。無力感に包まれた。

 彼はこんなにも苦しんでいる。モニカよりも細く小さな身体を震わせている。血が滲むほど手を強く握りしめて、必死に耐えている。

 その姿があまりにも可哀想で、いじらしくて、モニカは我慢ができなかった。


「……殿下。スレイン殿下」


 気がついたら、モニカは彼に触れ、彼を抱き締めていた。彼に自分の想いを語っていた。涙で視界が滲みそうになりながら、それでも彼の目を見て想いを伝えたくて、懸命に泣くのを堪えた。

 彼は自分の救世主になってくれた。その彼を支えたい。この心と身体の全てをもって彼を支えたい。彼の背負っていく重圧を、ほんの少しでも和らげたい。彼が疲れたとき、安心して縋れる存在に、自分がなりたい。そのためなら何でもする。

 これが自分の望みだ。自分の望む生き方だ。そこにあるのは、単に自分の磨いた能力を活かせるという満足感ではない。単に意義深い人生を送れるという喜びではない。自分はこのために生まれてきたのだと思えるほどの、言葉にならない愛だ。


「……モニカ」


 目を潤ませながら、弱々しく幼い声で縋りついてくる彼を見て、自分の想いが受け入れられたのだとモニカは知った。


「あぁ、殿下……」


 まずは今、この愛をもって、彼の心の傷を少しでも和らげたい。モニカは彼を抱き締めながら、彼と唇を重ねた。


・・・・・・・


 想いを伝え、受け入れられたその日から、モニカとスレインの関係は変わった。モニカは副官として公的にスレインを支えるだけでなく、人目のないところでは一人の女として、私的に彼を支えることを許された。

 慣れない行軍や野営、緊張を強いられる戦い、そして目まぐるしい戦後処理の中で疲れた彼を、毎晩抱き締め、口づけをして、癒すことができるようになった。

 そして、ひとまずの戦後処理を終え、王都ユーゼルハイムに帰還したその日の夜。モニカはスレインと初めて肌を重ねた。

 それからの日々は素晴らしかった。幸福という言葉では足りない。夢のようだった。朝起きた瞬間から夜眠る瞬間まで、いや、眠っているときでさえ、常に彼に寄り添っていられた。自分の一挙手一投足に意義があり、人生の一分一秒に価値があると思えた。

 成長を遂げ、危機を乗り越え、試練に打ち勝ち、スレインは次期国王として必要な力の全てを得た。彼のこれからの歩みに必要な全てが、今は彼の中にある。



 そして今日、彼は王冠を戴く。

 

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