第19話 近衛兵団長

 ハーゼンヴェリア王国の手の届く周辺国家から、王国には普及していない作物を集める。それが完了するまでの間、スレインはまた勉強と執務、鍛錬を重ねる日常に戻っていた。


 勉強が順調であるのは、もはや当然。

 執務に関しても、以前は渡される書類にただ署名したり、内容もよく理解せず「了承する」と答えたりするだけだったが、今では書類や確認事項の詳細を確認し、その意味を以前よりも把握できるようになってきた。

 執務に関する理解を深めることで、ハーゼンヴェリア王国の社会の全体像や、その社会がどのように回っているのかを感覚的にも掴み始めていた。

 頭を使うことに関しては、右も左も分からなかった初期と比べると、着実に成長できている。スレイン自身もそう感じている。

 一方で武芸の鍛錬に関しては、スレインにはやはり武芸の才能がないようで、剣の腕は大して伸びていない。素人臭さは少しずつ抜けてきたが、強い剣士にはとてもなれそうにない。

 そもそも、筋肉がつかないのだ。そういう体質なのか、腕も脚も腹も、多少は筋肉の線が浮かんできたものの、筋肉量が増える気配はない。身長も伸びないので、平均的な成人男性と比べると体格の時点で大負けしている。

 ただ、それでも別に問題ない。

 鍛錬の目的は体力をつけ、周囲の目に見える努力を続けること。体力は素振りを二百回してもふらつかないほどに鍛えられ、臣下や使用人たちからは「いつも頑張っていらっしゃる」と噂されることが増えてきた。成果としては十分だ。


 そしてもう一つ、スレインが最近になって始めた鍛錬があった――騎乗だ。

 戦争が起これば、国王は指揮官となる。指揮官は馬に乗れなければならない。高い視点から戦場をよく見るために。いざというとき迅速に移動するために。何より、国王として、指揮官としての格を保つために。

 戦場で国王が馬に乗ることもできていなければ、敵からは舐められ、味方の士気は落ちる。軍事に関する式典などでも支障が出る。格とはそれほどまでに重要だ。

 なのでスレインは、馬を駆って剣を振るえるようになる必要はない(そもそも武芸の才覚がないので勇将型の指揮官にはなれないだろう)が、一人で危なげなく馬に乗れる程度にはならなければならない。


「殿下、落ち着いてください。大丈夫です。手綱をしっかり……殿下、落ち着いてください。そうです。そこで軽く手綱を引いて、鐙を……落ち着いてください、殿下」


 そして、この騎乗の鍛錬にスレインはひどく苦戦していた。今日もモニカの指導を受けながら、しかしそのモニカも、どのようにコツを教えたものか苦労している。


「うん……大丈夫、落ち着い……落ち着……いてるよ。うわっ……」


 スレインの表情は不安げで、時おり露骨な恐れが垣間見える。手綱の扱いは中途半端で、スレインの迷いと恐れを感じ取る馬の方も、どう動いたものか判断しかねて戸惑っている。

 モニカのおかげで怪我をするような危ない場面はないが、もたもたしていて埒が明かない。それが、スレインの騎乗練習の光景だった。

 馬は生き物だ。四足歩行でもなお体高が自分の背丈より高い生き物に跨り、身を預けることが、スレインにはとても怖いことに感じられた。背が低いせいで普段は周囲の人々を見上げながら暮らしているのに、いきなり全てを見下ろす高い視点に立たされて、地面がはるか下にあるのを目の当たりにして、恐怖を覚えてしまうのだ。


「ちょ、ちょっと休みたい、降りたい……」


「かしこまりました。では殿下、手綱はそのままに……はい、降りて大丈夫です。ご安心ください。私が受け止めます」


 モニカに馬を静止させてもらったスレインは、両手を広げる彼女のもとに降りる。彼女に両脇を抱えられ、抱き留められるようにして地面に降ろしてもらう。スレインが小柄で、モニカの身長がスレインより十センチメートル以上高いからこそ頼める対応だ。

 子供のような降ろされ方だが、恥ずかしがっている余裕はない。ようやく地に足をつけて、スレインは安堵の息を吐いた。


「……ごめんね。情けない有り様で」


「殿下が謝られることなどございません。私こそ、上手くご指導をして差し上げられず、申し訳なく思います」


 しゅんとしてしまうスレインに、モニカもさすがに少し気落ちした表情で答えた。二人して暗くなっている横で、下手な乗り手を下ろした馬がすっきりした様子で鼻を鳴らす。


「まずは馬との信頼関係を築くとよろしいでしょう」


 そこへ、声がかかった。

 スレインとモニカが振り向くと、そこに立っていたのは近衛兵団長のヴィクトル・ベーレンドルフ子爵だった。


「馬は生き物です。自分で考え、乗った者の意思を汲み、動こうとしてくれます。だからこそ、まずは馬と触れ合い、親しみ、信頼関係を築くようにすると良いでしょう」


 スレインたちに歩み寄りながら、ヴィクトルは語る。


「そうすれば、馬に乗ったとき、殿下ご自身が今より安心感を覚えるはずです。すると、手綱の扱いにも自然と迷いがなくなる。結果的に、馬へと滑らかに意思を伝えられるようになるでしょう……そうなれば後は簡単です。前進、停止、方向転換、加速や減速。動きに合わせた手綱の扱い方を暗記してしまえば、それで終わりです」


 スレインの前まで来たヴィクトルは、手にしていた藁をスレインに差し出した。


「まずは殿下ご自身の手から、餌をやると良いでしょう。手ずから餌を食わせ、名前を呼んでやり、首を優しく撫でてやるのです。自分が味方であると、主人であると、馬に理解させるために」


「……わ、分かった」


 スレインは頷いて藁を受け取ると、馬のもとに歩み寄る。スレインが手にした藁に、馬は興味を示す。


「おいで……ほら、食べていいよ」


 スレインが藁を掲げ、差し出す意思を見せると、そこで馬は初めて頭を下げ、むしゃむしゃと藁を食べ始めた。非常に行儀が良い。


「美味しい? ……いい子だね、フリージア」


 前王太子の愛馬だったという、若い雌馬。名はフリージア。ハーゼンヴェリア王家の人間が乗るにふさわしい、見事な黒毛をしている。

 藁を頬張るフリージアの首を撫でてやると、彼女は気持ちよさそうに鼻を鳴らした。

 藁を食べ終わると、スレインの顔に自分の顔をすり寄せてくる。お前は意外といい奴だ、とでも言いたげだった。


「王家所有の馬の中でも、フリージアは特に賢い馬です。これだけの触れ合いでも殿下のお人柄を感じ取り、殿下が自分の主人であることを理解したでしょう。もう一度乗ってみてください」


 ヴィクトルに促され、スレインはモニカの手を借りてフリージアに乗った。


「あ……凄い」


 そして、驚いた。安心感が先ほどまでとは段違いだった。少なくとも、次の瞬間にも振り落とされるのではないかと思うような恐怖がない。

 まだフリージアと心を通じ合わせ、彼女を自由自在に操ることはできそうもないが、馬上からの中庭の景色を眺めて楽しめるくらいには心の余裕を持つことができた。


「ここまで変わるとは……私も驚きました。こんな手法は、王国軍で騎士資格を取る過程でも習っていません」


「それは、お前はこういう手法を教えられずとも、感覚的に馬に乗れるようになっていたからな。直感的に騎乗のコツを掴んで、技術で馬を操る術をすぐに身につけ、その自信をもって馬にも安心感を与えて乗りこなすのがお前のやり方だ。私が今、殿下にお教えした手法とは違う」


 ヴィクトルは苦笑交じりに、モニカに向けてそう語った。


「お前の場合はそれでいい。だが、人に教えるとなると話は別だろう。誰でもお前のように、最初から自信をもって馬と向き合えるわけじゃない……私は近衛兵団に異動する前、王国軍で騎士見習いたちの教官役をしていた。騎乗の指導は慣れたものだ」


「……なるほど。さすがです、ベーレンドルフ閣下」


 モニカとヴィクトルのそんな会話を聞いて、スレインは馬上で苦笑した。

 スレインは勉強に関してはともかく、武芸や騎乗に関しては凡才。文武両道で器用なモニカの真似はできないが、元々の才に関係なく一定の技術を教え込む術を知っているヴィクトルの指導があれば、こうして人並みに馬に乗れる成長の兆しを得られる。そういう話だ。

 スレインはまたフリージアから降りる。先ほどまではモニカに抱き留められて降りていたが、今回はモニカの片手を借りるだけで、スムーズに飛び降りることができた。


「これならそう遠くないうちに、一人でも乗れるようになりそう……助かったよヴィクトル。ありがとう」


 スレインが礼を言うと、ヴィクトルは笑みを作った。今までの彼の無機質な微笑みと比べると、そこには感情が込められているように感じられた。


「礼には及びません。殿下は懸命に努力をされていらっしゃる。それは我々臣下も、この王城の使用人たちも、誰もが知るところです。主君が自らのご意思で努力を重ねておられるのであれば、そのお手伝いをして差し上げるのは臣下として当然のことでしょう」


 その言葉を受けて、スレインも自然と笑みを零す。喜びの笑みだ。

 ヴィクトルは臣下の中でもどこか他人行儀で、今まではあくまで職務としてスレインに仕えている感のある人物だったが、今日の彼は少し違った。

 最近はこうして、自分の努力が周囲に伝わっていると、少しずつ皆から認めてもらっているのだと感じる機会が増えてきた。

 最も厳しいセルゲイに認めてもらえる日はまだまだ先かもしれないが、その日に向かって着実に前進できてはいる。その手ごたえを、スレインは感じ始めていた。


「ああ、それともうひとつ。殿下が武芸の鍛錬を続けていらっしゃる理由のひとつに、戦が起こったときのために体力をつけることがあると聞き及びましたが、間違いないでしょうか?」


「そうだね。それは目標のひとつ……というか、それが最大の目標かも」


 やや唐突な問いかけだったが、スレインはすぐに答える。


「左様ですか。であれば、王国軍の訓練に少し参加してみるのも良いかもしれません。王国軍の訓練では、走り込みなど行軍のための体力を鍛えることに特化したものもあります。それに参加すると効果的でしょう」


「……いいの? 僕がそんなことをして」


 視察などならともかく、次期国王が訓練に直接参加していいのか。邪魔ではないのか。スレインは首をかしげる。


「フレードリク陛下やミカエル殿下も、時おり王国軍の走り込みに参加しておられました。体力を維持するのはもちろん、兵士たちと共に汗を流すことで信頼を得るためでもあったと聞いています。将軍を務めるフォーゲル閣下も、殿下が参加したいと仰れば喜んで了承されるでしょう」


 近衛兵団の訓練は過酷かつ内容も特殊なために参加させられないが、王国軍の方であれば、走り込みに時おり参加する程度は問題ない。むしろ奨励される。ヴィクトルはそう語った。

 スレインはモニカの方を向く。モニカはいつもの微笑をたたえて頷く。


「……じゃあ、参加してみようかな」


「かしこまりました。では、詳しい日程などはモニカに調整してもらうとして、私からもフォーゲル閣下に一言お伝えしておきましょう」


 スレインの答えを聞いたヴィクトルは、そう言って中庭を去っていった。

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