幕間 モニカ・アドラスヘルムの回顧①

 モニカ・アドラスヘルムは、ハーゼンヴェリア王国の建国時から存在する貴族家である、アドラスヘルム男爵家の長女として生まれた。

 年給で暮らす法衣貴族の、それも男爵家となれば、決して贅沢三昧の暮らしができるわけではない。とはいえ、少なくとも貧しい思いをすることもない。モニカは貴族令嬢として不自由なく育ち、教育を受けた。

 幼い頃、モニカは神童と呼ばれていた。文字の読み書きと算術、そのどちらも飲み込みが非常に早く、二歳上の兄に追いつくほどの勢いで学習を進めた。

 その評価は十歳を超える頃には落ち着いたものの、それでもモニカは王国の宮廷社会の中で「とても頭の良い子供」として知られ続けた。法衣貴族の子女は王城の図書室を自由に利用できるので、多くの書物を読み、多くのことを学んだ。

 その飲み込みの良さは、他の分野でも活かされた。父が付けてくれた家庭教師の騎士から、あくまでも兄のおまけとして、護身術程度のつもりで武芸を習い始めると、要領良く腕を上げた。

 この国では女性にも軍人としての道は開かれている。モニカは半ば腕試しのつもりで、騎士資格の取得を目指して十四歳のときに王国軍に入った。当時の王国軍は規模拡大の最中にあり、教養があって家柄の確かな士官候補は歓迎された。

 通常は入隊して五、六年かかると言われている騎士資格の取得を、モニカは四年半で成した。武人として殊更に強かったわけではないが、持ち前の才覚を活かし、剣の腕も馬術も手早く身につけていった結果だった。

 父と母から褒められ、兄から祝福され、叙任式ではフレードリク・ハーゼンヴェリア国王からも直々に称賛の言葉を賜った。


 こうした輝かしい成長の道のりとは裏腹に、モニカの内心には冷めた部分が常にあった。

 モニカにはこれから国のために、王家のために貢献する道筋がいくつか示されている。

 軍に残り、士官として働くのもいい。

 または、知識教養を活かして文官になるのもいい。

 あるいは、他の貴族家に嫁ぎ、王国貴族社会を裏から支えるという道もある。

 どれも堅実で、平穏で、悪くない生き方だ。しかし、どの道においても上りつめる天井は見えている。起こりうる変化も知れている。

 モニカは男爵家の、継嗣ではない一子女だ。軍に残っても将軍や副将軍、近衛兵団長にはなれないし、文官になっても長官職には就けない。他の貴族家に嫁ぐとしても、相手はおそらく同格である男爵家だ。格の低い貴族家で、家庭に収まってしまえば、今まで磨いた能力をもって社会で活躍する機会はほぼない。

 爵位があれば上りつめる天井はもっと高くなるが、貴族家の家督は最初に生まれた子が継ぐのが基本。自分ほどではないが必要十分に優秀で、仲も良い兄から、まさか家督相続の権利を奪うわけにはいかない。

 だからモニカはこのまま、三つの既定路線のどれかをなぞる人生を送る。

 別に不満があるというほどではない。生涯食うに困ることはないだろうし、人生の選択肢を持たない者が大半のこの世界では、まだ恵まれた境遇だ。

 ただ、立場の制約さえなければ、自分の能力ならもっと意義のある仕事ができたかもしれない。そう思うと、この人生と世界は少し退屈だなと感じる。少し閉塞感を覚える。周囲の称賛に微笑みを返しながら、心の中のどこかは常に冷めている。

 そんな人生観と世界観を、モニカは持っていた。


・・・・・・・


 その考えは、突然に覆された。

 モニカたちの主君であるフレードリク・ハーゼンヴェリア国王が崩御した。それだけでなく、王位継承権を持つ者の尽くが急逝した。あまりにも悲劇的な事故だった。

 王とは、王族とは、王国が独立した一国家である正当性の根幹をなす存在だ。この国と王家に仕える者にとって絶対的で究極的な存在だ。それが突然失われてしまった。

 王城内が異様なほどの絶望に包まれる様を見て、モニカもまた絶望を抱いていた。これからこの国にどのような困難が待ち構えているのか、想像もつかない。

 貴族に生まれた自分の今後も、どうなるか分からない。いくつかの選択肢の先に待っているはずだった平穏な人生は、今や確かなものではなくなった。人生とは、世界とは、安定などしていなかった。これほど呆気なく暗転するものなのかと打ちのめされた。

 この人生と世界を少し冷めた目で見てはいたが、こんな変化を望んでいたわけではない。今までの自分の諦念がいかに贅沢なものだったかを思い知ったが、自分がそう思い知ったところで王国の現状は何も変わらない。

 平民出身の庶子が次期国王として王城に迎えられるという話を聞いても、モニカの心は明るくならなかった。他の貴族子女や、王城の使用人、官僚や兵士たちの心も同じだっただろう。

 当然だ。王家の血を半分引いているとはいえ、平民上がりの青年一人をこの国の王族として新たに据えて、それで万事解決と楽観視できるわけがない。

 先が見えない人生と世界を前に、しかしモニカにできることはない。ずば抜けて優秀とはいえ、ただの貴族子女一人に状況を変えられるわけがない。

 もっと意義深い仕事を。そんなことを考えていたかつての自分が恥ずかしくなる。依るべき主家がなければ、仕えるべき主君がいなければ、自分はこれほどまでに無力だ。

 そんな後ろ向きで暗い思考に心を蝕まれていたモニカは、国王の崩御の数日後、父ワルターの執務室に呼ばれた。


「次期国王となるお方の副官の任を、お前に任せてはどうかという話が出ている」


 そう切り出したワルターは、あまり気乗りしない表情で説明を続ける。

 国王と王太子には、副官と呼ばれる従者が付けられる。執務の補佐から日常の御用聞きまでを幅広く務める重要な職務だ。通常は法衣貴族の継嗣の中から特に優秀な者が充てられ、家督を継ぐまでの数年から十数年ほど務め上げる。

 しかし今回、新たに王太子として迎える平民上がりの青年の副官をモニカに任せてはどうかという話が、法衣貴族たちの間で持ち上がっているという。

 平民上がりの次期国王。当然ながら、その人柄や能力への期待値は低い。即位に前向きな気持ちを持ってもらえれば上々。即位後も長年にわたって、もしかしたら退位の日まで、必要な能力を持たない王であり続ける可能性も高い。

 そんな次期国王の副官という仕事は、言葉を選ばずに言うとお守り役のようなものだ。国王を長い間補佐し続けるお守り役。当然ながら高い能力が求められる。

 その点、モニカはちょうどいい。継嗣たちと違って継ぐべき家もなく、今後の身の振り方をまだ決めておらず、今のところ他家に嫁ぐ予定もなく、極めて優秀。現状では最良の人材と言える。法衣貴族たちも安心して、何年でも次期国王の世話を任せておける。

 なので、貴族の中では最も格の低い男爵家の、一子女に過ぎないモニカに特例的に白羽の矢が立った。


「……もちろん、お前がどうしても嫌なら無理にとは言わない。断ってもいい。これは命令ではなく、あくまでただの打診だ」


 優秀な愛娘を、平民上がりの青年のお守り役として使い潰そうとする打診に思うところがあるのか、ワルターは苦い表情でそう言った。


「いえ、引き受けます。次期国王陛下の副官、これはとても名誉ある務めです」


 モニカはそう答えた。

 父や家に迷惑をかけたくないという気持ちもあるが、最も大きいのはやはり諦念だった。

 今の自分には他にできることも、今さらやりたいこともない。であれば、自分が次期国王のお守り役としてこの身と心をすり減らすべきだ。

 自分の立場では本来臨めなかった職務への、特別扱いの大抜擢。それがまさかこのようなかたちで実現するとは。

 以前の人生と世界に少々の退屈を覚えていた自分は、以前より悪くなった人生と世界の現状維持のためにこの身を捧げるのだ。なんとも皮肉な話だ。

 そんな、以前にも増して冷めた諦念だけが、今は心の内にあった。


・・・・・・・


 モニカの諦念は、次期国王――新王太子スレインと初めて顔を合わせても変わらなかった。

 スレインはどこか気弱そうで、自信なさげな青年だった。国王らしい威厳を持っていたフレードリクや、成人前ながら威厳の片鱗を見せていた前王太子ミカエルとは違った。

 それも仕方がない。彼は王族として教育を受けて育ったわけではないのだ。一平民として生きるはずだった彼に、フレードリクたちと同じ資質を求めるのは酷なことだろう。

 おまけに彼は、奇しくもフレードリクの崩御と同じ日に母親を亡くしたのだという。彼もまた、突然に人生が何もかも悪い方へと変わってしまった不幸な一人なのだ。彼には何の罪もない。

 この気の毒で気弱そうな青年が次期国王として君臨するその傍で、自分は彼がなんとか日々の仕事をこなし、王家が形を保てるよう補佐するのだ。彼と力を合わせて、大きく傾いたこの国が完全に倒れてしまわないよう努めるのだ。

 どれほどの期間をそうやって生きるのかは分からない。十年か。二十年か。スレインが退位するその日まで副官という名のお守り役を務めるのかもしれない。

 しかし、今さらだ。分かっていて引き受けた仕事だ。踏み入れた運命だ。

 そう思っていたモニカは、だからスレインが法衣貴族たちのひれ伏す謁見の間から逃げ出したときも、無心で彼の後を追った。副官としての義務感から彼の弱音に耳を傾け、彼に慰めの言葉をかけた。まるで子供の世話をするような感覚でハーブ茶を淹れてやった。

 しかし、ジークハルト・フォーゲル伯爵の話を聞いた後、スレインはモニカにとって予想外の決意を見せた。


「分かりました。僕は王になります。できるだけ良い王を、できることなら父のような立派な王を目指します……時間がかかるかもしれません。どこまでやれるか分かりません。だけど、やってみます」


 そう言ったスレインの表情には、諦念の感情が浮かんでいた。モニカと同じ、自分の運命を諦め混じりに受け入れる感情が。

 しかし、そこにモニカの内心のような暗さはなかった。彼は自身の諦念にただ流されて生きるのではなく、諦念を抱きながらも前を向き、自分の意思で歩むと言った。


「……」


 そうか。彼はただ王位につくのではなく、良き王を目指すのか。

 スレインの横顔を見ながら、モニカは思った。

 彼は酷な人生と世界を諦念混じりに受け入れながら、それでもその人生と世界をより良いものにしようと挑戦する生き方を、今ここで選んだ。

 彼がその生き方を貫き、本当に良き王となってくれるのであれば、彼にそれだけの力があるのならば、この国は立ち直る。一国家としての存続さえ危ぶまれたほどの悲劇を乗り越え、これまでの歴史とこの先の自立を守る。さらなる発展の可能性さえある。

 そして、モニカは単なるお守り役ではない真の意味での副官として、この国に、王家に、そして主君たる彼に貢献できる。この仕事は本当の意味で、男爵家の一子女という本来の自分の立場では得られなかった意義深い務めとなる。

 モニカと同じ、いやモニカ以上に困難な状況で大きな諦念を抱えながら、それでもその諦念に圧し潰されなかったスレインは、とてつもなく大きな可能性を秘めた存在に見えた。

 スレインはこの世界の暗い現状を好転させ、モニカの人生にとても大きな意義を生み出してくれるかもしれない、唯一の存在となったのだ。

 現状維持の平穏か、悪い方向に転がるかのどちらかしかなかったこの人生と世界が、より良い方向へと転換していく様を、彼ならば見せてくれるかもしれない。人生は、世界は、良い方向へと変わっていくという希望を、彼が持たせてくれるかもしれない。

 それならば、彼を支えよう。自分にとって救世主かもしれない彼を、全力で。彼の意思とともに歩んでみよう。モニカはそう決意した。


・・・・・・・


 その日以来、モニカは常に全力でスレインを支え続けた。心から彼の味方であり続けた。

 あらゆる言葉でスレインを励ました。スレインに必要な知識を、スレインにより迅速に理解してもらえるよう、毎晩寝る間を惜しんで翌日の授業の準備をした。

 スレインが平民から王太子に選ばれた政治的な事情を、彼が自ら察してくれるように、さりげなく情報の断片を語り聞かせたりもした。お飾りの王にはなりたくないとより一層の努力に励む彼を、モニカもまたより一層支えた。

 日々、着実に、スレインは成長していった。ときに悩みながら、悔しがりながら、それでも歩みを止めなかった。ただ成長するだけではない。王領の食料自給率改善については、モニカも驚くような妙案を提示するなど、賢王としての才覚を早くも見せた。

 モニカにとっての救世主として、スレインは日に日に輝きを増していった。ひたむきに前進する彼はまぶしかった。そんな彼を誰よりも近くで支えられることが、心から嬉しかった。

 褒められたことではないと分かっていても、いつしかモニカは一臣下としての分を越えた感情を彼に抱くようになっていた。彼と共に歩む日々の空気がそうさせた。前に進み続ける彼を一人の男と見て、自分は一人の女として彼の背を追っていた。

 それを彼に気づかれるのは怖かった。自分は一人の副官として彼に頼られている。信頼されている。そんな今の立ち位置が僅かでも揺らぎ、変わるのは怖かった。

 スレインと出会う前のモニカは他者に恋慕の情など抱いたことはなかったが、片想いの恋がときに人の関係を破壊することは知識として知っている。

 だから、せめて副官としてずっと彼の傍にいられるよう、モニカは努めて自分の情を隠した。

 密かに想いを寄せる相手を支えながら、より良い未来が待っていることを期待しながら、彼とともに前に進む日々。モニカにとって、今までの人生で最も充実した幸福な日々だった。

 この穏やかで幸福な日々がずっと続いてほしい。スレインの歩みを見つめながら、彼を支え寄り添いながら、叶うのならばいつか彼と男女の関係になりたい。第二以下の王妃でも、愛人でも、どんな立場でも構わないから。

 そんな、初心な少女のような夢想を抱きながらモニカは毎日を生きていた。モニカにとってこの日々は、少し遅れてやって来た青春だった。

 スレインは目覚ましい成長を見せながら、戴冠の日を迎えようとしていて――そして、彼とこの国の前に恐るべき困難が立ちはだかった。

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