第31話 初めての行軍

 ハーゼンヴェリア王国暦七十七年。九月二十七日の早朝。王家の軍勢は王都を発ち、進軍を開始した。

 とはいえ、全軍が一斉に出発するわけではない。軍隊は数が多くなればなるほど行軍が遅くなるため、数十人ほどの部隊に分かれて順次王都を発つ。

 まずは最も足の遅い徴募兵たち。彼ら数十人ごとに王国軍の小隊を付けて、次々に東へと送り出す。これらの部隊は物資輸送などは担わず、ただ会戦に間に合うよう進むのが使命となる。

 その後に、王国軍が小隊あるいは中隊規模で順次出発する。彼らは王家が独力で集めた分の物資輸送も担っている。

 将軍であるジークハルトも、先行した各部隊を集結地点で指揮するために、これらの中の一隊と共に発つ。

 また、各貴族領の部隊や、王領の中でも王都からやや遠い位置にいた王国軍と徴募兵は、王都に集結することなくクロンヘイム伯爵領を目指し、途中で本隊と合流する。

 ばらばらに発った各部隊の集結地点はクロンヘイム伯爵領の西、アルヴェーン子爵領という貴族領に定められている。

 最後に王都を発つのは、王太子スレインを擁する部隊。

 スレインとモニカ、そしてヴィクトル率いる近衛兵団、王宮魔導士、医師や聖職者、雇い集めた水魔法使い。さらにはエリクセン商会をはじめとした酒保商人の輸送隊と、その護衛の傭兵も同行する。総数は二百人近い。


「長い移動になるけど、よろしくね、フリージア」


 スレインが首を撫でてやると、前王太子から受け継がれた愛馬は気持ちよさげに鼻を鳴らしながら顔をすり寄せてきた。鼻先で頬をこすられ、スレインはくすぐったさを感じながら笑う。


「お待たせしました、殿下」


 そこへ、自身の愛馬である栗毛の雌馬を連れたモニカがやって来た。


「先ほどベーレンドルフ閣下より、全員の出発準備が整ったと報告がありました。いつでも発てますが、ご準備はよろしいですか?」


「うん、僕は大丈夫だよ」


 スレインはそう言って、フリージアに乗る。背が低いために多少手間取るものの、今は一人で馬に乗り降りすることができるようになっている。

 スレインの横ではモニカが素早く乗馬し、スレインを先導するために前に出る。彼女の後に続いて進むと、城門の前に集合したヴィクトルたちが待っていた。


・・・・・・・


 臣民たちの盛大な見送りを受けながら王都を発ったスレインたちの部隊は、クロンヘイム伯爵領へと続く街道を東に進んでいた。

 隊列の先頭から最後尾まで、実に数十メートル。その中央、最も安全な位置でスレインは――フリージアの背に揺られながら、ぼうっとしていた。

 馬の最大の利点は、ただ道に沿って進むだけなら、乗り手が指示を出さずとも自分で考えて歩いてくれること。クロンヘイム伯爵領までの街道は幅も広く、よく整備されているので、隊列は詰まることもなく一定のペースで進み続ける。スレインがフリージアに何か指示する必要はない。

 精鋭の近衛兵団と長距離移動に慣れた酒保商人によって構成される部隊は足が速い方だが、それでも「人が歩くにしてはやや速い」という程度。

 最上級の馬具を用いているスレインは他の者と比べて疲労の度合いも少なく、景色を眺める余裕さえあった。


「何ていうか、意外と……」


「牧歌的、に感じますか?」


 思っていたことを言い当てられたスレインが少し驚いて振り向くと、傍らについているモニカがくすっと笑う。


「私は騎士見習いのときに国境の小競り合いに参加したことがありますが、戦場に赴くまでの行軍は意外とこんなものです」


「奇襲のための急ぎの進軍や、敵に追われながらの退却でもない限り、これが一般的な行軍です。無理に急いだところで脱落者が増え、戦場にたどり着いた頃には疲労が溜まり、結果的に本番の戦いで不利になるだけ。こうして淡々と、着実に進むのが最も賢いやり方です」


「……そうか。まあ、そうだよね」


 モニカとは反対側を守るヴィクトルも会話に加わり、彼らの話を聞いたスレインは呟く。

 勇んで王都を発っても、いざ戦うまではまだまだ時間がある。集結地点に到着するのは明後日の昼頃の予定。そこからトーリエに到着するのは夕刻だ。

 敵はおそらく陣形を崩しながらトーリエを攻めている最中で、こちらは到着したばかり。時間的にも状況的にも当日はお互い会戦に臨めないので、決戦はさらにその翌日。両軍があらためて陣形を整えてからとなる。なので、今から気を張り続けていては持たない。

 戦争とはそういうもの、戦うより移動する方が長いものだとスレインも知識としては学んでいたが、いざ実際に臨むとやはり少し不思議な感覚がした。


「なので、今はまだあまり気を張らず、いっそ気楽に進みましょう、殿下」


「あはは、分かった。そうしよう」


 笑顔のモニカにスレインも笑い返すと、よく晴れた秋空を見上げ、清々しい空気を吸った。


・・・・・・・


 王太子スレインを擁する部隊が王都を発ったのは正午前だったので、一度休憩を挟んで五時間ほども進むと、この日は行軍を終えることになる。

 時間に余裕がある場面であれば、道中の都市や村などできりよく停止して宿泊するが、今回は急ぎの行軍。時間いっぱいまで進んだ末に、平原の真ん中でそのまま野営をする。


「皆、さすがに手際がいいね」


「近衛兵団も王宮魔導士も行軍や野営の訓練は積んでいますし、酒保を務めるような商人たちは野宿にも慣れています。野営やその片づけの手際がいいことも、彼らがこの最後の部隊に選ばれた理由です」


 次々に天幕が立てられ、焚き火が用意され、野営地の一角では夕食作りなども進められていく様をスレインが感心しながら見ていると、その横でモニカが解説してくれた。

 と、そこへ近づく大きな影があった。後ろから差す夕陽が急に暗くなった気がしてスレインが振り向くと、巨体で夕陽を遮っていたのは御用商人ベンヤミンだった。


「王太子殿下、行軍お疲れさまでございました」


「ありがとうベンヤミン……どうしたの?」


 例のごとくねっとりした笑みを浮かべ、揉み手をしながら声をかけてきたベンヤミンは、傍から見ると何か悪だくみをしているように誤解しかねない。


「大した御用ではございません。ただ、殿下は今回が初めての行軍だと聞き及んでおります。さぞお疲れになったかと思いまして、何かご用意させていただければと……蜂蜜を入れた柑橘の果実水などはすぐにご用意できますが、いかがでしょうか?」


 どうやらベンヤミンは、御用商人として純粋な気遣いから声をかけてくれたらしかった。

 スレインは身構えてしまったことを心の中でベンヤミンに詫びつつ、モニカに視線を送る。蜂蜜入りの果実水はありがたいが、自分だけそんな贅沢をしていいのか判断がつかない。

 スレインの内心を察してくれたらしいモニカは、優しく微笑んだ。


「問題ないかと思います。殿下はこの国で最上位のお方。果実水をとる程度であれば、貴きお立場にふさわしいお振る舞いかと。何より、殿下はお元気であり続けることも重要なお役目です。お疲れをとるためにも、甘いものをとるのはよろしいのではないでしょうか」


「……それじゃあ、もらおうかな」


「かしこまりました。すぐにご用意いたします」


 ベンヤミンは揉み手をしながら恭しく頭を下げ、立ち去ろうとする。


「あっ、ベンヤミン……ハウトスミット商会のエルヴィンの様子はどうかな?」


 スレインとエルヴィンの関係は、口添えをした際にベンヤミンにも伝えてある。スレインが呼び止めて尋ねると、ベンヤミンは王太子の小さな公私混同を気にした様子もなく、笑顔を見せた。


「非常によく働いてくれています。私の目から見ても、彼は若く有能な商人ではないかと思います……今回のようなきっかけさえあれば、ハウトスミット商会を大きく発展させていける人材だったのではないかと」


「そうか。それはよかった」


 スレインは安堵の笑みを浮かべた。

 エルヴィンは次期国王の幼馴染という立場を得た。せっかくならその幸運を活かして、商人として大成してほしい。

 しかし、それにはエルヴィン自身の実力も要る。エルヴィンも、周囲に分不相応と見られながら、次期国王の幼馴染というだけで重用されるのは居心地が悪いだろうし、何より彼の商人としての誇りが許さないだろう。

 エルヴィンならば大丈夫と思ってはいたが、彼が上手くやっているらしいと分かって、スレインも友人として嬉しかった。


・・・・・・・


 天幕の設営などが一段落した頃には、夕陽は地平線の向こうに大きく傾いていた。

 そんな中で、野営地では夕食が始まっていた。

 軍隊の野営では、食事は交代で行われる。最初に食事をとる兵士や魔法使いたちが、器を手に焚き火を囲む一方で、スレインもモニカと共に小さな焚き火を囲んでいた。

 干し肉と適当な野菜を火にかけた大味なスープと、保存が利くように硬く焼かれたパン。兵士や魔法使いたちがとる食事と同じものを、スレインも口にする。皆との連帯を示すために。

 そしてスレインの食事にだけ、一品多く――今夜は小ぶりな林檎がひとつ付く。大将として、次期国王として皆とは別格の存在であることを示すために。

 そのままでは歯が立たないパンを、スープに浸して齧りながら、スレインは周囲を見回す。食事の順番がまだの者たちは、見張りや馬の世話など、各々の仕事を今このときも行っている。

 そして野営地の一角では、今回の作戦の要となる水魔法使いたちが、訓練に臨んでいた。


「放て!」


 訓練を監督する兵士の合図と同時に、横一列に並んだ水魔法使いたちの突き出す手の先が光を放ち、次の瞬間には、誰もいない平原の方へ向けて水の塊が撃ち出される。

 水魔法使いの多くは、歩く水袋として桶や樽などにそのまま水を出したり、火災の鎮火などに従事して放射状に水を出したりするかたちで魔法を行使するのが一般的。

 この訓練はそんな彼らを、ある程度遠くまで水の塊を撃ち出すという、普段あまり行わないかたちでの魔法行使にできるだけ慣れされるためのものだ。


「彼らの訓練も順調なようですね、殿下」


 スレインが訓練の様子に視線を向けていたからか、モニカがそう声をかけてくる。


「そうだね。勝敗を、王国の運命を決めるのは彼らだ。この調子ならきっと大丈夫だね」


 スレインは落ち着いた微笑みを浮かべて頷く。

 奇策とは、やってみるまで上手くいくか分からないからこそ奇策だ。今回スレインが試す策も、多くの不確定要素に左右される。絶対の成功の保証などあるはずもない。

 それでもスレインは、皆に勝利を誓った。皆がスレインの策に命を懸けている。スレインだけは何があっても、不安や恐怖を絶対に見せてはいけない。落ち着きを保ち、自信をその顔に浮かべていなくてはならない。


・・・・・・・


 食事を終えると、他にやることがない者は順次、休む準備に入る。

 近衛兵や、酒保商人の護衛の傭兵は、交代制の見張りを最初に務める者たちが起きて配置につき、それ以外の者は雑務を終えた者から順に、睡眠をとるために天幕に入る。王宮魔導士や、雇われた水魔法使いたちは、魔力を万全の状態に保つために全員すぐに休む。

 スレインも初めての行軍で溜まった疲れを癒すために、早めに王太子用の天幕に入る。

 お湯で髪を洗って身体を拭き、着替えを済ませ、組み立て式の簡易ベッドに座ったスレインは――隣でモニカが寝袋を広げる様を眺めていた。


「……モニカも一緒の天幕で寝るんだね」


「副官として殿下のご用命をすぐにお聞きできるようお傍に待機し、万が一の場合は身を挺して殿下をお守りするのが私の役目ですので」


 そう答えながら寝袋を敷き終えたモニカは、顔を上げてスレインを見る。


「……申し訳ございません。私が一緒ではご不快でしたか?」


 小さく首をかしげながら心配そうに尋ねるモニカを間近で見て、スレインは固まった。

 戦争の場には、意外と女性も多くいる。魔法使いや医師、聖職者、酒保商人などは、男女に能力差がないためだ。また、貴族家当主が女性の場合もある。そのような従軍する女性を護衛するために、少数ながら女性の兵士もいる。

 今回のように大規模な野営の際は、女性たちのために専用の天幕が用意され、女性たちはそこで着替えなどを行う。モニカも就寝の準備をする前に、その天幕で身支度を済ませている。

 彼女の髪はまだ少し濡れて艶があり、お湯で洗った顔はわずかに上気している。緊急時はすぐに動けるよう、寝る時も軍装ではあるが、それでも上着は脱いでいつもより薄着になっている。

 髪を綺麗に整え、薄く化粧をして、隙無くきっちりと軍装に身を包んでいるモニカしか見たことがなかったスレインにとって、いつもより私的で少しだけ無防備な今の彼女の姿は――彼女が女性であることを、嫌でも意識させた。


「いや、そんなことないよ。ごめん」


 何となく気まずさを感じてスレインが視線を逸らすと、モニカはくすっと微笑む。

 さっさと寝てしまおう。そう思ったスレインが簡易ベッドに横たわって毛布を被ると、その枕元にモニカが顔を寄せてきた。


「殿下。本日が初の行軍でしたが、体調に異常はございませんか? 身体で痛むところなどは?」


「だ、大丈夫。どこも問題ないよ」


 不意に近づかれたことで緊張しながら、スレインの答える声は少し上ずった。

 戦争に臨む覚悟はできたくせに、モニカに距離を詰められただけでこれほど動揺する自分を間抜けに思う。天幕の中が薄暗く、顔が赤くなったのを気づかれずに済むのが幸いだった。


「それはよかったです……それでは、おやすみなさいませ」


「うん。おやすみ」


 優しい声で言ったモニカに答え、スレインは彼女に背を向ける。

 緊張で眠れないかと思ったが、行軍初日の疲れは意外と身体に溜まっていたようで、間もなく眠りにつくことができた。

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