第27話 生きる意味
「……もう一度、くり返せ」
九月二十三日の午後。王城の謁見の間。セルゲイが険しい表情で言った。
その横では、スレインが唖然とした表情で固まっている。スレインの傍らに立つモニカも、普段の穏やかな表情を保てず目を見開いている。
スレインを挟んでセルゲイの反対側では、将軍として王国軍を統括するジークハルト・フォーゲル伯爵が無言を保っていた。彼は表情こそ動いていないものの、放つ空気は重い。
「はっ、報告いたします。昨日の午前、ガレド大帝国がハーゼンヴェリア王国に宣戦を布告。時を同じくして騎兵およそ三百が、ロイシュナー街道を越えて緩衝地帯に侵入。さらに西進し、クロンヘイム伯爵領へと入り込みました。クロンヘイム伯爵家はただちに防衛準備を開始。これは私が伯爵領を発った時点での状況となります」
先ほどとまったく同じ報告を、伝令の兵士は行った。クロンヘイム伯爵領より丸一日以上をかけて、馬を替えながら駆けてきた兵士だ。
「……分かった。ご苦労だった。下がってよい」
セルゲイがそう告げると、兵士は立ち上がって隙のない敬礼を示し、次の瞬間にはよほど疲れていたのか膝から崩れた。倒れそうになった彼を近衛兵が即座に支え、二人がかりで担いで謁見の間より運び出していった。
そして、室内をしばし沈黙が支配する。
「そんな、どうして」
スレインは沈黙を破り、呆けた表情で呟く。その手に握られているのは、伝令の兵士が届けたフロレンツ・マイヒェルベック・ガレド第三皇子の名による宣戦布告書だ。
「こんな……こんなの、言いがかりだよ」
「仰る通りですな。理由は難癖も同然。敵の目的は外道も同然。おまけに宣戦布告の名義が皇帝ではなく皇子とは……ハーゼンヴェリア王国が小国だからと舐め腐っている。言語同断です」
震える手で宣戦布告書をあらためて広げたスレインの言葉に、ジークハルトが首肯する。
「もともと、帝国は我が国を……いや、大陸西部の小国全てを軽んじていました。かの国と一応は穏やかな国交が保たれていたのは、かの国の都合に過ぎません」
眉間にしわを寄せたセルゲイが、苦々しく言った。
サレスタキア大陸西部の小国群は、大きな国でも人口はせいぜい十数万。仲が良いとは言えない国同士も多く、とても団結して帝国と向き合える状況ではない。
なので、もし本気で帝国が大陸西部への侵攻を決意したら、今の小国群には成す術がない。
それでも大陸西部と帝国との関係が、この百年ほど比較的穏やかだったのは、帝国の東部や北部の事情が関係している。
帝国の東部と国境を接する国々が集まってひとつの大国となり、警戒すべき脅威となった。その大国と交流を持った北部国境の隣国が力を増し、こちらも帝国の潜在的な脅威となった。
帝国はそれらの隣国との対立に注力し、大陸西部の小国群を放置した。手間をかけて侵攻や統治を行わなくとも、穏当に交易などを行っていれば多少なりとも利益が得られるからだ。
「帝国は未だに東や北の隣国と対立しているはずです。今まで放置していたサレスタキア大陸西部に、どうして今さら侵攻してきたのか理由は定かではありませんが、ともかく対処するしかありません。王太子殿下……殿下?」
セルゲイに呼びかけられても、スレインは反応できずにいた。まだ呆然としていた。
先月送ってきてくれた、あの親しみの込められた書簡は、あの言葉は何だったのか。
スレインはフロレンツの柔和な笑みを思い出しながら、心の中で彼に問いかける。当然ながら答えは得られない。
どうしてだ。そんな嘆きを抱えて、果てしなく暗い思考の渦に飲まれそうになる。
「王太子殿下!」
突然大声で呼びかけられ、スレインは声の方、ジークハルトの方を向いた。
「殿下、これより王領各地の王国軍部隊をこの王都へと集結させ、それと並行して王領民より兵を徴集したく存じます。詳細な反撃の計画立案はひとまず後回しに、今は一刻も早く兵力を揃えるために動き始めるべきときかと考えます。どうかご許可を」
「……許可する」
スレインはほとんど何も考えずに答えた。将軍であるジークハルトが言うのだ。この場においてはそれが最善の行動に決まっている。
「御意!」
ジークハルトは見事な敬礼を見せ、謁見の間を退室していった。
「セルゲイ。モニカ。これから……これから、どうなるの?」
スレインは青ざめた顔で二人を見る。
来月には名実ともに国王へと即位して、その後も努力の日々が続く。国をよく治めるために努力し、年月を重ね、歴史を作る。そんな日々が続く。
そう思っていた。そうなるに決まっていると、どうしてか信じ切っていた。
サレスタキア大陸西部の小国群は必ずしも仲が良いわけではないが、昔はともかく今は、本気で戦争をすることなどない。些細な揉め事からの衝突などはあるが、それとて死者が出ることはほとんどない。
ガレド大帝国とも、相手側の都合とはいえ百年も穏やかな関係だったのだ。穏健派として知られるフロレンツが大陸西部における皇帝家の代表を務めている以上、今の状態がまだ続くと当たり前に考えていた。
それが突然、いとも簡単に崩れた。
「選択肢は二つ。戦うか、殿下が他国に亡命を試みるかです」
「……どっちが良い選択なの?」
スレインが問いかけを重ねると、セルゲイは表情を一層険しくした。
「戦う場合、戦力差が問題です。我が国は小国である上に、今から兵力を集めるとしても、とにかく時間がありません。対する敵は現段階でも騎兵が三百。これだけでも相当な脅威ですが、おそらくは更に増援が来るものとして……会敵する際の兵力差は、どれほど少なくとも三倍以上になるでしょう。軍事に関する考察はフォーゲル伯爵の方が得意ですが」
三倍以上。二倍でもそうそう勝てないだろうに、優にそれ以上。スレインは愕然とする。
「亡命の場合は、殿下のお立場が問題となります。治めるべき国を失った上に、失礼ながら元平民であらせられる殿下は、どうしても他国の王家から軽んじられるでしょう。また、敵の侵攻がハーゼンヴェリア王国のみで終わるとも限りません……いえ、今になって平穏を破り、大陸西部へ攻め入ってきたということは、間違いなく他の国々にも侵攻するのでしょう。周辺国からすれば、自国が危険なときに、滅亡した他国から僅かな供を連れて逃げてきた無力な王太子を保護する余裕などありません」
「え、僅かな供を連れてって……法衣貴族の皆は?」
「ご冗談を。我々が貴族の責務を放置して逃げることはできません。領主貴族、法衣貴族共々、討ち死にするまで帝国に抵抗いたします。そうすることで殿下と民が他国へと逃げる時間を稼ぎます。殿下に同行するのは護衛の近衛兵が数人、使用人が数人、加えて副官のモニカ・アドラスヘルムくらいでしょう」
セルゲイはそこまで話し、黙った。彼の話がそれで終わりだと知り、スレインは愕然とした表情のまま口を開く。
「それだけ? その二つしか選択肢はないの?」
「ありません。敵に立ち向かい、この国の次期国王として責務を果たすか。皆無に近いとはいえ、ごく僅かな王国再建の可能性に賭けて亡命を試みるか。二つに一つです……私から見ても絶望的な状況かと思いますが、私が気休めを申し上げても、残念ながら現実は変わりません」
「……」
スレインは泣きそうな顔で目を泳がせ、足元をふらつかせる。モニカが心配そうな表情でスレインの肩を支える。
「王太子殿下。いかがなさいますか」
「……待って。ちょっと、しばらく、考えさせて」
問いかけるセルゲイに答えると、スレインはふらつく足取りで謁見の間を去った。その後ろにモニカが続いた。
・・・・・・・
スレインは王城の敷地の中を、あてもなく歩いた。どこをどう歩いたのかも憶えていない。目の前の景色は見えていなかった。
頭の中にあるのは、困惑。混乱。絶望。
数倍の敵を前に絶望的な戦いに臨む。
臣下も民も捨て置いて、受け入れられる見込みのない亡命を試みる。
それだけしか選択肢がないだなんて。どうしろというのか。今までの努力を全てぶち壊しにされて、こんな残酷な選択を迫られてしまった。どうしてこんなことが起こりうるのか。
世界を、運命を呪いながら呆然と歩き続けたスレインは、いつの間にか城門の前にいた。そのことに気がついたのは、臣民たちから声をかけられたからだ。
「あっ、王太子様!」
「ガレド大帝国が攻めてきたって本当なんですか!?」
「敵はいつ来るんですか? この国はどうなっちゃうんですか?」
「教えてください、王太子殿下!」
おそらくは臣民からも兵を集める準備が始まったことで、彼らにも事情が知られ始めたのだろう。混乱した何十人もの臣民たちが、王城の前に集まっていた。
「……皆」
スレインが城門の方へ歩み寄ると、臣民たちはさらに詰め寄ってくる。彼らが敷地内へ入らないよう、城門を守る近衛兵たちが制止する。
「お、王太子殿下。俺たちはどうすれば……」
「私たちの家は、私の子供は、どうなるんですか?」
「怖いです、すごく不安です」
「助けてください、王太子様……」
集まった臣民たちは地面に崩れるように座り込み、不安げな表情で口々に言った。なかには泣き出す者もいる。
次から次に臣民が集まってきて、不安を、恐怖をスレインに訴え、庇護を求めてくる。
「……」
その様を、スレインは呆然とした顔のまま眺める。
今まで幾度となく王都にくり出し、交流してきた臣民たち。語りかけ、彼らの話を聞き、触れ合ってきた。
老若男女問わず、皆に慈愛を感じた。
その彼らが、今スレインに縋っている。怯えている。この国の民である彼らは、この国に生きる彼らは、そうするしかないのだ。
そう思った瞬間――――――スレインの中で、何かが切り替わった。
自分はこの国で最上位の人間。王太子で、次期国王だ。
だから、彼らを守る義務がある。
いや、彼らを守りたい。
彼らにはこの国しかないのだ。彼らにはこの自分しか、依るべき庇護者がいないのだ。
自分にしか、彼らを守れないのだ。
それが自分の、これから彼らの王になる者としての存在意義だ。
それこそが自分の生きる意味だ。
父から継いだ血に応え、母の愛に応え、臣下たちの期待に応えるためだけではない。
何よりも民を、その命を、生活を、幸福を守るために自分は王になるのだ。
「……大丈夫だよ」
自分を見上げる臣民たちを見渡して、スレインは優しい笑顔を浮かべた。自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「大丈夫。僕は君たちの王太子だ。これから君たちの王になる人間だ。この僕が君たちを必ず守る。守ってみせる」
スレインは城門から一歩踏み出した。近衛兵が制止しようとしたのを手振りと視線で止め、目の前に集まった臣民たちの、群衆と化した彼らの中に入った。
彼らに慈愛を注ぐように、彼らの顔や肩、彼らが伸ばす手に触れる。
「何も心配はいらない。ただ、僕を信じてほしい。僕に協力してほしい。僕と共に戦ってくれる者は、僕についてきてほしい。僕が……この国を勝利に導く」
スレインは後ろを振り返った。
目が合ったのはモニカだ。スレインの顔を見たモニカは、呆然として固まっていた。
急に態度を変えて、実現できるかも分からない勝利の約束を吐いた自分に呆れているのだろうか。そんなことを思いながら、スレインは苦笑する。
「戻ろう。戦いの用意をしないと」
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