第7話 決意
スレインはカップをテーブルに置き、息を吐く。
自分の父は国王だった、と聞いたときは、その存在感に慄いていた。子供の頃からその姿を想像していた父が、なんだか急に得体の知れない異様な存在になってしまった気がしていた。
そんな人物の血を引く自分という存在そのものが、「王太子かつ次期国王」という突然与えられた身分に吊り上げられて、宙に浮いてしまっているような気がしていた。
しかし、ジークハルトの語り口のおかげで実感が湧いた。彼の温かみのある語り口の裏には、確かな感情を持つ一人の男の影を――血の通った人間である父の影を見ることができた。
何ということはない。父は国王であると同時に、ごく当たり前に感情のある人間だったのだ。母はそんな父と恋に落ちて、肌を重ねて、自分を産んだのだ。
自分はごく普通に人間らしい男女を親に持ち、彼らに見守られて育ったのだ。父の見守り方は、一般的なものとは言い難かったかもしれないが。
もちろん、これで全て納得したわけではない。感情的には、父に思うところはある。
顔も見せなかったくせに、何ひとつ直接の言葉はくれなかったくせに、よくもまあ最後の最後に都合よく、こちらが持て余すような遺産を押しつけてくれたものだ。
母に対しても、言いたいことはある。
あの物静かで生真面目な母が、若い頃は王太子と身分違いの恋に燃える青春を過ごしたなんて。父が本当は生きていたなんて。どうしてそんな凄い話を教えてくれなかったのか。
おまけに、父の死に合わせるようにあの世へと旅立ってしまうなんて。息子が成人の年になったのを見届けて、それで満足して、再び父の方へ行ってしまったとでもいうのか。
しかし、そんなことを言っても今さらもう遅い。
血の責任のことも、父が自分と母と一切の接触を断っていたことも、もはや何も言うまい。父と母による、政治的に極めて面倒な恋の果てに自分が生まれたのは事実だ。全ては自分を守るためのことだったと理解するしかない。自分が父の立場でもそうしただろう。
自分の父が国王で、王位継承権という厄介極まりない遺産を遺していったことも、文句を言ってもどうしようもない。そもそも親を選んで生まれることなど誰にもできないのだし、「国王の子に生まれるくらいならこの世に誕生しない方がよかった」とは言えない。
全ては仕方のないことだったのだ。
そして――やはり、自分に父がいたことは嬉しい。父が誰なのか分かったことは嬉しい。父が自分を愛して、自分を見ていてくれたことは嬉しい。理屈ではなく、どうしようもなく嬉しいと思ってしまう。
自分はフレードリク・ハーゼンヴェリアとアルマの息子なのだ。その事実からは逃げられない。
「いかがでしょう、殿下。フレードリク殿の跡を継いで国王になってはくださいませんか」
スレインの思考が終わるのを待っていたのか、ジークハルトは丁度よい頃合いでまた口を開く。
「多くのご不安があることでしょう。ですが、殿下は決してお一人ではございません。遺臣である我々が全力をもって、文字通り命を賭してお支えし、お守りすることを約束いたします。何も心配なさる必要はございません」
ジークハルトはスレインの目をまっすぐに見ながら言った。
「……僕は父とは違います。本物の王太子殿下とも違います。王家の血を継いでいるだけの、本当にただそれだけの人間です。それでいいんですか?」
「だからこそ、あなたに王になっていただきたいのです、殿下。今はあなただけが本物の王太子です。あなただけが我々の次期国王、我々の仕えるべき主君なのです……我々の敬愛した国王陛下の遺児であるあなたに、これからもお仕えしていく幸福を、どうか与えてはくださいませんか」
「……」
スレインは天井を仰ぎ、深いため息を吐く。
「その賢さを、この国のために使いなさい」
母が事あるごとに、スレインにそう語りかけていた理由が、今日分かった。
母はこの祖国を愛していたのだ。かつて愛し合った男が、王として治めていたこの祖国を。
母は父と同じ日に死んだ。まるで父と共に旅立つかのように。
だからきっと、自分の愛した母は、自分の焦がれた父と共に、今も自分のことを見守っているのだろう。
であれば、母は何を望むだろうか。神の御許から、父と一緒に自分を見守りながら、自分がどうすることを願うだろうか。
答えは考えるまでもない。
スレインは天井を仰いでいた顔を下ろし、ジークハルトを見た。
そして、諦念交じりの微苦笑を浮かべて口を開いた。
・・・・・・・・
謁見の間には、未だ法衣貴族たちがたむろしていた。
「随分と時間がかかっているようだな」
「そうですか? 王太子殿下はあんなご様子だったんですから、こんなものでは? そもそも説得が成功に終わるとも限らないですよ」
「ふふふ、フォーゲル卿のあの性格が説得に吉と出るか凶と出るか、微妙なところね」
ヴィクトルの呟きに、ブランカとエレーナがそう返す。
「そもそも、エステルグレーン卿。卿の方が適任だったのではないか? 言葉による説得については本職であろう」
「行けと命じられれば行きましたが……今回に関してはフォーゲル卿でよかったと思いますわ。国王陛下の友であった彼にできなければ、私たちの誰も成せないでしょう」
外務長官として異国の要人と話し合うことを職務とするエレーナは、澄ました笑みを浮かべながらセルゲイに答える。
そのとき。
「皆様。スレイン・ハーゼンヴェリア王太子殿下がお戻りになります」
スレインが逃げ出していった扉から入室したモニカが、臣下たちにそう呼びかけた。
その横を通って入室したジークハルトが、少しばかり得意げな顔を見せる。
「……」
「やはり、フォーゲル卿で正解だったみたいですね」
セルゲイは感情の読めない顔で黙り込み、エレーナはにこやかに呟く。
そして、法衣貴族たちはまた列を成し、臣下としてスレインを迎える準備を整える。
少し遅れて入室したスレインは、その彼らの前へ再び立った。その表情には未だ怯えの色があったが、逃げ出したときと比べれば落ち着いていた。
「顔を上げてください」
一礼した臣下たちは、スレインの言葉を受けて、スレインの顔を見る。
「……み、皆さん。先ほどは情けない姿を見せてすみませんでした」
表情だけでなく、スレインの声も、逃げ出した時と比べればましになっていた。
「僕は、国王である父と会ったことも、話したこともありません。僕は昨日まで平民でした。どうすれば国王らしくなれるのかも、そもそも国王とは何をするのかも、まだ何も分かっていません。ですが……それでも、何の努力もせずに逃げ出すことはしないと決めました。母の愛した父と、母の愛したこの国のために」
スレインは勇気を振り絞り、臣下たち一人ひとりの顔を見ながら語る。
「だから、僕は……僕は、王位を継承します。そして、皆さんの期待に応えられるよう努力をします。これから、どうかよろしくお願いします」
スレインが語り終えると、その場には沈黙が流れた。
気まずい沈黙ではない。臣下たちのどこか安堵したような感情が、空気を伝って静かにスレインに届いた。
「……王太子殿下。殿下のご決心、臣下を取りまとめる身として嬉しく存じます」
セルゲイの厳かな声が、沈黙を終わらせる。
「国王となる殿下には、これから多くのことを憶え、身につけていただく必要がありますが……まず一つ。その口調はお止めください」
「口調……ですか?」
「それです」
びしりと、セルゲイはスレインの口を指差した。
口元とはいえ目上の者を指差すのは無礼な振る舞いにあたるが、我慢ならないと言わんばかりの彼の表情を前に、スレインは何も言えない。
「あなたはこれから、いえ現時点で既に、この国で最も高貴なる人物です。そのあなたが臣下である我々に敬語を用いることなど、あってはなりません。我々の上に立つ者として相応の口調を示していただかなければ。今後は我々の名を呼び捨て、目下の者として扱うよう願います」
「分かりま………………分かっ、た」
ぎこちない表情と口調で、スレインはなんとか答えた。
「それでよろしいかと。では王太子殿下、こちらを」
セルゲイの言葉に併せて、スレインの脇からモニカが進み出る。スレインの前で片膝をついて彼女が掲げたのは――首飾りだった。
シンプルなデザインの銀製の首飾り。その中心にきらめくのは、国石であるルチルクォーツ。幸運を司る石だ。
透明の中に糸のような金の輝きを閉じ込めたそれは、ルチルクォーツの中でも最上級の一品だと、素人目にも分かった。
「これはハーゼンヴェリア王家において、最上の身分にあるお方が身につけることとなっている首飾りです。火事の際、国王陛下は信徒として祭服のみを着用されていたため、この首飾りは無傷のまま残りました……殿下。今はこの国唯一の王族であるあなたが、この首飾りを身につけるべきお方です」
セルゲイに促されながらも、スレインはすぐには動くことができない。首飾りに釘付けになったまま固まっていた。
これは首輪だと、そう思った。
この身を、この人生そのものを、ハーゼンヴェリア王国の玉座へと繋ぐ首輪。それがこの首飾りだ。これを身につければ、もう戻れない。
しかし、今さらだ。スレインは意を決してモニカの掲げる首飾りを受け取った。
そして、それを自身の首に通した。
・・・・・・・
「……なんとかなりましたな」
王太子の去った謁見の間で、呟いたのはヴィクトルだ。
「最初と比べたら見違えておられましたね。臣下の身でこう言っては失礼ですが……今のところ、期待以上のお方ではないですか?」
「確かに。正直、最初は駄目かと思いましたけど……あの短時間であれほど殿下のお気持ちを動かすなんて、フォーゲル伯爵閣下は一体どんな手を使われたんですか?」
「何、大したことはしていない。ただ、殿下の父君――フレードリク陛下の生前の話を少し、お聞きいただいただけだ」
エレーナとブランカの言葉に、ジークハルトはさして誇るでもなく返す。
「それにしても……やはり似ていらっしゃる」
ため息交じりに、複雑な表情でセルゲイが言った。
スレインの顔立ちは相当な母親似で、細く小柄な体躯もあってまるで女性のようにも見えるが、ふとした瞬間の表情は、父であるフレードリク・ハーゼンヴェリア前国王に似ている。
そして何より、瞳の色。
フレードリク・ハーゼンヴェリアは、まるで国石であるルチルクォーツのような金の瞳をしていた。それがそのまま、スレインには受け継がれている。
嫡子である前王太子ミカエルには受け継がれなかったものを庶子のスレインが持ち、そして彼が今は王太子の座についた。なんと数奇な運命か。
亡き主君を思い出させる、新たな主君の顔。彼らがその顔と無心で向き合うためには、まだしばらく時間が必要だった。
★★★★★★★
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