第8話 アリス
「そーよね、あんたは姫様にしか興味がないものね。
私のことなんか、まったくっ、これっぽっちもっ、興味なんかないんだものねッ!」
「お前は強いだろ、守る必要もないくらいに」
姫様は弱い。だから、ディンゴが守る必要があるのだ。
「そういうことを言ってるんじゃないのよッ」
地面を蹴って、息を切らし、叫び終えたエナが大きく呼吸を吸って落ち着きを取り戻す。
そうやって自制できるところが、彼女の強さとも言えた。
「もういいわよ、慣れてるし……昔からあんたは変わらないから」
次第に、彼女の表情が穏やかになっていく。
緊張が解かれて、柔らかくなったようだ。
「変わらないから安心できる。あんたは姫様以外に揺れないものね」
つまり、エナに傾くことはないと自身で言い切ってしまっているのだが。
姉(エナからすれば)であり、幼馴染である自分ならば、その揺れない意志も長い時間をかけて溶かすことができると自信があるのかもしれない。
彼女の安心は、脅かす敵がいないところにある。
「……結局、機嫌は直ったのか?」
「全部が終わった後に、あらためて食事に誘ってくれるのなら」
「飯くらい、いつでも一緒にいってやる。
……数年前まで毎日、一緒に囲んで食ってたはずなんだけどなあ……」
「今、それをしていないのが問題なの。でも、やったっ――絶対だからね!」
騎士様っ、と呼ばれて、エナが小走りで仕事に向かっていった。
「はぁーい!」
と、状況に似合わない、ふわふわとした返事をしながらである。
しかし、彼女が笑顔なので、現場のどんよりとした薄暗い空気が、ぱぁっと明るくなったように感じる。介抱されている怪我人の表情も、次第に笑顔へ変わっていった。
「へえ。すげえなあいつ」
ああいう救い方もあるのかと、ディンゴは感心したが、彼女の笑顔を引き出したのが自分だと、今になっても気づいていなかった。
「姫サンッ!!」
アルアミカが見ているとは言え、姫様から長時間に渡って目を離すことにがまんができなかった。自分の知らないところで命を奪われているなんて経験はもう二度としたくない。
国も大事だからと出向いたはいいが、やはり姫様のことが気になり仕事が疎かになってしまう。自分のことで精一杯であるはずの人々から心配されるくらいに、ディンゴの様子は分かりやすく焦っていたようだ。
少し休んだ方がいい、と傷だらけの年老いた女性に言われるほどである。
仕事の途中であったが、近くにいた騎士に全て押しつけ、全速力で部屋に戻ってきた。
町の状態は最悪からは逃れたが、依然、酷い状態であることに変わりはない。
中でもやはり、人々の不安の増大が顕著だ。町が修復されようとも、人々の心の拠り所が戻らなければ、酷い状態は完全には回復してくれないだろう。
……姫サンが一声かけてくれるだけで、失った士気を取り戻せるはずなんだ……っ。
感情が先走り、勢い良く扉を開けたことで、ベッドの上にいた二人がびくっと揺れた。
「なっ、ノ、ノックくらいしてよ、本当にびっくりしたんだから……っ」
「姫サン、目を覚ましたのか」
アルアミカの怯えた様子はともかく、泣き疲れて眠っていたはずの姫様が体を起こしていた。
ディンゴの慌ただしい扉の開け方に驚き、アルアミカの背中に隠れてしまったようで、控えめに片目だけを出してこちらを覗き込んでいる。
服をつまむ、なんて掴まり方ではなく、アルアミカの後ろからお腹に手を回してぎゅっと抱きしめている。見覚えのある懐かしい光景だ。
かつては、母親である王女にこうして甘えていた姿をよく見ていた。昔と今では違うが、母親にしていたことをするくらいに、姫様はアルアミカに心を許しているらしい。
「姫サン、起きたところ悪いが、少しだけでいいから顔を出してくれ。
あんたが元気でいるところを見せれば、きっと全員の士気が上がるはずなんだ!」
「ちょっとっ、この子、今は――」
「分かってる! 姫サンに背負わせる気はねえよ、ただ立ってくれてるだけでいい……。
今は国の全員が宙ぶらりんの状態なんだ、一刻も早く地に足をつけねえと、誰も立てなくなっちまうッ!」
ディンゴが手を差し伸べるが――、
しかし姫様はいつもとは違う様子で怯えて、顔を隠してしまった。
「……また、やなことやらされるから、父上、きらい」
「は……?」
きらい、という言葉に、足ががくりと崩れそうになったがその前だ。
――父上、だと?
今、ディンゴを見て、姫様は父上と言った?
「……俺だ、ディンゴだ。……覚えてねえのか……?」
「…………? 父上と、母様。他に誰かいるの……」
周囲を見回し、いるはずのないもう一人を探しているようだ。
アルアミカが、「誰もいないから大丈夫」と言うと、えへへ、と姫様が表情を緩ませる。
……なにが起きてんだ……?
「わたしはいかないよ、なにもしないもんっ……ほら、出てってよ。
母様と一緒に本の続きを読むんだから」
「待て、姫サン――」
「父上のばーかっ。ぜったいに従ってやるもんかっ」
アルアミカの後ろから出てきた姫様に、背中を押されて部屋から出されてしまった。
ばたんっ、と強く扉を閉められてしまう。
しかし、鍵はかかっていないので、ディンゴがすぐに扉を開こうとした時だ。
「っ、姫サン、小芝居に付き合ってる暇はねえんだ、国の存続がかかってるんだぞ!?」
ディンゴが触れる前に、扉が開いた。
顔を出したのは、アルアミカだった。
「本を取りにいくって説明して出てきたんだけど……書斎の場所って分かる?」
「お前……、姫サンになにをした」
「はぁ、いの一番に疑われるのね。まあ、そりゃそうよね……。でも、わたしはなにもしていない。あの子が壊れないように支えていたんだから、褒めてもらいたいくらいよ」
「そのやり方次第で、あんな風に変わったんじゃねえのかよ」
「ああなったのなら、それはあの子の自衛なんだと思うわよ? ……分からないの?」
彼女の視線に射貫かれる。
非難の瞳にじっと見つめられ、ディンゴの方が先に逸らした。
「率直に言うわね」
構わず、アルアミカがそっと扉を開けて中を覗き込む。
隙間から見える部屋の中では、ぼろぼろになった人形を愛でている姫様の姿があった。
彼女の目には、あれが綺麗な人形に見えているのだろう。
実際は焼け焦げ、各部品が溶けてしまっているのだが。
「現実逃避で演技をしているわけじゃない。あの子には本当に、わたしが母親に見えているし、あんたが父親に見えてる。……あの子自身はたぶん、今よりも幼い頃の姿なんじゃないかしら? そう思っているはずなのよ。いつ頃かは、あんたの方が詳しそうだけど……」
つまり、と、
アルアミカがそっと扉を閉めた。
「あの子は記憶を失ってる。
そして、取り戻したい日常を再現してるのよ……わたしとあんたを使ってね」
国の危機も、自身が魔女になったことも、精神だけが幼児退行した姫様には、なに一つ覚えていない事実だ。
両親が死んだことも当然、知りもしない。
教えたところで、彼女の年齢が今いくつなのかまだ分からないが、信じるはずもないだろう。
荒療治で元に戻せるような状態でもない。
多大な負荷がかかったことによって姫様自身が己を守るために選択した結果なのだ。
これが最善。であれば、時間が解決することを慌てて力で起き上がらせては、逆に負荷がかかり、姫様が壊れてしまう可能性がある。
しかし、国のためにも、姫様の療養に長い期間を設けるわけにもいかない……。
しかも、魔女に狙われているという二重苦を孕んでしまっている。
「……どうすりゃいいんだよ、こんなの……!」
いっそのこと、姫様だけを抱えて国から飛んでしまうかと考えたが、未知の領域である竜の足下へ落ちるのは自殺行為だ。
国が崩壊しても、魔女に狙われても、竜から飛び降りても……、どこへいこうと命の危機には変わりない。
そしてディンゴもまた、自身の力に疑いを持ってしまっている。
次、姫様が襲われたとして、自分の力で守り抜けるのか――と。
不安要素が重なり合い、人々が抱える精神的ストレスを、ディンゴも同じく抱え込む。
彼の拠り所は姫様だった。しかし、彼女の命はあるものの、記憶がないという……、
数度、交わした会話で分かったが、姫様の中に今、自分はどこにもいないのだ。
それが最も、精神的にきつい……。
彼もまた、拠り所を失ってしまったのだった。
「どーするのよ」
能天気にも聞こえる声で、元魔女がそう言った。
人の気も知らねえで……ッ。
と、八つ当たりしかけたところで、彼女の手がディンゴの手を取った。
そのまま、再び部屋の中へ連れていかされる。
「母様……! と、なんで父上……?」
姫様は嫌そうな顔をしたが、すぐ後に、心配そうな顔でこちらを見つめた。
「今日は三人で遊ぼっか」
「お前、なんのつもりだよ……」
掴まれた手を振り払おうとしたが、がっしりと掴まれていて払えない。
絶対に逃がさない、とでも言いたげな力強さだった。
「本じゃなくて、わたしが知ってる昔話を話してあげる」
それは、竜と魔女と――、
彼女たちが巻き込まれた、順位を奪い合う遊戯のお話だ。
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