ルチルクォーツの戴冠

エノキスルメ

一章 王の誕生

第1話 母

「スレイン、あなたは賢い子よ」


 母はそう言いながら、スレインの頭を撫でる。

 スレインは母の顔を見上げる。昔の記憶の中の母は、最後に見た顔よりもずっと若々しく、彼女を見上げるスレインは、今よりもずっと幼い。


「だから、その賢さを世の中のために、この社会のために……この国のために使える人間になりなさい。私の愛しいスレイン」


 優しく語りかける彼女の言葉の意味を、当時のスレインは完全には理解できなかった。

 しかし、彼女がよく「この国」という言葉を使っていたことは、はっきりと憶えている。

 母はこの祖国を愛していたのだ。


「……っ」


 そこで、スレインは目覚めた。

 身体を起こして部屋を見回すと、そこにはいつもと変わらない光景。

 サレスタキア大陸西部に位置する人口およそ五万の小国、ハーゼンヴェリア王国。現在は第四代国王フレードリクが治めるこの国の、王領にある小都市ルトワーレの自宅だ。

 しかし、以前と違う部分がひとつだけある。

 ここに母はいない。もう、この世のどこにもいない。それまで特に病気なども抱えていなかった彼女は、しかし四日前に急に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 スレインの父は王国軍の軍人だったと、母から聞かされていた。スレインがまだ彼女の腹の中にいたときに、魔物との戦いで死んだのだと。

 そして、唯一の肉親であった母も死んだ。昨日、彼女の葬式をした。

 スレインは一人になった。


「……」


 自分以外に誰もいない、小さいが丁寧な造りの一軒家。その中で、スレインはベッドから身を起こした。

 季節は晩冬。早朝の空気は未だ冷たく、窓の隙間から入り込む風に顔を撫でられ、身震いする。

 暖炉に近づいて『種火』の魔道具で薪に火を点け、台所に近づいて『沸騰』の魔道具で湯を沸かした。

 そして、母が庭で育てていたハーブを湯に浸け、お茶を作り、ふうふうと吹いて一口飲んだ。話す相手はいないので、起き上がってからここまで無言だった。

 無言のまま、もう二口ほどハーブ茶を口にし、玄関側の窓を開く。大きく吹き込む風は隙間風よりも一層冷たいが、窓の木板に遮られない朝陽は、スレインの孤独感を多少紛らわせてくれた。


「……はあぁ」


 スレインはため息を吐いた。

 母の葬儀も終わって、今日からは本当に一人だ。育った故郷であるこの都市には友人も知人もいるが、少なくとも無条件に甘えられる家族はもういないのだ。

 ようやく今年で十五歳の成人を迎える矢先に、予想しなかったかたちで始まった新生活。やらなければならないことは多い。今後の仕事も確保しなければならないし、母の葬儀はつつがなく終わったとはいえ、彼女の遺品の整理はまだ何も手をつけていない。

 さて、何から始めたものか。スレインは考える。


・・・・・・・


「おいスレイン。いるんだろ」


 一人でパンとチーズの朝食を終えて着替えを済ませた頃、玄関の扉を叩きながら呼ぶ声が聞こえた。誰か尋ねるまでもなく分かる。スレインの隣に住む同い歳の青年、エルヴィンだ。


「いるよ。待ってて、すぐに出る」


「おーい! まだ寝てんのかスレイン!」


「起きてるよ! すぐに出るって言っただろ! 開けるからちょっと待って!」


 スレインは腰かけていたベッドから立ち上がり、扉を開く。よく日に焼けた陽気な表情――見慣れた幼馴染の顔が、スレインの視線よりもやや高い位置にあった。エルヴィンは背が高いし、スレインは背が低い。


「なんだ、起きてたのか」


「最初に呼ばれたときに返事したよ」


「聞こえなかったぜ。相変わらず声が小せえなぁ」


 やれやれとわざとらしく首を振りながら言われ、スレインはムッとした。


「余計なお世話だよ……それで、何か用?」


「別に。ただ、親を亡くしたばっかりの友達が、落ち込んでないか様子を見に来てやっただけさ。ちゃんと朝飯は食ったか?」


「それはどうも。ついさっき食べたよ……葬式は昨日だったけど、母さんが死んだのはもう四日も前だよ? 一人にも慣れてきたから大丈夫だって」


 スレインは努めて平静な表情で答えた。強がっていないと言えば嘘になる。


「そっか、ならいいんだけどな……そんで、昨日はさすがに聞けなかったけどよ、お前これからどうすんだ? 仕事とかさ。何ならうちの商会で雇ってやってもいいぜ?」


 ルトワーレに店を構え、王領内で交易なども行う商会の一人息子であるエルヴィンは、商人の端くれらしく人好きのする笑みを浮かべる。


「あはは、ありがたい申し出だけど、大丈夫だよ。今まで母さんの仕事の手伝いをずっとしてきたし、そもそもあと数年もすれば僕も独り立ちするつもりだったし……少し早いけど、今から母さんの跡を継いで仕事を請け負えないか、母さんの取引先に相談してみるよ」


 スレインの母親は写本家――書物を書き写して写本を作る仕事をしていた。

 そんな母から読み書きを教わり、スレインもよく仕事を手伝っていた。王都の依頼人のもとまで納品に行くのはスレインの役目だったので、母の取引先とも顔見知りだ。


「まあ、そうなるよな。だけどお前、一人で仕事なんてできるのか? 背も低いし顔立ちも子供みたいだし……声も小さいし」


「写本家に身長も顔立ちも関係ないよ。第一、声は言うほど小さくないって」


 スレインはまたムッとした表情になる。母からも「あなたはもう少しはきはき話せるようになるといいわね」と言われることはあったが、仕事に支障が出るほど声量がないわけではない。やや小柄な分、声も少し小さい。それだけのことだ。


「ははは! そうかよ……それでさ、お前のお袋さんの取引先って、王都の商会とか教会とかだろ? 俺も取引のある王都の職人のところに行くんだよ。明後日にルトワーレを発つからさ、うちの馬車に乗って行けよ」


「……いいの?」


「どうせ来週の乗合馬車に乗るか、一人で歩いて行くかするつもりだったんだろ? 乗合馬車は金がかかるし、お前みたいなのが一人で街道を歩いてたら女の子と間違われて攫われちまうって。だから遠慮すんなよ」


 スレインは幼馴染の言葉に苦笑した。

 確かに彼の言う通り、小柄で細身で童顔で、黒い髪を肩まで伸ばしたスレインは華奢な女性にも見える。

 しかし、王領内、それも王都と衛星都市を繋ぐ街道で犯罪が起こることはほとんどない。実際、スレインは何度か歩いて王都とルトワーレを行き来したことがあるが、危ない目になど一度も遭っていない。


「分かった、それじゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」


 それでも、スレインはそう答えた。一人になってしまった自分とできるだけ一緒にいてくれようとする幼馴染の気遣いに、甘えることにした。


「おう、そうしろ。じゃあ出発は明後日な。それまでゆっくりしてろよ。お袋さんの持ち物の片づけなんかもあるだろうしさ」


 それじゃあな、と言い残してエルヴィンは帰っていった。


「……明後日か」


 スレインは呟く。二日もあれば、母の遺品の整理も終わるだろう。

 そして心の整理も。まだ夢の中にいるようなこの浮遊した心も、ある程度は地に足をつけることができるだろう。

 心の休息としては、二日という期間は丁度いい。おそらくはそれも考慮して声をかけてくれた腐れ縁の幼馴染に、スレインは内心で感謝した。


・・・・・・・

 

 エルヴィンが帰った後、スレインは母の遺品整理をして一日を過ごした。スレインの母は質素な暮らしを好んでいたので、彼女の遺品はそれほど多くはなかった。

 衣類や装飾品が少量。どれも高価なものではない。

 書物が数冊。仕事柄、多くの書物を読んできた彼女は、気に入った学術書や歴史書などを自分でもいくらか購入していた。書物は高価だが、あくまで実用品。母らしい持ち物と言える。

 仕事道具である筆記具や植物紙。スレインが母の仕事を引き継げば、これらはそのままスレインが使うことになる。

 化粧台。母の遺品の中で唯一と言っていい贅沢品。派手さはないが上質な作りをしている。売ればそれなりの金になるだろうが、これは母の形見だ。幸い向こう一年ほどは食うに困らない程度の蓄えもあるので、売るつもりはない。

 そして最後に、スレインが開けることを禁じられていた櫃。開くと、中には母の私的な手紙が入っていた。その数は数十通ほど。送り主ごとにまとめられていた。

 王都の孤児院で育った母は、そこで読み書きを覚えた後、若い頃は王城で下級文官として働いていたのだという。軍人の父ともそこで出会ったと、スレインは聞かされていた。

 手紙のやり取りをした相手は、母の昔の同僚たちのようだった。皆、王城の元文官や元使用人で、今は引退して家庭に入っているとスレインは母から聞いていた。送り主の中には、スレイン自身も会ったことのある人物の名前もあった。


「やっぱりないか……」


 母に悪いとは思いつつ、それらの手紙の内容にざっと目を通したスレインは、ため息を吐く。

 スレインが探していたのは、父からの手紙だ。

 母は昔、何度か縁談を受けたものの、頑なに再婚はしなかった。そして、時おり誰かを想っているような表情を見せたり、息子に隠れるようにして何やら手紙を書いたりしていた。

 母は死んだ父を今も想い、父の家族に手紙を書いているのだ、と見ることもできた。しかし、それにしてはどこか違和感があった。

 彼女は思い出の中の夫ではなく、今もどこかにいる誰かを思い浮かべているように、スレインの目には見えた。父の親類がいるのなら、彼らにスレインを会わせないこともおかしかった。

 なので、父の死についてスレインは疑わしく思っていた。どこかで生きていて、名乗り出ることのできない事情があり、それでも密かに母と、時おり手紙を交わしていたのではないかと。


「……」


 だが、父からの手紙は無かった。母が全て処分してしまったのか、あるいは母から一方的に手紙を送るだけで向こうからは届いていなかったのか。全てはスレインの勘違いで、父は本当にもうこの世にいないのか。

 別に、手紙が無いなら無いで構わないと、スレインは思った。

 今までも父親のいない人生を生きてきたのだ。父がどこかで生きていても、死んでいても、会うことがないのならば同じだ。今までの人生と何かが変わるわけでもない。

 スレインがそう考え、父という存在を頭の中から完全に消し去ろうとしたそのとき。

 不意に、家の扉が叩かれた。

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