第6話 父

「……ごめんなさい。僕、あんな大切な場面で逃げ出して」


「殿下が謝られることなどありません。殿下のここまでのご事情を思えば、あのような場で動揺されるのも無理のないことです。私の方こそ、殿下を適切に補佐してお心を楽にすることができず、申し訳なく思います」


「いや、モニカさんのせいじゃないです。ただ、僕は……」


 謁見の間を出て適当な一室に逃げ込んだスレインは、後を追いかけてきたモニカの前で、うじうじと言葉を並べていた。


「おお、ここへいらっしゃいましたか、王太子殿下」


 そこへ野太い声がかけられる。スレインが顔を上げると、扉を開け放した部屋の入り口に、筋骨隆々の偉丈夫が立っていた。


「あなたは……確か、えっと……フォーゲル伯爵閣下?」


「左様。憶えていただき光栄に存じます。ですが『閣下』を付けるのはご容赦ください。臣下としての私の立場がなくなってしまいますので」


「あっ、す、すみません」


「いえ、どうかお気になさらず……殿下、少しお話しさせていただいても?」


「は、はい……あっ、座ってください」


 スレインの言葉を受けて、フォーゲル伯爵は手近な椅子に腰を下ろす。


「殿下、先ほどはひどく緊張なされていたようですな」


「……はい」


 フォーゲル伯爵の口調はスレインを責めるものでは全くなかったが、スレインは逃げ出したことに気まずさを感じて俯きながら答える。


「無理もございません。殿下は一平民として平穏に育ち、しかし少し前には母君を亡くされたばかりだと聞いております。そのようなときに王城へと連れて来られ、いきなり次期国王になれと言われ、状況を飲み込む間もなく王太子にされてしまったら、困惑されるのも当然でしょう。私が同じ立場でも逃げ出すかもしれません」


 フォーゲル伯爵はそう言いながら、嫌味のない笑顔を見せた。


「この場での話は内密にいたしますので、どうか本音をお聞かせ願いたい……殿下はやはり、叶うならば王位継承権など放棄したいと思われますかな?」


「……そう、ですね。正直に言って、国王になりたいとは思いません」


 快活な人柄を覗かせるフォーゲル伯爵の声に、スレインはつい本心を語る。


「だって、僕はただの平民ですよ? 母はしがない写本家で、僕は母の手伝いばかりして生きてきました。読み書きや計算はそれなりにこなせるつもりですが、国王になるための教育なんて何ひとつ受けてません。心構えもできてません。とても国王なんて務まりません」


 モニカが静かに部屋を出ていくが、俯いたスレインはそのことに気づかないまま話し続ける。


「それに、自分の父が国王陛下だったなんて、急に言われても……母からは、僕が生まれる前に父は死んだと聞かされてました。誰かを想っているような母の様子を見て、実は父がどこかで生きてるのかもしれないとも思いましたけど……まさか、それがこの国の国王だなんて」


 そこで言葉を切り、スレインは深いため息を吐く。


「……王族の全員が火事で亡くなって、この国が今とても大変な状況にあることは分かってます。僕が王位を継ぐのがいちばん都合がいいということも。でも、ノルデンフェルトかっ……ノルデンフェルト侯爵からは『王家の血を継いで生まれた責任がある』だなんて言われましたけど、そんなこと言われても困るって、思ってしまいます」


 それがみっともない愚痴だとしても、スレインは言葉を吐かずにはいられなかった。


「国王陛下……父には、できることなら文句を言いたいです。母を王城から放り出して、僕に父親だと名乗り出ることもなく、生活を援助することもなく、僕と母をただ放置して。息子の僕と会うことも話すこともなく死んでしまって。そんな無責任な父親の、血筋の責任を、なんで僕が受け継がないといけないんだって……知ったことじゃないですよ」


「はっはっは! 殿下の仰りようを聞いていると、確かにフレードリク殿は殿下に対して、ろくでもない父親だったと言わざるを得ませんな」


 豪快に笑ったジークハルトの言葉に、スレインは違和感を覚えた。

 フレードリク・ハーゼンヴェリア国王を「フレードリク殿」と呼ぶのは、たとえ重臣であっても距離感が近すぎるのではないか。そう疑問を抱いた。


「国王陛下と歳が近かった私は、陛下と肩を並べて育ち、学問や武芸を学びました、陛下は私にとって主君であり、同時に友でもありました」


 スレインの疑問に答えるように、ジークハルトは語った。


「スレイン殿下。一臣下ではなく、あなたの父君の友として申し上げます……どうか彼を許してやってください」


「許す?」


「はい。彼が殿下の母君であるアルマ殿を王城から去らせたのも、殿下に父と名乗り出なかったのも、全ては殿下とアルマ殿を守るためだったのです」


 首をかしげたスレインに、ジークハルトは頷きながら話を続ける。


「当時まだ王太子だった国王陛下は、下級官吏であったアルマ殿と男女の関係になりました。王侯貴族の世界においてこのような話はそう珍しくはありませんが、陛下とアルマ殿の場合はそれが本気の恋になってしまい、さらにアルマ殿は妊娠しました。当時まだ陛下は独身でした。こうなってはよろしくない。国王が正妃を迎える前に愛人を持ち、その愛人が大きな寵愛を受け、正妃より先に子を産むとなると、将来の王位継承権争いは必至です。あのまま状況を放置していては、アルマ殿の子……すなわちあなたが、幼いうちに不審な死を遂げていた可能性もありました」


 自分の生き死にと直結する物騒な昔話に、スレインは顔を強張らせた。


「だからこそ、陛下はアルマ殿をそのまま愛人とせず、彼女が他の仕事を得られるよう根回しをした上で、王城を離れさせました。アルマ殿との関係を断ち、公式にはあなたを我が子と認めずにおくことで、陛下はあなたとアルマ殿を守ったのです。それが唯一の方法であったことは、誰の目にも明らかでした」


「……」


 自分の出生の秘密、自分の知らなかった母の過去に、スレインは聞き入っていた。


「陛下はあなた方に金銭的な援助もしようとしましたが、アルマ殿がそれを拒否したと聞いています。正妃であるカタリーナ殿下の周囲に援助の件が知られれば、陛下が庶子に愛情を持っていると思われて、再びあなたに危険が及ぶかもしれない。アルマ殿はそう考えたのです……援助を断られた陛下は『俺は愛した女とその息子を養ってもやれない』と嘆いておられましたが」


 ややおどけた様子でジークハルトが言うと、スレインもつい小さく笑ってしまう。


「それでも陛下は、アルマ殿とあなたのことを気にかけておられました。もちろん、正式な妻として迎えたカタリーナ王妃殿下とは夫婦として愛を育んでおられましたし、一人息子のミカエル殿下にも惜しみなく愛情を注いでおられましたが、それは別としてアルマ殿とあなたのことも忘れていませんでした。このあたりの心の機微は、お若い殿下には理解しかねるかもしれませんが……男とは、父親とはそういうものなのです」


 ジークハルトはそこで言葉を切り、小さなため息を挟む。


「なので、アルマ殿は年に一度、あなたの成長の様子を手紙にしたため、陛下に送っていました。他の者が手紙を読んでもそれと分からない書き方で、いくつもの場所を経由する運び方で。陛下はアルマ殿の手紙を楽しみにしていました。かつて情熱的に愛し合った女性から届く、彼女との間にできた息子の成長ぶりを知りながら、若き頃の思い出を懐かしんでおられました……親子らしい関係は築けなくとも、陛下はあなたのことを、間違いなく愛しておられました」


 それまで中空を見つめながら語っていたジークハルトは、スレインに視線を向けた。


「あなたの父フレードリク・ハーゼンヴェリアとは、そういう男でした。死の前日、自分の人生が間もなく終わると察したらしい彼は、臣下の中でも側近格であるノルデンフェルト侯爵閣下と私を呼んで仰いました。あなたを次の国王として立て、補佐してやってほしいと。そしてあなたとアルマ殿にお伝えするよう仰いました……こんなことになってすまない、と。残念ながら、アルマ殿は奇しくも陛下と同じ日に亡くなられたようですが」


 ジークハルトは話し終えた。室内に静寂が訪れ、スレインは今聞いた話を、直接会ったこともない父の話を心の中で噛みしめていた。

 そこへ、そっとカップが差し出される。スレインが横を見ると、モニカが微笑みを向けてくれていた。いつの間にか退室していた彼女は、ハーブ茶を用意して戻ってきたらしかった。

 偶然だろうが、ハーブの種類は母が庭で育てていたものと同じだった。

 スレインがカップを手に取り、口元に近づけると、感じるハーブ茶の温度はほどよく温かかった。一口飲むと、様々な感情がすとんと心の奥に落ちていった気がした。


「……はぁ」


 スレインはカップをテーブルに置き、息を吐く。

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