第33話 決戦の朝

 ハーゼンヴェリア王国暦七十七年。九月三十日。早朝。

 スレイン率いるハーゼンヴェリア王国の軍勢は、トーリエの前に置かれた野営地で朝の支度を整えていた。

 王国軍、近衛兵団、王宮魔導士、王領の徴募兵、王国東部の各貴族領より合流した兵、傭兵、そして水魔法使い。そこへリヒャルト率いる、負傷や消耗が比較的軽いクロンヘイム伯爵領の兵力が百余人加わり、総勢は千六百人ほどまで増えた。これでもまだ、敵の三分の一に満たない。


「ですが、士気は旺盛です。皆が土地や家、家族を守るという決意を滲ませています。皆が勝利を信じています……これも殿下が常に自信をみなぎらせ、皆を鼓舞してきたからこそでしょう」


 兵士たちの状況を、ジークハルトはそのように報告する。


「そうか……何よりだね」


 スレインは努めて穏やかに笑う。

 いよいよ戦いの日。今日の勝敗でハーゼンヴェリア王国の運命が決まる。

 心の中にあるのは少しの高揚と、少しの緊張。スレインにとってはこれが初陣だ。大将としての初陣が、これほど重大な戦いになる者は、大陸の歴史を見てもそうはいないだろう。

 兵を励ますというより、むしろ彼らから元気をもらいたいと思い、スレインは護衛にモニカとヴィクトルを伴って朝の野営地の中を歩く。


「あっ、王太子様!」


「王太子殿下、おはようございます!」


 スレインに気づいた徴募兵たちが、明るく声をかけてくる。支給品である粗末な槍や剣を手にした彼らの中には、これまで王都でスレインが言葉を交わしたことのある者も見かけられた。


「皆おはよう。今日はよろしく頼むよ」


「任せてください!」


「王太子様が大将をやってくれるんだから、俺たちも気合いが入りますよ!」


 ごく一部の将兵と当事者の水魔法使いたちを除いて、スレインが用いる奇策の具体的な内容を知る者はいない。徴募兵たちに至っては、スレインに策があることさえ知らない。

 それでも彼らはスレインを慕い、信じてくれている。その事実がスレインの覚悟をより固めてくれた。


「王太子殿下!」


 徴募兵たちだけでなく、王国軍兵士からも声がかかる。スレインが王国軍の訓練に参加した際にも陽気さを見せてくれた、第一大隊第三中隊の隊長、騎士グレゴリーだ。


「おはよう、グレゴリー」


「おお、名前を憶えていただき光栄です! 今日は殿下の御前で勇ましく戦い、大戦果を挙げてご覧に入れます! その暁にはどうか、私を次期大隊長に――」


「グレゴリー! 貴様は馬鹿か! 俺やフォーゲル将軍閣下を飛び越えて、いきなり王太子殿下にお願いするなど言語同断だ! 降格するぞ!」


「いってえ!?」


 調子に乗ったグレゴリーの頬を容赦なくぶん殴ったのは、王国軍の副将軍で、第一大隊長を兼務するイェスタフ・ルーストレーム子爵だった。相変わらずのグレゴリーに兵士たちが声を上げて笑い、釣られてスレインも笑った。

 その後もスレインは野営地を回り、近衛兵団や、ブランカをはじめとした王宮魔導士たち、リヒャルトをはじめとした東部領主貴族たちと言葉を交わしていく。

 皆のもとをあらかた回り、天幕に戻ろうとしていると、酒保商人たちの様子が目に入った。

 これから会戦の場に赴くスレインたちとは違い、商人たちはこの野営地で待機する。そう聞いていたが、何故かベンヤミン他数人が革製の胸当てを着込み、移動の準備をしている。


「これはこれは王太子殿下。おはようございます」


「おはよう、ベンヤミン……君も来るの?」


 こちらに気づいたベンヤミンに挨拶を返しながら、スレインは尋ねる。


「はい。殿下が敵に勝利された直後より、戦利品の管理や医療品の補充など、商人の仕事はございます故。すぐに御用聞きを務められるよう、戦場までお供させていただきます」


「……危険じゃないの? 特に今回みたいな戦場は」


 敵はこちらの三倍以上。スレインは勝つつもりでいるが、どうなるかは戦うまで分からない。

 もしハーゼンヴェリア王国の軍勢が破れ、敵の大軍に飲み込まれれば、ベンヤミンたちも命の保証はない。乱戦の場では戦闘員と非戦闘員の区別などつかない。

 スレインが心配に思って尋ねると、ベンヤミンはねっとりとした笑みを浮かべた。


「畏れながら殿下。商人は信用が命でございます。エリクセン商会は、御用商会として利益や運命をハーゼンヴェリア王家と共にする。その覚悟を示し、殿下より信用をいただくためであれば、私自身の命など安いものです」


 その言葉を聞いたスレインは驚きに片眉を上げ、そして相好を崩す。


「ありがとう。君の覚悟を後悔はさせないよ」


 ベンヤミンは恭しいお辞儀でスレインの言葉に答えた。彼が法衣貴族たちから、そして亡き父から御用商人として大きな信頼を置かれてきた理由が、ようやく真に分かった気がした。

 それからほどなくして、千六百人の軍勢は準備を整える。

 間もなく移動が始まろうという段になったそのとき――単騎で野営地へと近づく者がいた。

 野営地に入る前に近衛兵たちによって制止させられたのは、外務長官エレーナの部下としてハーゼンヴェリア王家に仕える騎士だった。


「エステルグレーン閣下より、王太子殿下にご報告です!」


 そう叫ぶ騎士が近くに寄るのをスレインが許可すると、歩み寄ってきた騎士は片膝をつく。


「ご報告します! ハーゼンヴェリア王家の名で周辺国に援軍を求めたところ、イグナトフ王国がこれに呼応しました! オスヴァルド・イグナトフ国王が自ら騎兵五十を率い、間もなくここへ到着します!」


・・・・・・・


 イグナトフ王国より援軍が駆けつける。その報告を受けたスレインたちは出発を少し遅らせ、間もなくオスヴァルド率いる騎兵五十と合流した。

 合流後、イグナトフ王国軍の案内役として随行していたエレーナが、指揮官であるオスヴァルドをスレインのもとまで連れてくる。


「オスヴァルド・イグナトフ国王陛下!」


「……」


 スレインが喜色満面で出迎えると、オスヴァルドは不機嫌そうな顔を向けてくる。


「こうして共に戦っていただけますこと、心より感謝します。何とお礼を申し上げればいいか……」


「……勘違いするなよ。別に貴殿のことが好きで助けに来てやったわけではない」


 満面の笑みのまま言葉を続けるスレインに、しかしオスヴァルドは苦虫を噛み潰したような表情で答えた。


「もしガレド大帝国がハーゼンヴェリア王国を支配下に収めれば、次はイグナトフ王国が侵略者たる帝国と国境を接することになる。そのような危機にさらされるより、ハーゼンヴェリア王国が無事なうちに助力した方がいい。それだけだ。あくまで我が国の利益を考えただけだ……それに、帝国には前から腹が立っていた。叩きのめしてやるのに、今回は好都合だ」


 ハーゼンヴェリア王国と同じく、イグナトフ王国もエルデシオ山脈によってガレド大帝国と国土が隔てられている。しかし、イグナトフ王国沿いの山脈にも何箇所か山の浅い部分があるそうで、時おりそこを越えて、盗賊崩れの帝国民が少数、略奪に入ってくるという。

 イグナトフ王家は略奪による損害について帝国へとたびたび抗議していたが、国力差がありすぎるために抗議はまともに聞き入れられなかった。なのでイグナトフ王国において、帝国への印象はかなり悪い。大陸西部の社会情勢に関する勉強でスレインもそう学んでいた。


「他にも周辺の数か国に援軍を求めましたが、軍の編成と出発が間に合わないため、あるいは勝てる見込みのないハーゼンヴェリア王国に助力することはできないという理由で断られました。今ごろは私たちが帝国に敗れた場合に備え、我が国との国境を死守するつもりで防衛準備を進めているのでしょう……求めに応じてくださったのは、オスヴァルド国王陛下のみです」


「ふんっ、急に助けてくれなどと言われ、我が国とて迷惑したのだ。言っておくが、この騎兵五十は我が国の兵力のほんの一部。時間さえあれば、もっと多くの兵を連れてくることができた」


 エレーナが説明する横で、オスヴァルドはスレインから顔を逸らして不満げに鼻を鳴らす。


「ですが、我が軍にとって騎兵五十の援軍は大きな戦力です。陛下のお力をお借りすることで、我が国の勝利はさらに決定的なものとなります。あらためて感謝を」


 そんなオスヴァルドに、スレインは苦笑しながら答える。

 スレインは自身の策を成功させる自信はあったが、その後に勝利を掴むには、こちら側の打撃力がやや心許ないと思っていた。

 ハーゼンヴェリア王国の軍勢千六百のうち、騎兵は百騎にも満たない。そこからスレインを守る直衛や、歩兵の指揮をとる士官を除けば、騎兵としてまとまった運用が叶うのは六十騎ほど。

 それがオスヴァルドの引き連れてきた援軍のおかげで、倍近くになった。百を超える騎兵は、投入するタイミングが適切であれば、決定的な打撃力となり得る。


「ちっ、呑気に笑いおって……エステルグレーン卿から聞いたが、何やら策があるらしいな。これは貴殿の戦だ。我々は貴殿の望み通りに使われてやる。我々を有効に使わなければ許さんぞ。貴国に勝てる見込みがないようであれば、我々はすぐに手を引くからな。そのつもりでいろ」


 吐き捨てるように言ってこの場を去ろうとしたオスヴァルドは、途中で立ち止まる。


「……正直に言うと、貴殿は戦わずに他国にでも逃げると思っていた。最初に会った国葬の場で、貴殿を卑しい平民上がりと呼んだことは取り消そう」


 スレインの反応を確認することなく、オスヴァルドは自軍の方へ戻っていった。

 オスヴァルドの後ろ姿を見送りながら、スレインの頬が緩む。少々締まりのない、にんまりとした笑顔を浮かべながらふと横を見ると、目の合ったモニカが無言で微笑み返してくれた。


「殿下。敵より早く布陣するために、そろそろ出発しなければ」


「……そうだね。行こう」


 ジークハルトの進言を受けたスレインは、表情を引き締めてそう答える。

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