第32話 到着

 モルガン・デュボワ伯爵率いるガレド大帝国の侵攻軍は、ハーゼンヴェリア王国の東端、クロンヘイム伯爵領の領都トーリエの攻略を続けていた。

 先行してハーゼンヴェリア王国に攻め入った騎兵三百に、伯爵領から呼び寄せた援軍としてさらに騎兵二百、そして帝国民からの徴集兵を中心とした歩兵が五千弱。ある程度の数が集まった順にハーゼンヴェリア王国へと侵入させた各部隊が合流し、今は総勢五千強の大軍を成している。

 それだけの軍を以て攻撃を続けても、トーリエ陥落はまだ叶っていない。

 クロンヘイム伯爵領は、百余年前の統一国家時代からガレド大帝国との国境を守っていた地。その領都ともなれば、小ぶりながら城塞都市としての完成度は高く、一度籠城されてしまえばいかに五千を超える大軍で攻めても簡単には落とせない。

 トーリエ防衛を担う敵の指揮官が有能であり、モルガンの率いる兵の多くが素人の徴集兵であることも、この膠着した戦況に影響している。


「デュボワ伯爵閣下。西を偵察していた斥候より報告です。ハーゼンヴェリア王家の旗を掲げた敵軍およそ千五百が、アルヴェーン子爵領よりクロンヘイム伯爵領に進行。数時間後にはここへ到達するものと思われます」


 膠着した攻城戦の様子を無表情で眺めていたモルガンのもとに、側近格の一人である騎士が告げに来る。


「……そうか。本当に来たのか」


 報告を聞いたモルガンは、不敵な笑みを浮かべた。

 今のところ、ハーゼンヴェリア王国への侵攻は予定通りに進んでいない。

 本当は侵攻から数日でクロンヘイム伯爵領を無力化し、今頃は王都ユーゼルハイム近郊まで迫っているはずだった。そうして敵将であるハーゼンヴェリア王太子が動く間もないうちに完全勝利を掴むはずが、その逆に、戦いの準備を整えた王太子の軍勢の方がこちらへ来てしまった。

 そんな状況を、しかしモルガンは楽しんでいる。

 モルガンは戦いを生きがいと考えているが、今まで経験した戦いは規模の小さなものばかり。いずれもあまり苦戦することなく勝利した。そんな味気のない戦いではなく、手に汗握る戦いに臨むことを悲願としていた。

 そして今、そんな待ち望んだ戦いの中にいる。今回もやはり大した手応えもなくハーゼンヴェリア王国を落とせてしまうのかと思ったが、その予想は裏切られた。

 国境の領地を守る敵の貴族は、領都籠城の準備時間を稼ぐために小勢を率いて自ら玉砕するという見事な散り様を見せた。

 その貴族と同じ旗を掲げる息子は、多勢を前に粘り強く領都を守り抜いている。

 平民上がりの王太子は戦う度胸もなく逃げ去るかと考えていたが、自ら軍勢を率いてここまでやって来た。千五百という兵数は、予想より少しばかり多い。よく集めたと言える。

 これぞ戦争だ。モルガンは心から喜びを覚えていた。


「閣下、いかがいたしましょう。陣形を整え、敵を迎え撃ちますか?」


「いや。連日の攻城戦でこちらの兵も疲れている。ここは一旦退いて態勢を立て直すとしよう……そして明日、会戦によって勝利する。全力をもって叩き潰してやる。それこそが、臆することなく戦いに来た王太子への敬意だ」


・・・・・・・


 三日間の行軍を無事に終えたスレインたちは、先行していた各部隊を集結させていたジークハルトと無事に合流した。

 そこで編成を済ませ、隊列を整え、集結地点であるアルヴェーン子爵領から戦場であるクロンヘイム伯爵領へとその日のうちに進軍。

 夕方前には、領都トーリエを視認できる距離まで迫った。


「……五千の敵か。こうして直に見ると凄い迫力だね」


「私も軍人となって二十年以上になりますが、これほど大規模な軍勢を目にしたのは初めてです。何とも、衝撃的ですな」


 スレインの呟きに、ジークハルトが頷く。

 ガレド大帝国からの侵攻軍がおよそ五千であることは、斥候によって確認されていた。しかし、報告で数字だけを聞くのと、その大軍を実際に目の当たりにするのでは印象は段違いだ。

 人口数万からせいぜい十数万の小国が並び立つサレスタキア大陸西部では、比較的規模の大きな武力衝突でも、動員兵力は敵味方合わせて数百。小競り合いの場合は数十人規模と、少し派手で怪我人の多い喧嘩程度のことが多い。

 ハーゼンヴェリア王国が歴史上で経験した最も大きな戦いも、六十年ほど前に隣国と国境線を争った際の、両軍合わせて千人程度のもの。死者は両軍合わせて百人に満たなかったという。

 それらと比べれば、五千の敵というのはまさに空前絶後。自国の総人口の一割に匹敵する侵攻軍を前にして、衝撃を受けない者はいない。

 とはいえ、スレインたちが感じたのは驚きだけ。焦りは未だ覚えていない。


「あの様子だと、撤退までもう少しかかりそうだね」


「大軍というのは得てして動きが鈍いものですからな。こちらも千五百が整列して行軍を開始するまでに半時間ほどかかりました。敵がこちらの接近を察知して五千もの人数を退かせるまで、一時間では足りないでしょう」


 スレインたちの側も、ガレド大帝国の侵攻軍も、互いに斥候を送り合っている。敵がこちらの接近を察知して、軍をトーリエから一旦退かせようとしていることは、こちらも斥候によって察知していた。今日ここで戦いにならないことは、事前に把握されていた。

 攻城戦によって兵が疲弊し、会戦に臨める隊列も整えていないために敵は一旦退こうとしているが、スレインたちは軍を止めてそれを静観している。会戦に臨める隊列を整えていないのはスレインたちも同じだ。こちらの兵も行軍で疲れている。

 ようやく準備を整えた敵が一旦退いていったのは、日が傾き始めてから。それを見届けた上でスレインたちはトーリエへと軍を進めた。

 王家の旗を掲げた千五百の軍勢の接近。それを受けて、トーリエの門がおよそ一週間ぶりに開けられる。

 ところどころ損壊し、おそらくは上ろうとした敵兵の血がこびりついた城壁の中央。未だ形を保っている頑丈そうな門が開き、中から現れたのは騎乗した若者だった。


「クロンヘイム伯爵の嫡男……いえ、既に当代クロンヘイム伯爵となった、リヒャルト殿ですな」


 現れた若者が、玉砕したエーベルハルトの息子であることを、ジークハルトが語る。

 ジークハルトとヴィクトル、モニカを引き連れて門の前までスレインが進み出ると、それを認めた若者――リヒャルトは、下馬してそのまま片膝をつく。

 彼の着用する金属鎧はところどころ汚れ、血もついている。彼の髪も土や泥、血で汚れている。この一週間、彼らが激戦をくり広げていたことが分かる。


「王太子殿下。亡き父に代わって指揮をとっておりました、リヒャルト・クロンヘイムにございます……敵の王国領土侵入を許し、無様にも防戦一方となったこと、国境を守る伯爵としてお詫びのしようもございません」


「クロンヘイム伯爵。どうか顔を上げてほしい」


 スレインが呼びかけると、リヒャルトは膝をついた姿勢のまま顔を上げた。

 矢か槍でも掠ったのか、左の頬にはまだ生々しい傷が走っている。その表情は硬く、その目は不安定な感情を覗かせていた。

 賢くはあるが威厳に欠ける王太子。少し前までのスレインのそんな評価は、あくまで王城内や、王都周辺でのもの。領主貴族家の嫡男だった彼が、スレインの聡明さを、ましてや今のスレインの覚悟を知るはずもない。

 この平民上がりの王太子をどう見ればいいのか。信じていいのか。頼っていいのか。リヒャルトからはそんな迷いが見てとれた。

 だからこそ、彼に少しでも安心感を与えるために、スレインは微笑む。


「詫びる必要なんてない。予兆もなくガレド大帝国が侵攻してくるなんて、王家も考えていなかった。その前提で国家運営を考えていた。これは王家の責任でもある……今はただ、礼を言わせてほしい。クロンヘイム伯爵家の膝元を戦場として、敵を食い止めてくれたことへの礼を」


 スレインの言動が、何より落ち着き払った態度が意外だったのか、リヒャルトは目を丸くする。


「帝国が恐るべき大軍をもって侵攻してきたにもかかわらず、ハーゼンヴェリア王国はその侵攻をクロンヘイム伯爵領で、一週間にわたって食い止めることができた。これは紛れもなくクロンヘイム伯爵家の功績だ。次期国王として、伯爵家の奮闘に心から感謝する。そして約束する」


 スレインは膝が汚れることも厭わずその場にしゃがみ、リヒャルトと視線を合わせる。


「ここからは僕たちが帝国と戦う。戦って勝利する。君たちの奮闘を……君の父君が命をもって示した忠誠と献身を、決して無駄にはしない。だから安心してほしい。そして、もし余力があれば僕に貸してほしい」


 勝利。スレインが自信に満ちた表情でそう口にしたことに驚愕していたリヒャルトは、しかしすぐに表情を引き締める。


「はっ。最後まで共に戦わせていただきます、殿下」

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