第13話 焦燥と羞恥①

 国葬を終えてからのスレインの王太子としての生活は――国葬の前と、さほど変わらないものだった。


 今のスレインの最大の仕事は、勉強。

 国葬に向けて国内外の最低限の知識は身につけたが、それは王国貴族や近隣諸国の代表との表面的な挨拶を切り抜けるための、付け焼き刃のもの。学ぶべきことはまだまだ多い。

 母の写本の仕事を手伝ってきたスレインに、ある程度の教養があることを鑑みても、当面は毎日午前中を勉学に費やさなければならない見込みだった。

 勉強に使うのは母の形見の品である筆記具。母の写本家としての仕事道具はそれなりに質も良いものなので、王太子となったスレインが使っていても違和感はない。

 歴史。算学。儀礼や外交の知識。軍事の知識。より詳細な国内外の政治情勢の知識。王国の経済や産業に関する知識。貴人として身につけるべき文化知識。国教であるエインシオン教の知識。

 細かなことは必要が生じたときに都度学んでいくとしても、前提知識として頭に入れておくべき基本事項は膨大だ。

 国葬前と同じく、教師を務めるのは副官であるモニカ。彼女が黒板の横で教鞭をとり、スレインは新たな知識を得て、それを吸収している。

 そんな日々を過ごし、今は三月の上旬。スレインが王太子となって一か月と少しが経った。


「……モニカは凄いね。これだけの知識を完璧に記憶して、すらすら説明できるんだから」


 休憩時間。例のごとくハーブ茶を飲んで一息つきながらスレインは呟いた。

 モニカはスレインの三歳上、今年で十八歳。世襲貴族としては最下級である男爵家の、嫡子ではない娘なので、王族ほど厳しい英才教育は必要ない立場だ。

 それなのに彼女は、各分野の知識を一通り、完璧と言っていいレベルで身につけている。十八歳でこれなのだから、個人的な資質がよほど優れているのは間違いない。何故彼女がこの歳とこの身分で王太子付副官を任されているのか、スレインは今は理解と納得をしていた。


「恐縮です。ですが、殿下も素晴らしいご才覚をお持ちかと思います。お勉強に関しては、私が当初想定していた以上の速さで進んでいます」


 優しげに笑うモニカに、スレインは微苦笑を返す。


「秋頃には国王にならないといけないからね。国家運営もまだ臣下の皆にほとんど任せきりだし、いつまでも勉強に時間を取られるわけにはいかない……この段階で躓いてはいられないよ」


 国王になる、ということは、単に儀式を経てその身分を得ることではない。王国貴族や近隣諸国から認めてもらえなければ、真に国王になったとは言えないだろう。

 自分が真に国王にならなければ、この国はいつまで経っても安定しない。一歩間違えれば、起こるのは騒乱。母の愛した、父の遺したハーゼンヴェリア王国が壊れてしまう。

 それが嫌なら成長しなければならない。ただでさえ何もかもが足りていない自分だ。国王に必要な知識教養の勉強くらいは、周囲の予想以上の速さで済ませなければ話にならない。

 母の仕事を子供の頃から手伝っていてよかったと、スレインは思う。文字の読み書きから習う羽目になっていたらと考えるだけでぞっとする。


「……そろそろ再開しようか」


「はい、殿下」


 ハーブ茶を飲み終えてカップを置きながらスレインが言うと、モニカは凛とした軽やかな声で答える。


・・・・・・・


 その後も勉強を続け、時刻が正午になると、スレインは昼食をとるために食堂に移った。

 通常は昼食と昼休みを終えると、午後は王太子としての執務――とは言っても、今のスレインでもこなせるごく簡単なものだ――に取り組むことになるが、今日は違う。


「午後は確か、定例会議……だったね?」


「はい。殿下は定例会議にご出席されるのは初めてとなりますので、基本的には臣下の皆様の報告をお聞きになるだけで問題ございません」


 やや慣れない手つきでナイフを動かし、肉を切り分けながらスレインが尋ねると、傍らに立つモニカが頷く。スレインの昼食時に彼女も別室で食事を済ませているらしいが、食べるのが相当に早いらしく、いつも彼女が戻ってきたときにはスレインはまだ半分も食べ終えていない。


「分かった。まあ、頑張るよ」


 そう答えて、スレインは自分の言葉に小さく笑う。座って話を聞くだけで、一体何を頑張るというのか。内心で自嘲しながら、切り分けた肉をフォークで突き刺し、口に運ぶ。

 次期国王で、現在唯一の王族で、実質的に王国の人口五万人の頂点に立つ王太子。そんな身分ともなれば、食事は一平民だった頃とは比べ物にならないほど上質になる。

 昼から豚肉、それも塩漬けや燻製ではない肉を焼いたステーキと、付け合わせには新鮮な野菜を焼いたものを食べることができる。ワインも出がらしのような葡萄から作った酸っぱいものではなく、甘みのある、一口飲んだだけで上物だと分かるものを飲むことができる。

 こんな美味しいものを毎日食べられるのは、この身分になった役得だ。そんなことを考えながら食事は進み、空になったパンと肉とスープの皿が下げられる。


「……」


 皿を下げ、食後のお茶を置く給仕係のメイドをスレインは横目で見た。

 このメイドをはじめ、使用人たちはスレインが王太子になる前から何年も仕えている者ばかり。皆優秀で、所作に無駄はなく洗練されている。

 当然ながら、彼らは平民上がりのスレインを侮ることも、スレイン相手だからと仕事が雑になることもない。主人として丁寧に接してもらっていると分かる。

 それでも、スレインとしては居心地の悪さを感じざるを得ない。その原因は、自分が使用人に囲まれる生活に馴染んでいないことだけではない。主人が平民上がりの青年へと変わったことによる使用人たちの困惑が、空気として微妙に伝わってくるのだ。

 今、彼らはおそらく、スレインという人間ではなく、スレインの中に流れる血に、王太子という身分に仕えている。そうすることで王城の秩序と、彼ら自身の心の平静を保っている。

 自分は「王太子殿下」と定義づけられた飾りでしかない。流れる王家の血の濃さが同じであれば、自分が別の人間と入れ替わっても、彼らにとってはさして違いはないのだろう。

 そんな空気を感じながらの生活を、しかしスレインは仕方がないと思っている。今すぐ自分を主人として受け入れろと言っても到底無理なのだから。

 長く仕えてきた主人たちがいなくなり、代わりに見知らぬ青年が主人となり、困惑や不安を覚えない方がおかしい。

 どうしても現状に焦りを感じてしまうこともあるが、スレインはその度に仕方がないのだと自分に言い聞かせる。


「……そろそろ行こうか」


「はい、殿下」


 スレインが立ち上がると、モニカも笑顔でそれに倣う。

 当人の本音は分からないが、少なくとも表情や声では、モニカだけはスレインに居心地の悪さを感じさせない。副官として傍にいてくれる彼女の存在は、スレインにとって非常に心強い。


・・・・・・・


 ハーゼンヴェリア王国・国家運営定例報告会議。それが、毎月行われる定例会議の正式名称だという。


 名前に「報告」とあるように、王家に仕える法衣貴族たちが、王領や王国全体の運営について、それぞれの担当分野の状況を主君に報告するのがこの会議の趣旨。

 それと同時に、各分野の現状について主だった臣下の全員が幅広く把握し、認識を共有し、臣下同士の衝突が起こることを減らす目的も込められている。スレインはそのようにモニカから説明を受けている。

 会議室には法衣貴族がほぼ勢揃いしている。唯一、外務長官のエレーナだけは、外交のためにちょうど隣国を訪問中なので今回は欠席していた。

 軍事に始まり、公共事業、商工業、鉱業と各部門の報告が行われ、今はモニカの父でもあるアドラスヘルム男爵が、自身の担当する農業について報告中。スレインはそれを最上座に座って聞いているが、内容を全て正確に理解できている自信はない。

 アドラスヘルム男爵も、ここまで報告をした臣下たちも、できる限りスレインに分かりやすいよう適宜補足を挟みながら話してくれてはいるが、いかんせんスレインの知識量が足りない。会議を完全に理解するのに必要な、王国の現状に関する前提知識を、スレインは学んでいる最中だ。


「――以上となります。王太子殿下、問題はございませんでしょうか?」


 報告し終えたアドラスヘルム男爵に問われ、スレインは傍らのセルゲイに視線を向けた。

 セルゲイがスレインに対して頷き、スレインはアドラスヘルム男爵へと視線を戻す。


「問題ないよ。ご苦労さま」


 スレインが主君としてまだまだ力不足である現状、国家運営の実務を担うのは王国宰相であるセルゲイだ。この会議もスレインではなくセルゲイへの報告の場と言っても差し支えない。

 貴族たちがスレインに報告するかたちをとっているのは、王太子という身分を尊重するための単なる儀式に過ぎないと、スレイン自身も理解している。

 アドラスヘルム男爵が着席し、その後は文化芸術と典礼をそれぞれ担当する貴族が、そして王宮魔導士を代表する名誉女爵ブランカが報告を行う。最後にセルゲイ自身が担当する財務や内務統括に関する報告を、正確かつ簡潔に済ませる。


「では、これより報告のあった各事項について対応を定める。まず、王領北部、王家直轄の三番鉄鉱脈へと続く山道が雪解け水でぬかるみ、損壊している件。この修復を最優先事項とし、工事のための労働者を雇う予算を予備費より支出する。殿下、それでよろしいですな?」


「……うん。それでいいよ」


「かしこまりました。実務の詳細は公共事業長官に一任する。修復工事と、鉄鉱石採掘業務との日程調整については、鉱業長官と話し合うように。次に、冬が明けて今月より再開される王都の定期市場の準備について、商工業長官の報告にあったように――」


 会議は終始、セルゲイの主導で進む。スレインはセルゲイの判断のまま、問われたことを追認するだけの装置と化す。

 こうなると分かった上で出席しているが、いざ現実を目の当たりにすると、思わず自嘲気味な笑いが零れそうになる。自分は本当にただのお飾りなのだという事実を、これ以上に突きつけられる時間もないだろう。

 ここ最近、自身の心の内で膨らませてきた焦りが、一層つのる。

 そんなスレインの内心をよそに会議は淡々と進み、議題は最後のひとつに移る。


「では……各長官より報告のあった、王家の状況変化による民の不安が聞こえている件について」


 セルゲイはそう表現をぼかした。

 農民も、商人も、職人も、学者も芸術家も。誰もが王家の現状に大きな動揺と不安を抱えていると、法衣貴族たちの報告から今日明らかになっていた。

 王族が尽く死亡し、新たに次期国王の座についたのは、今年ようやく十五歳の成人を迎えた平民上がりの青年。そのような状況で、これからハーゼンヴェリア王国は本当に大丈夫なのかと、その話題で市井は持ちきりだという。


「この件は無視できないこととはいえ、対応策は限られる。国家運営の体制は万全だと、あらためて布告を出すしかあるまい。そして、新たな王太子殿下は既に偉大な君主としての片鱗を見せていると――誇張してでも、そう噂を流すしか」


 誇張。そう言われたスレインは思わず身じろぎした。

 出会った当初から、セルゲイは殊更にスレインに厳しい。

 他の臣下や王城の使用人たちからも、彼らがスレインの扱いにやや困っているような空気は感じられる。しかしセルゲイはまた違っている。今のスレインに何の期待もしていないことを、彼は態度や言動から隠そうともしない。


「殿下、それでよろしいですかな?」


「……うん、いいよ。僕がわざわざ答える意味もないだろうけど」


 焦り。不甲斐なさ。いたたまれなさ。それらが混ざり合った感情を零すように、スレインは苦笑しながらつい言ってしまった。


 その瞬間――セルゲイの目の色が変わった。

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