第2話 訪問者
不意に、家の扉が叩かれた。
「っ!?」
驚きのあまり声が出そうになり、スレインはそれを咄嗟に堪えて玄関を振り返る。
家事の合間に母の遺品整理を少しずつ進めていたので、時刻はもう夜。夕食も済ませてしまった時間だ。陽は既に落ちていて、普通ならこんな時間に来客などない。
「失礼。スレイン様はいらっしゃいますか?」
扉を叩く音の直後に聞こえてきたのは、少なくとも中年にはさしかかっているであろう男の声による、上品な口調での呼びかけだった。
まったく聞き覚えのない声だ。そもそも、自分を「スレイン様」などと呼ぶ人間はいない。
一体誰が来たのか。こんな時間に何の用があるというのか。わけが分からず、スレインは大きな不安を覚える。
「夜分に失礼。スレイン様はご在宅でいらっしゃいますか?」
再び扉が叩かれる。
燭台の灯りは窓の隙間から屋外にも漏れているだろう。居留守を使うのは無理がある。
スレインは意を決して立ち上がった。
「い、今出ます」
朝にエルヴィンから受けた指摘を意識して、気持ち大きめの声で応え、おそるおそる玄関に近づく。そして、鍵を外し、扉をそっと開く。
家の前には、一台の馬車が停められていた。その馬車を囲むように数騎の騎兵が控えていた。
そして、扉の前――スレインの目の前に立っていたのは、この一行の指揮官と思わしき人物だった。彼の後ろには、さらに二人の兵士が並んでいた。
目の前の男は、見た目からしてただの兵士ではない。胴や前腕など身体の各所に金属製の防具を装着しており、その防具も非常に質の良いものだと分かる。明らかに身分の高い軍人、おそらくは貴族だ。歳はおそらく三十代半ばから後半ほどか。
この国の男の平均よりも背の高いその軍人は、平均より背の低いスレインを見下ろす。
「写本家アルマ様のご子息、スレイン様でいらっしゃいますか?」
「えっ……と」
問われたスレインは、戸惑いの声を漏らした。
目の前の男は、おそらくは王国軍の、将官級の人物だろう。どうしてそんな人間が、小都市の一平民でしかない自分に敬語を使うのか。
「あなた様がスレイン様で間違いございませんかな?」
「……は、はい。僕がスレインですけど」
一体どんなご用件でしょうか、と続けようとしたスレインだったが、目の前の男はそれより先に口を開いた。
「私はヴィクトル・ベーレンドルフ子爵。国王陛下より、ハーゼンヴェリア王家の近衛兵団長に任ぜられております。王国宰相セルゲイ・ノルデンフェルト侯爵閣下の命により、あなた様を王城へとお連れするよう仰せつかっております。ご同行を」
「へっ?」
子爵、近衛兵団長、国王陛下、王国宰相、侯爵閣下。スレインにとってあまりにも非日常的な単語が次々に飛び出し、思わず間抜けな声が漏れた。
ハーゼンヴェリア王国は小さな国だが、それでも王家やそれに仕える貴族ともなれば、庶民から見て雲の上の存在だ。
何故、そんな高貴な身分の人々のもとへ、この国の中心である王城へ、自分が呼ばれるのか。スレインには意味が分からなかった。
「あ、あの」
「さぞ困惑されていることと存じますが、ひとまず馬車へお乗りください。ここでは我々は目立ちます。騒ぎにならないうちに移動しなければ」
その軍人――近衛兵団長ベーレンドルフ子爵は、そう言ってスレインの脇に下がる。彼が手で示した先、スレインの家の前に停まっていたのは、黄金色の瞳をしたカラスの紋章が描かれた馬車だった。
黄金色の瞳をしたカラスの紋章。この国の国石であるルチルクォーツをその眼に宿した、この国の国鳥の紋章。すなわちそれは、ハーゼンヴェリア王家の紋章だ。
王家以外がこの紋章を使うことは禁じられている。この馬車は間違いなく王家の所有物で、このベーレンドルフ子爵は間違いなく王家の遣いだ。
「申し訳ないが、お急ぎください」
物腰は丁寧に、しかし拒否することを許さない口調で子爵は言った。
彼に背を押されるようにして、彼の部下と思われる兵士たちに囲まれながら、スレインは着の身着のままで馬車に乗り込む。
向かい合うように設置された座席の、馬車の進行方向を向く方に座らされ、スレインの正面にはベーレンドルフ子爵が座った。
馬車の扉が閉められると、窓も閉ざされているので車内が真っ暗になる。ベーレンドルフ子爵が車内に設置されていた照明の魔道具を起動すると、小さな光がスレインと子爵の顔を照らす。
間もなく、馬車が動き出した。
「あまり目立たずにあなた様をお連れするよう命じられているので、王城までは夜間に移動することとなります。明朝には道中にある王都防衛用の砦に到着し、そこで休息。夕刻にまた移動を開始し、王都ユーゼルハイムには明後日の朝に到着する予定です」
それだけ言うと、ベーレンドルフ子爵は口を閉じた。
スレインは未だ困惑の最中にあり、ベーレンドルフ子爵はそれ以上は何も説明などはしてくれない。車内は沈黙に包まれる。
少しの時間が流れ、沈黙に耐えられず、スレインは口を開いた。
「……あの、どうして僕が王城に呼ばれるのでしょうか? それに、宰相閣下のご命令で僕が呼ばれるのなら、どうして迎えの馬車が王家のものなんですか?」
王家の馬車に乗ることができるのは、王家の人間か、その客人と認められた者だけだと、スレインは母から聞いたことがあった。国王ではなくあくまで宰相の命令で、ただの平民であるスレインが呼ばれるのなら、でかでかと王家の紋章の入った馬車など使わないはずだった。
「それに、僕にどのようなご用件がおありなのかは分かりませんが、ただの平民である僕の案内役が、どうして近衛兵団の団長閣下なんですか? ……どうして、団長閣下は一平民の僕にそんな丁寧に話されるんですか?」
近衛兵団と言えば、王家を守る精鋭。宰相の命令で連行される一平民の案内役を、近衛兵団長が自ら務めるなどあり得ない。彼は本来、王城を守っているべき人間のはずだ。
おまけに、彼は子爵と名乗った。近衛兵団長で爵位持ちである彼の立場なら、スレインに対して頭ごなしに「宰相閣下のご命令だ。ついてこい」と命じることができるはずだ。
「……」
ベーレンドルフ子爵はスレインの問いかけにすぐには応じず、スレインを見定めるような視線を向けてくる。
そして、意味深な微笑を浮かべながら口を開く。
「申し訳ございませんが、私から詳細をご説明することはできません。私の任務は、あなた様を王城にお連れすることのみです。どうかご容赦いただきたい」
「……分かりました」
スレインはそう答えるしかなかった。スレインの立場で、近衛兵団長の彼をしつこく問い詰めることなどできるはずもない。
ベーレンドルフ子爵はそれきり口を閉ざしてしまい、馬車内を沈黙が支配する。
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