第17話 好転
四月の下旬。スレインの勉強は順調に進み、特にスレインの覚えが早かった歴史に関しては最終段階に入っていた。
時系列に沿って学ぶのが歴史の常道。その最終段階として学ぶのは、すなわち現代に最も近い時期――スレインの父、フレードリク・ハーゼンヴェリアの治世だ。
波乱の時代に周辺貴族を服従させ、まとめ上げ、ハーゼンヴェリア王国を築いた初代国王。当時はまだ死者の出る軍事衝突が珍しくなかった、周辺国との関係を安定させた二代国王。現在の社会制度を確立し、産業を整え、国内社会を安定させた三代国王。
それら先達の跡を継いで即位したフレードリクは、さらなる国家の安定と強靭化のため、王家の権力強化と王領の経済的な発展を目標としていた。
封建制のハーゼンヴェリア王国で王家の権力を強めるため、フレードリクは王国軍を強化。大隊をひとつ増やし、三個大隊三百人の兵力を常備する体制を作った。
国境を守るクロンヘイムとアガロフの二伯爵領でも、職業軍人による常備軍は百人足らず。王国軍と近衛兵団の兵力を合わせれば、国内における王家の軍事的優位はもう揺るがない。
それと同時にフレードリクは、工業力の要となる鉄鉱石と、王家の富を支える岩塩の採掘量増加を目指した。新たな鉱脈を見つけ、既存の鉱脈は規模拡大。兵力を維持するだけの工業力と収益を確保した。
これらの施策によって、王権は大いに高まった。
ここまでがおよそ十年。期間の短さを考えると、十分に偉業と呼べる成果だ。
しかし、ここで問題となったのが王領の食料自給率だった。
もともと農民の割合が少なかった王領だ。兵士と鉱山労働者を増やし、採掘量の増加した鉄や塩を扱う商人、職人も増えたことで、農民の割合はさらに低下。総人口の八割を切った。
現状、食料自給率が十割を超えるには、人口の八割五分ほどが農民である必要がある。王領で消費される食料の不足は、領外からの輸入で補うこととなった。
軍事力で領主貴族たちを圧倒しても、食料を領外に頼ってしまえば必ずしも絶対的優位があるとは言えない。いざとなれば国内の領主貴族ではなく隣国から買うという手もあるが、足元を見られて価格を吊り上げられるのは必至だ。
それを事前に見越していたフレードリクは、食料生産効率の上昇も同時進行で目指した。
しかし、こちらは難航した。当然と言えば当然だ。農業改革をするといっても、劇的に麦の収穫率を増やせる施策がそう簡単に見つかるはずもない。
フレードリクは草木灰など肥料の使用を奨励し、それは多少の収穫量増加を実現したが、それだけで自給率の問題を解決できるほど甘くはない。食料の生産量をさらに増やすための方法を模索していたところで、彼は無念の死を遂げた。
スレインが学べる王国の歴史はここまで。ここから先の歴史を作るのが、次期国王たるスレインの仕事だ。
「食料生産効率を高める、か……」
「とはいえ、サレスタキア大陸西部では、ガレド大帝国より伝わった三圃制がこの半世紀ほどかけてようやく定着したばかり。それに加えて肥料の生産や使用を奨励しているので、農業政策としては頭打ちと呼べる状況です。農業長官アドラスヘルム男爵……私の父も、現状を大幅に改善するには新たな技術の登場を十年単位で待つしかないだろうと」
いくら既存の農法を改良しようと、育てる主要作物が変わらない以上、収穫量を増やすにも限度がある。かといって、新たな農法などそうそう見つかるわけがない。
王家としてできるのは、当てずっぽうで新農法を探しながら、偶然や経験則による発見が出るのを待つこと。あるいは、王都の人口そのものを増やして農業従事者の割合を引き上げるため、何らかの手を打つこと。
どちらにせよ、スレインの代で何か解決の兆しが掴めれば上々。国家運営側で共有されている現状認識を、モニカはそのように解説した。
「ですので、殿下におかれましては、王領外からの食料輸入の経路を維持しつつ――」
「……これって、麦以外の作物を探すのは駄目なの?」
スレインが呟くように口を挟むと、モニカはその呟きの意味を考えるように無言になり、そして小さく首をかしげた。
「麦以外の作物……野菜のことでしょうか?」
「さすがに野菜は主食にはならないと思うから……麦以外で、主食にできて、麦とは時期や農地をずらして栽培できる作物を探すのはもう試したのかなと思って。そういう作物があれば、麦と併せて栽培することで王領の食料自給率を高められるんじゃないかな?」
麦の農法を改良しても目標とする食料自給率に届かないのであれば、麦と並び立って主食となるような作物を探すことはできないのか。麦を育てられない時期、麦が育たないような土地に植えられる作物が、周辺地域を探せばあるのではないか。スレインは単純に疑問に思って尋ねた。
「サレスタキア大陸西部はそれなりに広いし、隣り合う大陸中部にはガレド大帝国が、大陸周辺には島国がある。もっと遠い国々だって、時間をかければ行けないわけじゃない。うちの国ではあまり知られてない作物も探せば色々あるだろうし、なかには育てやすくて主食にできるものがあるんじゃない?」
問いかけるスレインに対して、モニカはきょとんとした表情を見せる。いつも落ちついた微笑みをたたえている彼女にしては、非常に珍しい表情だ。
「あっ、気にしないで。忘れて。ちょっと思いつきで言っただけだから」
よほど変なことを言ってしまったらしい。そう思いながらスレインが自分の発言を撤回しようとすると――
「いえ。殿下、それは大変な妙案かもしれません」
モニカはいつもの微笑よりも大きな笑顔を見せた。
・・・・・・・
その日の午後。スレインは王城の会議室で、王国宰相セルゲイと、農務長官でモニカの父でもあるワルター・アドラスヘルム男爵と顔を合わせた。
午前の勉強中にモニカに説明した案を、スレインはもう一度、今度はセルゲイとワルターに語る。
スレインの話を聞いた二人は、モニカと同じように、やや呆けた表情を見せて固まった。かと思うと、無言のまま互いに顔を見合わせた。
「「……」」
二人の表情がひどく険しくなったようにも見えて、スレインは緊張を覚える。
モニカは褒めてくれたが、国政の実務最高責任者と王領の農業責任者を前に、王族としてまだ勉強中の身である自分が何かを提案するなど、やはり浅はかで無謀だったのかもしれない。そんな不安を覚える。
と、セルゲイが再びスレインの方を向いた。
「失礼ながら殿下……今のご提案は、殿下ご自身がお考えになったものですか? モニカ・アドラスヘルムや、他の誰かから聞いた話ではなく?」
尋ねるセルゲイの意図を察しかねてスレインが返答に迷っていると、モニカが傍らから助け船を出す。
「宰相閣下、発言を失礼します。この提案内容は、確かに王太子殿下ご自身がお考えになったものです。本日の午前中、フレードリク陛下が王領の食料自給率改善を目指しておられた話をご説明したところ、殿下は即座にこの案を考えられました」
「……そうか」
モニカの言葉を聞いて、セルゲイは唸るように答えた。しばし黙り込んで思案する様子を見せ、また口を開く。
「正直に申し上げましょう。殿下のご提案は、取り組む価値のあるものに思えます」
「っ!」
スレインは目を見開いた。
セルゲイが、スレインに常にひたすら厳しいセルゲイが、スレインの意見に価値を認めた。セルゲイが初めて、自分を認めてくれた。
「殿下、お喜びになるのはまだ早いかと。あくまで取り組む価値があるというだけの話です。殿下の想像された通りの有用そうな作物が見つかるかも、それがハーゼンヴェリア王国での栽培に適しているかも不明です。仮に主食になり得る作物が見つかり、土地との相性や収穫率、栽培の季節、生育に必要な期間などの諸条件が求めに適うものだったとして、未知の作物を主食のひとつとすることを、民に受け入れさせるのは容易ではありません。大陸西部における三圃制の定着さえ半世紀ほどを要したのですから……ひとつの思いつきがすぐさま効果を発揮し、社会を劇的に改善するような都合の良いことはありません。一から大きな施策を成すとはそういうことです」
スレインに過度な期待をさせないためか、セルゲイは畳みかけるように語った。それを受けてスレインは喜びの表情を引っ込める。
「ですが、取り組む価値はあります。今すぐに動き始めて成功しても、目に見えて食料自給率が改善するのはどれほど早くとも数年後でしょうが……だからこそ、今から取り組む価値があるでしょう。どうだ、アドラスヘルム卿?」
「仰る通りかと。幸いなことに、今の季節は春。我が国に普及していない作物を周辺地域より集めれば、今年のうちに実験栽培を始められるものもあるでしょう。有用そうな作物が見つかれば……我が国での栽培の成功を確認するのに一、二年。市井に栽培を進めさせ、食料としてある程度定着するのにさらに数年。早くて五年後には成果が見えるかと思います。もちろん、これは最も運が良かった場合の例ですが、仮に十年以上かかっても価値ある試みです」
モニカの父親なだけあって、若い頃はさぞ美男子であっただろうと思わせる顔立ちのワルターは、セルゲイの問いかけにそう答える。
「とりあえずは我が国の手の届く範囲内……サレスタキア大陸西部の国家群や、ガレド大帝国の西側地域、大陸周辺の島国などから作物を集めることとなります。収集には外務担当の臣下の方々と、ハーゼンヴェリア王家の御用商会を頼るのが最善でしょう」
「よし、それではアドラスヘルム卿の言うようにしよう。収集期間の目安は……ひとまず二か月といったところか。それだけあれば、周辺地域で一通り目につく作物は見つけられるはずだ」
簡単に意見を語り合ったセルゲイとワルターは、揃ってスレインの方を向く。
「殿下、ひとまずは以上のように取り組むということで、いかがでしょうか?」
「……いいと思うよ。それでお願い」
問いかけるセルゲイに、スレインはそう答えた。名ばかりの王太子として形だけの追認を行うのではなく、本当の意味で意思決定の責任者として、初めて出した承認だった。
「かしこまりました。それでは、我々は実務的な話し合いを詰めるため、会議室をもうしばらく使用したく存じます」
「分かった、細かいことは任せるよ……それじゃあ。二人ともありがとう」
立ち上がって礼の姿勢をとるセルゲイとワルターに見送られ、スレインはモニカを伴って会議室を出た。
執務室へと戻る廊下を歩きながら、スレインの頬が緩む。
「……少しは、次期国王らしい活躍ができたかな?」
「はい、殿下。素晴らしいご活躍だったと思います。ノルデンフェルト閣下はあえて厳しく仰っていましたが、閣下もきっと、殿下の今回のご提案に深く感心しておられると思います」
モニカの方を振り向きながら尋ねると、彼女は優しい笑顔をスレインに向けてくれた。
「そうか……よかった」
それを受けて、スレインの頬がさらに緩む。
まだ上手くいくかは分からない。失敗に終わるかもしれない。
しかし、少なくとも取り組んでみるだけの意義がある試みを、セルゲイがそう認めるだけの試みを、その第一歩を踏み出すきっかけを、自分が作ることができた。
まだ次期国王として勉強中の身である自分が、多少なりとも価値のあることをできた。この事実は、スレインの心の中でひとつの大きな自信となっていた。
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