第5話 臣下たち
翌日の昼まで、スレインは戸惑いながら、モニカや使用人たちに言われるがままに過ごした。
入浴。夕食。就寝。起床。朝の身支度。朝食。今までは自分一人で行ってきたこれらの日常行為は、王太子という身分になって様変わりした。
食事中は給仕係のメイドが部屋の隅に立って待機し、副官であるモニカも微笑をたたえたまま脇に控え、スレインが飲み食いする姿を見ていた。
入浴でさえも、浴室専門の使用人(よりにもよって女性)に手伝われながらだった。当然恥ずかしさを覚えたが、使用人は当たり前のような顔でスレインの髪と身体を洗っていた。
寝る段になって、モニカは「夜間も常に近衛兵が寝室を守っておりますので、御用がございましたら彼らにお申しつけください」と言い残し、ようやく自室に帰っていった。
そして翌朝。起床して着替える際も、メイドが二人がかりで手伝ってくれた。
このように、王族の生活というのは、とにかく常に副官やら使用人やら近衛兵やら、誰かしらが傍にいるものらしかった。
その後はまたモニカとメイドに見守られながら朝食をとり、昼前まで時間を潰し、今に至る。
「それでは殿下。臣下の皆様をお招きしてよろしいでしょうか?」
「は、はい。お願いします」
場所は謁見の間。国王の席である玉座には座らず、その前に立ったスレインは、モニカに言われて緊張した面持ちで頷く。
スレインがこれから行うのは、ハーゼンヴェリア王家に直接仕える主だった臣下たち――いわゆる法衣貴族と呼ばれる、爵位と役職を持つ臣下たちとの顔合わせだ。
スレインの許可を確認したモニカが、謁見の間の入り口を守る近衛兵に手振りで合図を送る。それを受けて、入り口の扉の左右に立つ近衛兵たちが扉を開いた。
扉の向こうには、既に臣下たちが待ち構えていたらしい。最も立場の高い王国宰相であるノルデンフェルト侯爵を先頭に、ぞろぞろと入室してくる。
彼らはこの王国の中心を支え、王領と国家の運営を担う重鎮だ。その装いも佇まいも、表情も、堂々としたものだった。誰もが例外なく、この国で一角の人物であるとよく分かった。
だからこそ、スレインは不安に表情を強張らせる。数日前であれば話すことさえ叶わなかったであろう「偉い人」が、群れをなして近づいてくるのだ。怖くないはずがなかった。
臣下たちはスレインから数メートル離れたところで立ち止まり、横一列に並ぶ。
そして、全員が片膝をついて首を垂れた。
「…………み、皆顔を上げ……てください」
この顔合わせの段取りは事前にモニカに教えてもらい、軽く練習もしていた。スレインは段取り通りの台詞を、おそるおそる呟く。
本当は「皆顔を上げよ」と偉そうに言うべきだったが、この錚々たる顔ぶれを前に自分がそんなことを言うのはあまりにも恐れ多かった。
スレインの命令を受けて立ち上がった臣下たちの表情は様々。作りものか本物か分からない笑顔を浮かべる者もいれば、無表情でまったく感情が読めない者もいる。
「王太子殿下。王国宰相、ノルデンフェルト侯爵セルゲイにございます」
最初に口を開き、あらためて自己紹介をしたノルデンフェルト侯爵は、無表情だった。
彼の名乗りの後、後ろに並ぶ者たちが続く。
「王国軍将軍、フォーゲル伯爵ジークハルトにございます」
筋骨隆々の偉丈夫が、迫力のある笑顔を浮かべながら敬礼する。
「王国外務長官、エステルグレーン伯爵エレーナにございます」
深い青色の髪をした優雅な印象の女性が、その印象通りの優雅な所作で一礼する。
「王国近衛兵団長、ベーレンドルフ子爵ヴィクトルにございます」
昨日と同じく無機質な微笑のベーレンドルフ子爵が、整った敬礼を見せる。
「筆頭王宮魔導士、名誉女爵ブランカにございます」
左側の側頭部を短く刈り上げ、右側は長く伸ばすという独特の髪型をした強気そうな女性が、鋭く敬礼する。王宮魔導士という役職やその身分を聞くに、魔法使いなのだろう。
その後も、爵位を持って王家に直接仕える上級の武官や文官たちが名乗る。モニカの父であるアドラスヘルム男爵もいた。彼は役職を農業長官と名乗った。
臣下一同の自己紹介の締めとして、ノルデンフェルト侯爵が再び口を開く。
「以上が、ハーゼンヴェリア王家に仕える直臣の顔ぶれにございます。我らはハーゼンヴェリア王家の忠実なる臣として、王家と王国のため、己の職務に粉骨砕身して参ります……スレイン・ハーゼンヴェリア王太子殿下に、変わることのない忠誠を!」
「「「スレイン・ハーゼンヴェリア王太子殿下に、変わることのない忠誠を!」」」
全員が侯爵の言葉を復唱し、一斉にスレインへと首を垂れる。
「……」
何だ、これは。
変わらぬ忠誠を。自分に。この自分に。
つい昨日までただの平民だった自分に、この国を動かす力を持った貴族たちが揃って頭を下げ、忠誠を誓っている。
何だこれは。何なんだこの状況は。
「……っ!」
スレインは吐き気を覚えた。
無理だ。できない。なれない。
事態を飲み込めないまま、現実味のないまま、言われるがままにこんなところへ来て、こんなところに立ってしまった。
だが、今こうして高貴な身分の人々にひれ伏されて、ようやく実感が湧いてきた。
これは異常だ。こんな、ただの平民だった自分が王太子だなんて。ましてや国王だなんて。
自分の出自も、血筋の責任も関係ない。務まるわけがない。冗談じゃない。
「殿下? ご体調が優れないのですか?」
傍らに控えていたモニカが、心配そうな表情で数歩歩み寄ってくる。スレインはそれを手で制して、もう一方の手は口に当て、必死に吐き気をこらえる。
そのまましばらく喉に力を込め、法衣貴族たちの居並ぶ前で胃の中の朝食をぶちまける無様はなんとか避けて荒い呼吸で気を鎮めると、血の気の引いた顔で彼らの方を向いた。
「……ご、ごめんなさい。できません。僕には無理です」
「あっ、殿下!」
謁見の間から逃げ出したスレインを、モニカが追う。
「「「…………」」」
後に残されたのは、首を垂れたままの臣下たち。彼らはその姿勢をしばらく保っていたが、セルゲイ・ノルデンフェルト侯爵が頭を上げると、皆それに倣った。
「まったく、先が思いやられる……」
「つい昨日までは平民だったお方です。致し方ないでしょう」
どこか弛緩した空気が漂う中で、最初に口を開いたのもセルゲイだった。それにヴィクトル・ベーレンドルフ子爵が冷めた表情で返す。
「私も貧民上がりですから、殿下のお気持ちはまあ、分かりますけど」
少しばかり粗野な雰囲気を滲ませながら、魔法の才によって身ひとつで王宮魔導士に成り上がった名誉女爵ブランカが言う。
「ふふふ、それにしても、なんとも可愛らしい王太子殿下ですこと」
その隣で、外務長官のエレーナ・エステルグレーン伯爵が妖艶な笑みを浮かべて零したのは、そんな感想だった。
「エステルグレーン卿は殿下を気に入ったので?」
「ええ、平民出身の王太子殿下だなんて、どんなお方なのか想像もつきませんでしたけど……なかなかよろしいんじゃなくて? ただ可愛らしいだけじゃなく、賢そうなお方に見えましたわ」
片眉を上げながら尋ねたヴィクトルに、エレーナはクスッと笑って答えた。
「確かに、王家の血を継いでいるだけあって、あのお方は賢そうな表情をされていた。案外、賢明な君主となる素質をお持ちなのではないか?」
この状況を面白がるような表情で王国軍将軍ジークハルト・フォーゲル伯爵が語ると、それを聞いたセルゲイが小さなため息を吐いた。
「卿らの目に殿下がどう映ったかは、今はどうでもよい。まずは王位につくことに前向きになっていただかなければ始まらん。殿下が国王となるためには、何より殿下のご意思が必要なのだからな。だが、あの調子ではとても……」
セルゲイはほとんど嘆くようにして言った。それを受けてジークハルトが動く。
「では、新しい王太子殿下の説得といきましょう」
「卿がやってくれるのか?」
「上手くやれるかは分かりませんが……それでも微力を尽くしましょう。国王陛下のご遺志にお応えするためにも」
ジークハルトはそう言いながら、スレインが走り出ていった扉へとゆっくり歩いていく。
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